浦川和三郎司教『新約のはなし』1949年、中央出版社
第6課 たとえ話(3)天主様の御慈愛のたとえ
68
○罪人がいよいよ改心しようというとき、天主様は果たして情けをおかけくださるでしょうか
△御主は天主様の底知れぬ御慈愛を見せ、罪人が悔い改めて正しい道へ立ち返るや、どれほど喜んでこれをお受けになるかということを明らかにするがため、迷い羊と、失せたる銀貨と、放蕩息子のたとえを語られました。
69
○迷い羊のたとえをお話しください
△「皆さんのうちに、誰か100頭の羊をもっていると致しなさい。そのうちの一頭を失いましたら、99頭を野において、その迷い羊を探しませんか。そしてこれを見出したら、喜んで己が肩にのせ、家へ帰って、友達や隣人を呼び集め、
『私と共に喜んでください。失った羊を見いだしましたよ』
と言いませんでしょうか。わたしは皆さんに申します。天においても同じように、改心する必要のない99人の善人のためよりも、改心せる一人の罪人のために、大いなる喜びがありましょう。」
体はくたくたに疲れ果てるまで、野山をかけまわって迷い羊をたずね、これを見あたるや喜んで肩にのせ、羊の檻に連れ帰る親切な牧者、それこそわが主の御姿そっくりじゃありませんか。
70
○失せたる銀貨のたとえとは、どんなものですか。
△「ある婦人がドラクマ(銀貨)を10枚ほど持っていたと致しなさい。その一枚を失ったら、灯火をつけ、家をはき、念をいれて捜しませんか。さて見出したら、友達や隣の人々を呼び集めて
『私と共に喜んでください、失ったドラクマをみつけだしましたよ』
と言わないでしょうか。私は皆さんに申します。そんなように、天使たちの前でも、改心せる一人の罪人のために喜びがありましょう」
71
○放蕩息子のたとえを承りましょうか。
△このたとえは、すべての人に常ならぬ感動を与え、誰ひとりとして心を動かされざるなしと言うほど美しい物語であります。さて、イエズス様はお話になります。
「2人の子をもった人がいました。ある日、次男が財産の分配を父に願いますと、父は言うがままに財産を分けて与えました。幾日もたたぬうちに、次男は一切をかき集めて遠い国へ旅立ちました。そして、行った先でさんざん放蕩をやらかして、その財産を湯水のように費やしました。一切を使い果たしたとき、そのあたりに大きな飢饉がおこってきて、彼もだんだん乏しくなり、やむをえず、往ってその地方のある人にすがりました。するとその人は、彼を自分の小作場に遣わしてブタを飼わせました。彼はその豚に食わせる豆がらなりともたらふく詰め込んだらと望んでいるが、それすら与える者がありません。そこで、彼もようやく己に帰りました。お父さんの家では、雇い人でさえパンに飽き足っている。それに、私はここで飢え死にせんばかりだ。
むしろ、起きて、お父さんの許へ行き、
『お父さん、私は天に対しても、あなたにも罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれるに足りません。どうぞ、私を雇人の一人としてください』
と言いましょう。」
「彼はついに立ち上がり、父のもとをさして帰りました。父は遥かにこれを望み見て、憐みの情に堪えず、自分から馳せ行ってその首に抱きつき、これに接吻しました。
『お父さん、私は天に対しても、あなたにも罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれるに足りません。』
と彼が言ったのも、聞こえたか、聞こえていないか、父は僕たちに言いつけました。
『早く上等の服を持ってきて着せ、手には指輪をささせ、足には靴をはかせなさい。それから、肥えた子牛を引き出してこれを屠るのだ。一緒に会食をして楽しみましょう。この私の子は死んでいたのがよみがえり、失せていたのが見出されたのだから』
こういって、酒宴を開きました。長男が畑から帰ってきて、この有様を見るや、大いに腹をたて、
『私は多年お父さんに仕え、一度でも仰せに背いたことがありません。でも、友達と会食するためとて、子ヤギの一頭もお与えになった覚えはありますまい。それに、あの子がさんざん放蕩をやらかし、財産を食いつぶして帰ってくると、おとうさんはこれがために肥えた子牛を屠りなさったんですか』
と不平を鳴らしました。父は答えて言いました。
『御前はいつも私と共に居て、私のものはお前のものじゃ。しかし、おまえの弟は死んでいたのに蘇り、失せていたのに見出されたのだもの、愉快をつくして喜ぶのは当然のことではないか』と。 」
教訓
天主様がいつも情けの御腕を広げ、罪人の改心をお待ちあそばすその感ずべき御憐みを思いなさい。どれほど罪悪の底深く堕落しても、失望する訳は決してない。あくまで信頼を持ちましょう。なお、私たちも罪人に対して常に情けをかけ、憐みをほどこし、けっしてあの長男のような冷たい人であってはなりません。
よろしければ、FBのカトリックグループにもご参加ください。
第6課 たとえ話(3)天主様の御慈愛のたとえ
68
○罪人がいよいよ改心しようというとき、天主様は果たして情けをおかけくださるでしょうか
△御主は天主様の底知れぬ御慈愛を見せ、罪人が悔い改めて正しい道へ立ち返るや、どれほど喜んでこれをお受けになるかということを明らかにするがため、迷い羊と、失せたる銀貨と、放蕩息子のたとえを語られました。
69
○迷い羊のたとえをお話しください
△「皆さんのうちに、誰か100頭の羊をもっていると致しなさい。そのうちの一頭を失いましたら、99頭を野において、その迷い羊を探しませんか。そしてこれを見出したら、喜んで己が肩にのせ、家へ帰って、友達や隣人を呼び集め、
『私と共に喜んでください。失った羊を見いだしましたよ』
と言いませんでしょうか。わたしは皆さんに申します。天においても同じように、改心する必要のない99人の善人のためよりも、改心せる一人の罪人のために、大いなる喜びがありましょう。」
体はくたくたに疲れ果てるまで、野山をかけまわって迷い羊をたずね、これを見あたるや喜んで肩にのせ、羊の檻に連れ帰る親切な牧者、それこそわが主の御姿そっくりじゃありませんか。
70
○失せたる銀貨のたとえとは、どんなものですか。
△「ある婦人がドラクマ(銀貨)を10枚ほど持っていたと致しなさい。その一枚を失ったら、灯火をつけ、家をはき、念をいれて捜しませんか。さて見出したら、友達や隣の人々を呼び集めて
『私と共に喜んでください、失ったドラクマをみつけだしましたよ』
と言わないでしょうか。私は皆さんに申します。そんなように、天使たちの前でも、改心せる一人の罪人のために喜びがありましょう」
71
○放蕩息子のたとえを承りましょうか。
△このたとえは、すべての人に常ならぬ感動を与え、誰ひとりとして心を動かされざるなしと言うほど美しい物語であります。さて、イエズス様はお話になります。
「2人の子をもった人がいました。ある日、次男が財産の分配を父に願いますと、父は言うがままに財産を分けて与えました。幾日もたたぬうちに、次男は一切をかき集めて遠い国へ旅立ちました。そして、行った先でさんざん放蕩をやらかして、その財産を湯水のように費やしました。一切を使い果たしたとき、そのあたりに大きな飢饉がおこってきて、彼もだんだん乏しくなり、やむをえず、往ってその地方のある人にすがりました。するとその人は、彼を自分の小作場に遣わしてブタを飼わせました。彼はその豚に食わせる豆がらなりともたらふく詰め込んだらと望んでいるが、それすら与える者がありません。そこで、彼もようやく己に帰りました。お父さんの家では、雇い人でさえパンに飽き足っている。それに、私はここで飢え死にせんばかりだ。
むしろ、起きて、お父さんの許へ行き、
『お父さん、私は天に対しても、あなたにも罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれるに足りません。どうぞ、私を雇人の一人としてください』
と言いましょう。」
「彼はついに立ち上がり、父のもとをさして帰りました。父は遥かにこれを望み見て、憐みの情に堪えず、自分から馳せ行ってその首に抱きつき、これに接吻しました。
『お父さん、私は天に対しても、あなたにも罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれるに足りません。』
と彼が言ったのも、聞こえたか、聞こえていないか、父は僕たちに言いつけました。
『早く上等の服を持ってきて着せ、手には指輪をささせ、足には靴をはかせなさい。それから、肥えた子牛を引き出してこれを屠るのだ。一緒に会食をして楽しみましょう。この私の子は死んでいたのがよみがえり、失せていたのが見出されたのだから』
こういって、酒宴を開きました。長男が畑から帰ってきて、この有様を見るや、大いに腹をたて、
『私は多年お父さんに仕え、一度でも仰せに背いたことがありません。でも、友達と会食するためとて、子ヤギの一頭もお与えになった覚えはありますまい。それに、あの子がさんざん放蕩をやらかし、財産を食いつぶして帰ってくると、おとうさんはこれがために肥えた子牛を屠りなさったんですか』
と不平を鳴らしました。父は答えて言いました。
『御前はいつも私と共に居て、私のものはお前のものじゃ。しかし、おまえの弟は死んでいたのに蘇り、失せていたのに見出されたのだもの、愉快をつくして喜ぶのは当然のことではないか』と。 」
教訓
天主様がいつも情けの御腕を広げ、罪人の改心をお待ちあそばすその感ずべき御憐みを思いなさい。どれほど罪悪の底深く堕落しても、失望する訳は決してない。あくまで信頼を持ちましょう。なお、私たちも罪人に対して常に情けをかけ、憐みをほどこし、けっしてあの長男のような冷たい人であってはなりません。
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