聖マリア・ゴレッティおとめ殉教者 St. Maria Goretti Virgo M. 記念日 7月6日
マリア・ゴレッティは、20世紀の聖アグネスとも称せられているが、これは何も彼女が生前アグネスと名のっていたからとか、またアグネス同様イタリア人であるからという訳によるのではない、彼女がかのキリスト教初期の聖女のように、責められながらも童貞を清く守り通して死んだということによるのである。
マリア・ゴレッティは聖アグネスの如く、立派な邸に生まれた人ではなかった。またかの聖女の如く、何不足のない教育を受けられるような恵まれた境遇の子でもなかった。即ちその両親は始めは貧しい日雇い、後には父の死ぬまでローマの南方にある、コリナルドという辺鄙な一小村に小百姓をしていたような身分で、その財産と名のつくものは猫の額ほどの土地と、起居する小屋とに過ぎなかったのである。彼女は1890年のロザリオの聖月、即ち10月の16日に、三番目の子として産声をあげた。親は聖母を崇める心から、これにマリアという名をつけ、またその誕生日が聖女テレジアの祝日の翌日に当たったところから、テレジアという別名をつけ、日常はマリエッテ(小さいマリア)と呼び慣わしていた。
もと兵隊であった父親も、激しい労働には堪えられず、マリエッテが九つの時に死んだ。彼女は善く父母の手助けをして、二人の愛子であったが、父は「自分が死んだら、今まで自分に対してしたように、よく母さんの言う事をきくように」とくれぐれも言い残して世を去った。この父親の死と、その頼みとが、どれほどマリエッテの心に深い感銘を与えたものであろう、彼女は急に五つも年を取ったように見えた。
ゴレッティの家は、教会からも学校からも、非常に遠く離れていたので、その子供達は宗教や学問の授業を受けることが出来なかった。その代わりに信心深い母親が、自ら善い鑑となり、折りにふれて適当な訓戒を与え、子供らの知らないことを教えなどした。わけてもその彼等の心に吹き込んだのは、どこにでも在す天主を畏れ敬う念であった。その部屋に掲げられた聖母の小さい聖絵は、実に彼等の為には、立派な聖堂にある美麗を極めた御像以上のものであったのである。
マリエッテは5歳にして早くも兄アンジェロと共に堅信の秘蹟を受けた。けれども御聖体は、11歳を迎えて始めて拝領した。その前に彼女が、どうかそれに就いて神父様にお願いして下さい、と頼んだときの母親の驚きといったらなかった。「しかしマリエッテや、どうしてそんなに早く、初めての御聖体拝領のお許しなど願えるものか。お前はまだそれに必要な、公教要理の勉強もすましていないじゃあないの。それに必要な事をすっかり憶えたところで、御聖体拝領の衣服や、ヴェールや、靴などを買うお金はどこから出る?おまけに私達は一日いっぱいこんなに忙しいのだもの、とても勉強する暇なんかありゃしないよ!」と母親が言うと、マリエッテは悲しそうに答えた、「でもママ、それじゃいつまで経っても、わたし御聖体拝領が出来ないじゃないの。わたし、もうとてもイエズス様なしにいられないわ!」で、母親もつらくなって「ああ母さんはどんなにお前を学校へやってあげたいだろう!だが、こんなに貧乏暮らしなのだから、赦しておくれ!」と詫びると、娘は言った、「ねえ、ママ、わたし自分の仕事はみんなしますから、中休みの間だけコンカへやって下さいな。あそこには日曜になると神父様もおいでになるし、読み書きの出来る小母さんもいらっしゃるから・・・」その結果、マリエッテは9ヶ月の間、そこへ通って御聖体拝領の為の授業を受け、それから1901年6月16日に初めて御聖体を頂いたのであった。その衣服や、ヴェールや、花の冠や、靴などについては、親切な人達が心配してくれた。
御聖体にこもり給う主はまた彼女にとって、実際必要でもあった。何となればやがて早くも貞潔を守る為の戦いが始まり、主のお助けがなくては到底その戦いに堪えられなかったかも知れないからである。父親が死ぬと、ゴレッティ一家は余儀ない事情からその家に、ゼレネリ家の人々も同居させねばならなくなったが、この人達はゴレッティの母娘を、まるで女中同様に追い使うのであった。中でもひどいのは我が儘一方に育った17歳の息子アレッサンドロで、彼はマリエッテに部屋掃除のような汚い仕事を強いるばかりでなく、果てはそのこよなき実なる乙女の操までも破ろうとするに至ったのである。
既にして彼は彼女をそそのかして、卑しい欲望を遂げようとしたが、彼女が強く拒否するとこの事を少しでも母に漏らしたら、殺してしまうぞと脅かした。マリエッテは意地悪のその少年が、自分ばかりか母や兄弟まで苦しめはせぬかという心配ぁら、何事も打ち明けず、ただ母に自分を独り家に残さぬようにしてくれと頼んだ。しかし母親はそれを独居に対する子供らしい恐怖の為と思い、右の頼みにも拘わらず、家の用事と末の妹の守をさせる為に彼女を残したまま、他の人と一緒に、仕事に出かけたのである。
その内に1902年の7月5日になった。それは土曜日で、キリストの聖き御血の祝日であった。その日彼女は隣の女性とまた御聖体を拝領しに行く約束をしていたので、朝の内からもう御聖体にこもり給う聖主のことばかり考えていた。正午にみんなは帰って来た。アレッサンドロは自分の部屋に彼女をおびき寄せようとして、その為にわざわざ破れた汚いシャツを寝台の上に広げ、針や、糸や補修にあてる布きれなどをそこへ置くと、「おいマリエッテ、シャツを繕ってくれ!」と大声で呼んだ。しかし彼女は早くも彼の本心を見抜いたので、わざと返事もしなかった。彼がもう一度呼んだ時、母親が「お前、あれほどアレッサンドロさんが頼んでいるのに、聞いてあげないの?」と言った。そこで彼女は隙をうかがってそのシャツを持ち出し外でそれを繕ってやった。アレッサンドロはとうとう目的を達せずに、他の人々とまた仕事に出かけねばならなかった。
けれどもそれから間もなく、彼は独り戻ってきた。マリエッテは血も凍るほど驚いた。彼は家の中に入ると、「マリエッテ、こっちへ来い!」と呼んだ。彼女は返事をしなかった。そしてもう一度呼ばれた時、「どういう用?」ときいた。「何でもいいから、入れ!」「いいえ、あなたが家の中でわたしに何をさせるつもりか、それを言わなければ、入りません!」これを聞くと相手は憤怒に身を震わせながら外へ跳び出し、彼女を掴まえると、遮二無二中へ引きずり込んで戸を閉めた。
「あなたのしようとしている事は、天主さまがお許しになりません。わたしもそんな事をされながら黙ってはいませんよ!」続いて彼女の貞操を奪おう、許すまいとする激しい格闘が起こった。相手はついに思いを遂げ得ないと悟ると、そういう場合の為にとあらかじめ用意しておいた短刀を手に取り、彼女を滅多斬りにして、14カ所も傷を負わせ、その倒れるのを見て死んだものと思い、そのままどこかへ逃げ去ったのである。
それからしばらくすると、母親が帰ってきて、血汐にまみれて倒れている愛するマリエッテを見つけ、大騒ぎになった。彼女はすぐさま車に乗せられ、ネッツーノの病院へ運ばれたが、あらん限りの手当も遂に効を奏しなかった。天主は彼女に純血殉死の栄冠をお授けになる思し召しであったのである。
「ママ、水を一口下さいませんか。」「マリエッテや、それが上げられないの。医師に厳しくとめられたから・・・」「一滴でも駄目?ほんの唇を濡らすだけなの・・・」「マリエッテや、十字架上のイエズス様のことを考えて頂戴。母さんもつらいけど、あげる訳にはいかないの」
苦しみは26時間ばかりも続いた。こうして彼女が世を去ったのは、7月6日午後3時45分のことであった。その黄泉路の糧にと、御聖体をもたらした神父は、彼女にこう言い聞かせた、「マリエッテさん、あなたも知っている通り、主は十字架上でその敵をお赦しになったばかりか、その為に祈りまでなさいました。ね、あなたも自分をこんな目に遭わせた相手に対して、やはりそうするでしょう?」「はい、神父様、わたしはあの人を赦し、あの人もやはり天国に入って私のそばへ来るようお祈り致します」そして最後にその口から漏れたのは、「ママ、パパが・・・」という言葉であった。
マリア・ゴレッティはそれから45年を経て、1947年4月27日、ローマの聖ペトロ大聖堂に集まった小学校生徒その他を合わせ三十万の大会衆の面前で、福者の位を贈られ、更にその三年後、即ち聖年に当たる1950年の6月25日、聖者の列に加えられた。そして彼女の為におびただしい著書や論説が世界各国で発表され、また「沼地の曇天」と称する映画も製作された。彼女を殺した犯人は、長い間牢獄にいたが、後改心した。マリエッテの母親は幸いにもなおながらえていて、娘の列福列聖の盛儀を目の当たりに見た。そして聖ペトロ大聖堂の内外に満ち溢れた青少年の群れは、彼女に向かって「ヴィヴァ・ラ・ママ!(ママ万歳!)」と歓呼したのであった。
教訓
「幸いなるから、心の潔き人!」キリストのこの御言葉は、年齢僅か11歳と9ヶ月の聖少女マリア・ゴレッティにおいて、その真実なることが実証された。我等も彼女の如くに生き、彼女の如くに死するならば、この御言葉はまた我等においても成就するであろう。
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