goo blog サービス終了のお知らせ 

カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

第6課 たとえ話(3)天主様の御慈愛のたとえ

2018-04-29 01:57:07 | 新・旧約聖書まとめ
浦川和三郎司教『新約のはなし』1949年、中央出版社

第6課 たとえ話(3)天主様の御慈愛のたとえ

68
○罪人がいよいよ改心しようというとき、天主様は果たして情けをおかけくださるでしょうか
△御主は天主様の底知れぬ御慈愛を見せ、罪人が悔い改めて正しい道へ立ち返るや、どれほど喜んでこれをお受けになるかということを明らかにするがため、迷い羊と、失せたる銀貨と、放蕩息子のたとえを語られました。

69
○迷い羊のたとえをお話しください
△「皆さんのうちに、誰か100頭の羊をもっていると致しなさい。そのうちの一頭を失いましたら、99頭を野において、その迷い羊を探しませんか。そしてこれを見出したら、喜んで己が肩にのせ、家へ帰って、友達や隣人を呼び集め、
  『私と共に喜んでください。失った羊を見いだしましたよ』
  と言いませんでしょうか。わたしは皆さんに申します。天においても同じように、改心する必要のない99人の善人のためよりも、改心せる一人の罪人のために、大いなる喜びがありましょう。」

体はくたくたに疲れ果てるまで、野山をかけまわって迷い羊をたずね、これを見あたるや喜んで肩にのせ、羊の檻に連れ帰る親切な牧者、それこそわが主の御姿そっくりじゃありませんか。

70
○失せたる銀貨のたとえとは、どんなものですか。
△「ある婦人がドラクマ(銀貨)を10枚ほど持っていたと致しなさい。その一枚を失ったら、灯火をつけ、家をはき、念をいれて捜しませんか。さて見出したら、友達や隣の人々を呼び集めて

 『私と共に喜んでください、失ったドラクマをみつけだしましたよ』
  と言わないでしょうか。私は皆さんに申します。そんなように、天使たちの前でも、改心せる一人の罪人のために喜びがありましょう」

71
○放蕩息子のたとえを承りましょうか。
△このたとえは、すべての人に常ならぬ感動を与え、誰ひとりとして心を動かされざるなしと言うほど美しい物語であります。さて、イエズス様はお話になります。

 「2人の子をもった人がいました。ある日、次男が財産の分配を父に願いますと、父は言うがままに財産を分けて与えました。幾日もたたぬうちに、次男は一切をかき集めて遠い国へ旅立ちました。そして、行った先でさんざん放蕩をやらかして、その財産を湯水のように費やしました。一切を使い果たしたとき、そのあたりに大きな飢饉がおこってきて、彼もだんだん乏しくなり、やむをえず、往ってその地方のある人にすがりました。するとその人は、彼を自分の小作場に遣わしてブタを飼わせました。彼はその豚に食わせる豆がらなりともたらふく詰め込んだらと望んでいるが、それすら与える者がありません。そこで、彼もようやく己に帰りました。お父さんの家では、雇い人でさえパンに飽き足っている。それに、私はここで飢え死にせんばかりだ。

 むしろ、起きて、お父さんの許へ行き、

『お父さん、私は天に対しても、あなたにも罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれるに足りません。どうぞ、私を雇人の一人としてください』
  と言いましょう。」

 「彼はついに立ち上がり、父のもとをさして帰りました。父は遥かにこれを望み見て、憐みの情に堪えず、自分から馳せ行ってその首に抱きつき、これに接吻しました。
『お父さん、私は天に対しても、あなたにも罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれるに足りません。』
と彼が言ったのも、聞こえたか、聞こえていないか、父は僕たちに言いつけました。
『早く上等の服を持ってきて着せ、手には指輪をささせ、足には靴をはかせなさい。それから、肥えた子牛を引き出してこれを屠るのだ。一緒に会食をして楽しみましょう。この私の子は死んでいたのがよみがえり、失せていたのが見出されたのだから』
  こういって、酒宴を開きました。長男が畑から帰ってきて、この有様を見るや、大いに腹をたて、

『私は多年お父さんに仕え、一度でも仰せに背いたことがありません。でも、友達と会食するためとて、子ヤギの一頭もお与えになった覚えはありますまい。それに、あの子がさんざん放蕩をやらかし、財産を食いつぶして帰ってくると、おとうさんはこれがために肥えた子牛を屠りなさったんですか』
  と不平を鳴らしました。父は答えて言いました。
  
『御前はいつも私と共に居て、私のものはお前のものじゃ。しかし、おまえの弟は死んでいたのに蘇り、失せていたのに見出されたのだもの、愉快をつくして喜ぶのは当然のことではないか』と。 」

教訓

 天主様がいつも情けの御腕を広げ、罪人の改心をお待ちあそばすその感ずべき御憐みを思いなさい。どれほど罪悪の底深く堕落しても、失望する訳は決してない。あくまで信頼を持ちましょう。なお、私たちも罪人に対して常に情けをかけ、憐みをほどこし、けっしてあの長男のような冷たい人であってはなりません。



よろしければ、FBのカトリックグループにもご参加ください。


新約のはなし:第6課 たとえ話(2)博愛のたとえ話

2018-04-28 01:14:57 | 新・旧約聖書まとめ
浦川和三郎司教『新約のはなし』1949年、中央出版社

新約のはなし:第6課 たとえ話(2)博愛のたとえ話

65
○イエズス様のたとえ話は、それだけでしたか。
△いいえ、公生活も終わりに近づくと、御主は別種のたとえ話を語られました。その中には、主として、人を愛するの必要を説いたのがあり、天主様の御慈愛を明らかにしたのがあり、
四終(ししゅう)に関するのがありました。

66
○まず、人を愛するの必要を説いたたとえ話からお話ください。
△善きサマリア人のたとえ

あるとき、律法学士が御主に向かい、何をなしたら、永遠の生命を得られますかと問いました。

「律法に書き記してあるように、心を尽し、霊を尽し、力を尽して、主なる神を愛し、また、近き者を己の如く愛すればよい」

と御主は御答えになりました。

「近き者とは、誰ですか」

と律法学士は重ねて問いました。御主はそれにこたえて次のたとえ話を語られました。

「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行く途中、強盗の手に陥りました。強盗はその人をはぎとり、傷を負わせ、半死半生の体になして棄て去りました。

 たまたま、一人の司祭が同じ道を下ってきましたけれども、その人を見ながら、過ぎ去りました。

 また、一人のレビ人もそこに来合わせて、これを見ましたが同じく過ぎゆきました。

 でも、一人のサマリア人が旅をして彼の側に参りましてこの有様を見るや、憐れに思い、近づいて油とブドウ酒を注いでその傷を包帯してやりました。そして、自分の馬に乗せ、宿に連れて行って看護し、 翌日御金を宿の主人に与えて、この人を看護してください。 このうえ、費用がかかりましたら、帰りに払います、と申しました。」

御主は、ここまで話してから、今の律法学士に向かい、

「その人のために近い者は誰だと思いますか」

とお尋ねになりました。

「それは情けをかけてくれた人です」

と律法学士は答えたので、

「あなたも行って、そのとおりに致しなさい」

と御主は付け加えて置かれました。

67
○その次にどんなたとえを語られましたか。
△無慈悲な富豪

善きサマリア人の裏を行ったのは、無慈悲な富豪であります。

「かつて、ひとりの富豪がありました。身には、上等の服をまとい、毎日飲めや歌えと奢り暮らしていたものでした。また、ラザロという乞食がいまして、全身腫れただれ、富豪の門口に伏し、その食卓からこぼれおちるパン屑なりとも望んでいるが、誰も与える者がありません。かえって、犬までが来て、彼の腫れものをなめるのでありました。やがて、ラザロは死にましたが、天使によってアブラハムの懐に運ばれました。富豪も死んで地獄に葬られました。さて、彼は目をあげて、遙かにアブラハムとその懐にいるラザロを見、叫んで申します。

 『父アブラハムよ、私を憐み給え、ラザロを遣わし、その指先を水にひたして、私の舌を冷やさせてください。私はこの炎の中に、ひどく苦しんで居ますから』

 『子よ、汝は世に在る間に善いものを受け、ラザロは悪いものを受けたことを思い出すがよい。で、彼は今慰められ、汝は苦しむのです。そればかりか、我らと汝らとの間には、大きな淵が横たわっている。そちらからこちらへ渡ることができず、こちらからそちらへ移ることも叶わぬのだ。』

 『しからば父よ、願わくは、ラザロを私の家にお遣わしください。私は5人の兄弟を持っています。彼らもこの苦しみの場に来ないよう、証明させていただきたく存じます』

 『モーゼの律法と預言者の教訓とがある。それを聴けばよいのだ』

 『そうでもございません。誰か、死者の中から行きますなら、彼等も改心するでございましょう』
 
 『もし、モーゼと預言者たちに聴かないほどならば、たとえ死者の中から復活しても信ずることはあるまいよ』」

御主は、お話をここでぷっつり打ち切って、富豪の失望、富に心を奪われて人を憐れまない者の危険なることを言外に匂わせて置かれました。


よろしければ、FBのカトリックグループにもご参加ください。


第6課 たとえ話(1)天国のたとえ話

2018-04-27 00:59:37 | 新・旧約聖書まとめ
浦川和三郎司教『新約のはなし』1949年、中央出版社

第6課 たとえ話(1)天国のたとえ話

58
○御主は、みおしえを人々の心に深くしみこませるがため、どんな方法をおとりになりましたか
△御主は、みおしえを人々の心に深くしみこませるがため、これを美しいたとえ話にして語られました。しかし、また、反対者にその意味を悟られないように、わざとたとえ話の形をお取りになることもありました。

59
○ゼネザレト湖の浜辺において、お話になったのは、何のたとえ話でしたか。
△宣教第2年、ゼネザレト湖の浜辺においてお話になったのは、天国すなわち聖会に関するたとえ話でありました。

60
○まず、天国を何にたとえなさいましたか
△御主は、まず、天国を種まきにたとえて、おのおのの注意を促しなさいました。

 「種をまきに出て行った人がある。まくうちに、ある種は、道ばたに落ちて、人に踏まれ、空の鳥についばまれました。ある種は、土の多くない石地に落ちました。土が浅いだけにすぐ萌え出たが、火の昇ると共に、焼けて枯れました。ある種は、イバラの中に落ちたが、イバラも共に育ち、これをおおい塞ぎ、ために実を結ぶことができませんでした。ある種は、よき土に落ち、生え出て、一つは30倍、一つは60倍、一つは100倍の果を結びました。」

御主は、後でこのたとえを弟子たちに説明して、次のように仰せられました。

「種は天主様のみことばです。それが道ばたに落ちたというのは、みことばを聞いてもこれを悟らない時は、悪魔が来てその心からみことばを奪い去ってしまうの意味です。
 石地にまかれたのは、みことばを聞くと、すぐ喜んで受けますが、しかし、一向に根がありません。みことばのために艱難が生じ、迫害が起こるとたちまち、躓く人です。
 イバラの中にまかれたのは、みことばを聞くは聞くが、この世の心配や、富や、快楽やのために、みことばをおおい塞がれて実を結ぶことができない人たちです。
 よき土にまかれたのは、善良な心でみことばを聞き、よくこれを保ち、忍耐をもって実を結び、30倍なり、60倍なり、100倍なりを生ずるに至る人であります」
と。

61
○その次には、何のたとえ話を語られましたか
△みおしえの種が萌え出て成長するのを妨げようとする敵も少なくないことを、

 毒麦にたとえてお話になりました。
「天国は、良い種を畑にまいた人に似ています。人々の寝ている間に、仇人がやってきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去りました。苗が生長して実を生じますと、毒麦もあらわれました。僕たちは家父に申します。
 『主よ、畑には良い種をまいたのじゃございませんか。どうして毒麦が生えたのでしょうか。』
 『仇人がこれをしたのです』
 『行って、刈り集めたらいかがでしょう』
 『いや、毒麦を刈り集めようとして、良い麦までも共に引き抜いてはならぬ。収穫まで両方育てておきなさい。収穫の時に、私は刈り手に向かい、まず毒麦を集めて焼くために束ね、麦は倉に収めよ、と言いましょう』」

62
○天国は、仇人に苦しめられても、どしどし進歩発展していきますか。
△そうです。御主は、からしだねとパン種のたとえをもって、その旨を明らかにされました。

「天国は、人が取ってその畑にまいた一粒のからしだねのようなものです。土の中にあるときは、地上のあらゆる種よりも小さい。でも、生え出た後には、育ってよろずの野菜よりも大きく、樹になり、大きな枝を生じ、空の鳥が来て、その陰に住むことができるほどになります。」

「また、天国は、パン種のようなものです。女が取って3斗の麦粉の中に隠し置くと、ことごとく膨れるに至るものであります」

63
○その他には、何を御話しになりましたか。
△福音の教えは、何よりの宝、真珠のようなものである。どんな犠牲を払っても、これを手に入れなければならぬことをお話になりました。
「天国は、畑に隠された宝のようなものです。見出した人は、これを隠し置き、自分の持ち物は全部売り払ってその畑を買います。」

「また、天国は、美しい真珠を求める商人のようなものです。値高い真珠一つを見あたるや、行ってその持ち物を残らず売り飛ばして、これを買います。」

64
○福音の教えを見あたり、これを我がものとした人は、終わりに、どのような報いをこうむるでしょうか。
△それを明らかにするがために、御主は、良き魚と悪しき魚とを引き入れる網のたとえを語られました。

 「天国は海に張って、いろいろの魚を集める網のようなものです。魚がいっぱいになったとき、これを引き揚げ、浜にすわって、良き魚は器に入れ、悪しき魚は投げ捨てます。世の終わりにも同じくそうでしょう。天使等が出て、善人の中から悪人を引き分け、これを火のかまどに投げいれます。そこには嘆きと歯噛みとがあるでしょう」

教訓

 これらのたとえ話は、平易通俗な中に深い意味を含めたもので、智慧の浅い、質朴な人のためには、浅く、わかりやすく思われますが、悟りの深い、知識の勝れた人のためには、どこまでも汲みほし難い深みがあります。小さな子羊も歩いて渡ることができるが、大きな象でも自由に泳ぎまわれる河のようなものであります。



よろしければ、FBのカトリックグループにもご参加ください。


第5課 みおしえ(5)みおしえを守る為の覚悟

2018-04-26 01:36:23 | 新・旧約聖書まとめ
浦川和三郎司教『新約のはなし』1949年、中央出版社

第5課 みおしえ(5)みおしえを守る為の覚悟

56
○みおしえを守るにつけて、弟子たる者の覚悟をお諭しくださいませんでしたか
△弟子たる者は、みおしえを信じ、その掟を守るにつけて、容易からぬ困難にでくわす覚悟であらねばならぬことをお諭しになりました。

「汝らは狭い門から入りなさい。滅びに至る門は広く、その路は幅広い。そして、ここから入る人は多い。かえって生命に至る門は狭く、その路は手狭い。これを見出す人は少ない」

ただ門がせまく、路が手狭いばかりか、うっかりすると不親切な案内者にだまされて、あられぬ方面へ引っ張り行かれぬとも限らないのです。

「汝らは、偽りの預言者(教師)に注意しなさい。彼らは羊の衣を着て汝らの方へ来るが、心のうちは、あらいオオカミです。その結ぶ果によってこれを見わけなさい。イバラからブドウを、アザミからイチジクを採ることがありますか。それと同じく、すべて善い樹は善い果を結び、悪い樹は悪い果を結ぶものです。善い果を結ばない樹は、伐って火に投げ入れられるでありましょう」

57
○御主は、その長い美しいお話の結びとして、特にどのような戒めを添えておかれましたか

△「私に主よ、主よ、と言う人が皆天国に入るのではない。天にまします吾が父の御旨を行う人こそが天国に入るのです。」

 「審判の日に当たって、多くの人は私に向かい、
 『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪魔を追っ払い、また御名によって多くの奇蹟を行ったじゃありませんか』
  と申しますでしょう。
  そのとき私は彼らに向かい、
  『我、かつて、汝らを知らず。悪を為せる者よ、我を去れ。』
  と言うであろう」
 
 「だからすべて私の言葉を聞き、これを行う人は、磐の上にその家を立てた賢い人に比べられましょう。雨が降り、河があふれ、風が吹いてその家を衝きましたが、磐の上に据って居るから、倒れる気遣いがありません。かつて私のこの言葉を聞きながら、これを行わない人は、砂の上にその家を建てた愚か者に似ているでしょう。雨が降り、河があふれ、風が吹いてその家を衝きましたら、ひとたまりもなく倒れてしまいました」

教訓

 人々は、主のみおしえにいずれも深く感服しました。それは、律法学士やファリサイ人のように、昔の人の言い古したところを繰り返し給うのではなく、むしろ権威を有するもののように教え給うたからです。

 季節は、青草が風になびき、野の花の香り流れる春の最中です。

 場所は、子羊がはね、小鳥もさえずりまわる緑の丘です。

 玉を転がすような涼しい主の御声に、一種言い知れぬ趣を添えて、いよいよ人々の心をうっとりさせたのでありました。



よろしければ、FBのカトリックグループにもご参加ください。


第5課 みおしえ(4)祈祷

2018-04-25 00:41:35 | 新・旧約聖書まとめ
浦川和三郎司教『新約のはなし』1949年、中央出版社

第5課 みおしえ(4)祈祷

55

○また、何をお説きになりました?
△祈祷(いのり)の必要を説き、わたしたちに主祷文をお授けくださいました。

「てんにまします われらの父よ (天に在します我らの父よ)
 ねがわくは、みなの とうとまれんことを(願わくは御名の尊崇れんことを)
 みくにのきたらんことを (御国の格らんことを)
 みむねのてんにおこなわるるごとく(聖旨の天に行わるる如く)
 ちにもおこなわれんことを(地にも行われんことを。)
 われらのにちようのかてを(我らの日用の糧を) 
 こんにちわれらにあたえたまえ(今日我らに与え給え)
 われらがひとをゆるすごとく(我らが人に赦す如く)
 われらのつみをゆるしたまえ(我らの罪を赦し給え)
 われらをこころみにひきたまわざれ(我らを誘試に引き給わざれ)
 われらをあくよりすくいたまえ。(我らを悪より援い給え)
 アーメン」

御主は、この祈祷文を授けたうえで、しきりに祈りをすすめ、
「願いなさい、そうすれば与えられましょう
 探しなさい、そうすれば見いだしましょう
 叩きなさい、そうすれば戸は開かれるでしょう
 それは、すべて、願う人は受け、探す人は見出し、叩く人は戸を開かれるのです」
と仰せになりました。



よろしければ、FBのカトリックグループにもご参加ください。