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4-6-2 士と庶の際

2019-07-24 19:59:16 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年

6 江南の王朝
2 士と庶の際(けじめ)

 南朝の政権は武人によって立てられた。しかしながら、南朝の社会のかがやかしい勢力は、武人ではなかった。
 それは魏晋以来の、さらにさかのぼれば後漢以来の歴史をせおい、ながい伝統をほこる門閥(もんばつ)貴族であった。
 むかしの中国には、自由業というものはない。
 官僚になることがインテリにとって、ほとんど唯一の人生のコースであった。
 しかも、これらの門閥貴族は、どんなにぼんくらであっても、家柄さえよければけっこうな官位にありつけた。
 九品官人法(きゅうじんかんじんほう)とよばれる官吏登用法のおかげである。
 「車から落っこちなければ、それで著作郎(ちょさくろう)、ご機嫌いかがですかと書ければ、それで秘書郎(ひしょろう)。」
 著作郎とか秘書郎とかいうのは、貴族のわかものの将来の出世を約束してくれる初任官として、もっとも人気のあったものであるが、このようなことわざの生まれるのが、この時代であった。
 王朝に功労のあったひとりの貴族は、郡の長官にとりたててやろうと天子からいわれたときに、こういってきっぱりことわった。
 「貧乏をあわれんで、身いりのよい職につけてくださるのならありがたいが、てがらを認められたうえでの抜擢(ばってき)は、家名をきずつけます。」
 家柄によって官位はえられる。王朝に対する功労によって官位をうるのは恥だ。
 家門たかき貴族はそのように考えたのであった。
 かれらは、短命な王朝にかかわりなく、貪欲に七の生活をたのしみつづけた。
 くりかえされる王朝の革命に際しても、王朝と迎命をともにするどころか、あたらしい王朝にあっさり鞍がえした。
 家門の維持が、もっとも大切なことと考えられたからであった。
 ところで、これらの貴族は、すべて士族の階級に属した。
 士族の下には庶民階級が存在し、「士と庶との際(けじめ)は天よりして隔(へだ)たる」という言葉に示されるように、士族と庶民とのあいだには、こえることのできない明確な一線がひかれていた。
 王朝のもとに生活する人間には、租税とともに、土木工事や軍需品の輸送などの徭役(ようえき)の義務が課せられるたてまえであるが、士族には徭役免除の特典があたえられていたのである。
 すべてが士族階級に属する貴族集団の内部には、さらにまたさまざまのヒエラルキー(階層)が存在し、それぞれの門閥の番付がきまっていた。筆頭に位するのは、晋王朝の江南侈転にあたつて行動をともにした、北方からの流寓(りゅうぐう)貴族であった。そのなかでも、とりわけ格がたかいのは、王氏と謝氏の二門閥である。
 そしてふしぎなことに、江南土着の貴族はかえって第二流と考えられた。
 江南に王朝ができるまで、中国ぜんたいからみると、そこが辺地のいなかだったからであろう。
 さらに下層には、一定の地域社会に顔はきいても、中央政界とはあまり縁のない土豪が存在した。
 この番付がもっともやかましくいわれるのは結婚のときであり、対等の家柄のあいだで縁組がおこなわれねばならなかった。上をあおげばいくらでも上があり、下をのぞめばいくらでも下のある社会、それが貴族社会なのである。

 貴族からみていやしい家柄は寒門(かんもん)とよばれ、寒門の出身者は寒人(かんじん)とよばれた。
 寒人のなかには下級士族のものもあっただろうが、その多くは庶民階級であったと考えられる。
 さまざまのヒエラルキーからなりたつ貴族社会は、天子の権威をもってしてもつきくずすことのできない独自のルールによって動いていた。
 宋の文帝の寵臣(ちょうしん)に、王弘(おうこう)という成りあがり者がいた。あるとき文帝が言った。
 「おまえは貴族のなかまいりをすることを日ごろの念願としているが、王球(おうきゅう)の家にでかけたうえ、着席がゆるされるかどうかで、きまるであろう。
 王球のところにいったなら、勅命をえているといって、さっさと腰かけるがよい。」
 王球は一流中の一流の名門である。さて王弘がやってきて腰をおろそうとすると、王球は扇(おうぎ)をかざしつつ、「ならぬ」との一言。
 王弘はすごすごひきあげざるをえなかった。
 文帝は「朕(ちん)にもいかんともすることはできぬのだ」と、ためいきをついた。
 そもそも南朝の天子は、武人の出身である。武人の家柄はおおむねいやしい。
 というよりもいやしい生まれのものが天子になった、というのが正しいであろう。
 家柄のことばかりをとやかくいう貴族社会にいられない寒人たちにとって、じぶんの実力がすなおに評価される世界、それが武人の世界にほかならなかったからである。
 だが武人出身者による王朝が、いったんできあがってしまうと、王室は貴族社会の手なおしをすることよりも、ひたすら貴族化の道をたどった。
 その端的なあらわれは、王室と一流貴族たちとのあいだにかわされる縁組である。
 しかし、その出身がいやしいために、内心では王室を小馬鹿にしている貴族たちは、天子の娘をおしつけられて、かえってありがた迷惑を感じた。
 貴族たちとしては、天子はただ貴族社会のルールを承認し、じぶんたちの権利と安全を保証してくれさえすればよかったのである。
 宋の文帝の三十年におよぶ治世が、そのときの年号をとって「元嘉(がんか)の治(ち)」の名のもとに称賛されたのは、貴族の代表である朝臣の意見を、文帝がじゅうぶんに尊重し、天子と貴族による一種の合議政治がおこなわれたのを、まことに結構なことだ、と感じた貴族の心情をものがたっている。
 一方、王朝革命のさいにいつも主動力となる武人は、いったん革命が成功してしまうと、革命の進行中にはせいぜい知らぬふりをよそおっていた貴族によって、その成果を横どりされてしまった。
 そして、じぶんたちの親分であるべきはずの天子は、貴族となれあいの関係を生じ、武人たちは礼会の下ずみにおきざりにされたままであった。
 武人はあらたに別の親分をさがさねばならない。
 こうして、つぎつぎに軍隊によってかつぎあげられた野心家の諸王や将軍の挙兵があいつぎ、それが失敗すると、こんどはそれをたいらげた将軍が権力をにぎる。
 宋から斉へ、斉から梁への王朝交替は、どれもこのような経過をたどったのである。

世に救い主をもたらしたおとめ ほめたたえよう 清いおとめ マリアを(聖エフレム)7-2

2019-07-24 04:55:56 | 聖母讃歌
『ほめたたえよう 清いおとめ マリアを』聖エフレム原作、デルコル神父、江藤きみえ 共訳・編

◆7-2、救い主をもたらしたおとめ

第2考察 世に救い主をもたらしたおとめ(聖マリア)

聖エフレムは、マリアの清けさと、偉大さと、ありがたさとを、つぎのように歌います。

③ 星がでると、わたしたちは、マリアのことを考えます。すべての星のみあるじが、おあらわれになったからです、わたしたちのために。〔マりアのおん子である〕みあるじこそ、この世に生まれて、やみを追いだし、遠い国の民ぐさまで、その光線で、おてらしになったので、かれらは、おくりものをたずさえて、はるばる訪ねたべトレヘムの、うまやのなかで、これをささげ、ひれふして拝んでから、故国へ帰っていきました。

④ 天地万物は、このよき日、ひびかせますように、ほめうたを。すべての人は、くちに、あふれさせますように、ほまれの歌を。人々は、賛美のしらべで、舌をふるわせ、もろもろの民は、こぞって、歌いますように、ことほぎの歌を。"いと高きところには、主に光栄、地には、すべての人々に平和、世のために、救い主がお生まれになったから"と。

⑤ 感嘆すべきまぼろしをみた、あの〔予言者〕エゼキエルは、このよき日、よろこひに、あふれるでしょう、その予言のとおりに、実現したからです。バビロンの、さすらいのときに、閉じたままの門をみて、かれはいいました、"この門は、封じられたままに残るだろう、主がここを通って、はいるから'と。封じられていたその門は、マリアのことで、この門を通っておいでになったキリストは、これを開けずに、おはいりになったのです、この世に!〔この偉大なふしぎの前に、〕さぐり人たちは、何をいうことができましょう?



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聖アポリナリス司教殉教者     St. Apolinaris E. M.

2019-07-24 04:51:13 | 聖人伝
聖アポリナリス司教殉教者     St. Apolinaris E. M.      記念日 7月24日


 ローマの暴君ネロは聖会に猛烈な迫害を加え、信者達を或いは猛獣の餌食とし或いは生松明として焼き殺すなど残虐の限りを尽くし、それでキリスト教を全く根絶し得たものと思い上がっていた。しかし使徒達はいち早く後継者を定めて宣教師を選び、わが亡き後を委ねておいたから、布教は厳しい当局の取り締まりの目をくぐってなおも続けられ、それに数々の責め苦拷問にもめげず従容死に赴く殉教者達の壮烈な態度は、いたく人々の心を動かし、新たに聖教に帰依する者も少なくなかった。かくて聖ペトロ、聖パウロ両大使徒が殉教した時には、ローマ以外にも数名ないし数十名の信者を有する都市がいくつもあったが、中でも比較的早く教会が出来たのはイタリアの北部にあるラヴェンナ市で、その創立者こそ他ならぬ聖アポリナリスという司教であった。

 古い伝説によれば彼は親しく聖ペトロの命を受けてその町に行ったという。それに就いてはあいにく歴史に何の確証もないが、万一それが誤りであるとしても、兎に角教皇の聖座のあるローマからラヴェンナに乗り込み、ペトロのような使徒的精神を以て布教に活躍したことは疑いない。そしてさまざまの奇跡を行い、間もなく少なからず信者を得てその最初の司教となったのであった。
 アポリナリスが祈祷によって行ったと伝えられている奇跡の中、主要なものが三つある。その一つは耳が聞こえず口が利けなかったボニファチオという貴族が治って物をいい、その二つはその娘に憑いていた悪魔が追い払われ、その三つはルフィノという人の娘が死後蘇らされたことである。
 アポリナリスの目覚ましい伝道振りはやがて世人のあまねく人の知る所となり、彼は異教の僧侶達に敵視されるに至った。時あたかもローマに迫害が始まったという噂も伝わったので、彼等はこれ幸いと早速アポリナリスを捕らえ、総督の白州へ引き立てて行った。
 総督は彼に信仰を捨てさすべく、まずその全身を見るも痛々しいまでに鞭打たせ、次いで真っ赤に灼熱した鉄の上を裸足のまま渡らせるなど、残酷な責め苦拷問にかけた。ところが不思議にもアポリナリスは何の障害も受けなかったから、総督はじめ居合わす人々は大いに驚き、詮方なくこれをその町から追放することにした。
 しかるにアポリナリスは「わが名の為に汝等すべての人に憎まれん。されど終まで耐え忍ぶ人は救わるべし。この町にて迫害せられなば他の町に逃れよ」(マテオ10・22-23)という主の聖言を思い、他の町へ行きそこで福音を宣べ伝えた。その為彼はまたも裁判所へ引かれ、棄教を強要され「小さき馬」と称する責め道具にかけて身体を引き伸ばされたり、煮え返る熱湯を浴びせられたり、石や歯や顎を砕かれたり、散々苦しめられた末丸木船に乗せられ海中深く沈められようとしたが再び天主の御加護に一命を全うして無事トラキアの海岸に漂着したのである。
 アポリナリスはその地に於いても暫く布教を試み、後ラヴェンナに帰って久しく牧者を失っていた子羊の群を懇ろに指導したが、幾ばくもなく三度捕らえられて法廷に送られた。しかし法官は彼を助けたいと思い、人知れずこれを逃がしたところ、数人の兵士達は異教の僧侶達にそそのかされて不意に棍棒でめった打ちにし彼の倒れるのを見すまして立ち去った。
 やがてキリスト信者達は彼を見いだし大いに驚いたが、なお息があるようなのである所に運び手厚い看護を加えたけれども彼が善の為に迫害を忍んだその報いを受くべくこの世を去るのは、既に天主の思し召しであったのであろう、一切の手当もかいなく受難の7日後アポリナリスは永遠の眠りについたのであった。

教訓

 「我はわが羊の為に生命を棄つ」(ヨハネ10-16) 聖アポリナリス司教は主イエズスと共に心からこういうことの出来る幸福な人の一人であった。我等も自分に委ねられた人々の為に、同じ犠牲の精神、同じ責任感を以て尽くすよう心がけてその為絶えず天主の御助けを求めよう。


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