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カトリック情報 Catholics in Japan

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橋を渡る者と渡らない者

2021-08-02 08:08:23 | 対話(聖カタリナ)
霊魂は、橋を渡る者と渡らない者とについて話して下さるよう神に祈ることについて。

 すると、この霊魂は、愛の苦悩のなかで、つぎのように申し上げた。
 ──ああ、いとも甘美で名状しがたい仁愛よ、これほどの愛に対して、だれが燃え立たないでいられましょうか。どんな心が、燃えつくされるのを、防ぐことができるでしょうか。ああ、仁愛の深き淵よ、あなたは、あなたの被造物に夢中になっておられ、被造物なくしては生きていられないかのように思われます。けれども、あなたはわたしたちの神です。あなたにとってわたしたちは少しも必要ではありません。わたしたちの善はあなたの偉大さになにも加えることができません。あなたは不動だからです。至高かつ永遠の「善性」であるあなたに対して、わたしたちの悪はなんの害も加えることができません。それではなにが、あなたをこれほどのあわれみに駆り立てるのでしょうか。愛です。あなたがわたしたちに対して負っている義務ではありません。あなたにとって、わたしたちが必要なのではありません。わたしたちこそ、あなたに対して、義務と負債とがあるのです。
 わたしの理解が正しいとすれば、至高かつ永遠の「真理」よ、盗賊はわたしです。ところが、あなたがわたしの代わりに罰せられるのです。「みことば」、あなたの「おん子」が十字架にしばりつけられ、釘づけにされているのが見えます。あなたは、あなたのみじめな使い女であるわたしに示してくださったように、この十字架を橋にしてくださいました。これを思うと、わたしの心は張り裂けます。あなたに対する飢えと望みとによっても張り裂けないのに。あなたが、この橋を渡る者とはどういう人々であるか、また、これから遠ざかる者とはどういう人々であるかを、わたしに示したいと望んでおられたことを、思い起こしてください。あなたの「いつくしみ」が、これを示してくださるおぼしめしでしたら、わたしにとつて、それを見、それをあなたからうかがうのは、どんなに仕合わせなことでしょう。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)




神はブドウの木の手入れもする(実を結ばない木は・・・)

2021-07-25 12:09:55 | 対話(聖カタリナ)
神はぶどうの木と一つになっている枝を手入れすることについて。──各人のぶどう畑は隣人のぶどう畑と密接に結びついていることについて。──一方をたがやすか荒らすかすれば、必ず他方をたがやすか荒らすかすることになることについて。

 わたしのしもべたちが、愛の甘美な「言葉」の教えに柔順に従うとき、わたしがどのようにかれらに対応するか、あなたは知っているであろうか。わたしはかれらに手入れして、野性的な実ではなく、ユダかで美味な実を結ばせる。耕作者は、ぶどうの木に残した良い枝に手入れして、良質のぶどう酒を多量につくり、実を結ばない枝は切って火に投げこむ。まことのぶどう耕作者であるわたしも同じである。わたしは、わたしにとどまっているしもべたちを、多くの苦難によって育て、良質の実をたくさん結ばせ、それによって、かれらのなかにある善徳を証明させる。実を結ばない枝は、すでに話したように、切り取って火に投げ入れる。
 耕作者は、その霊魂をよくたがやし、そこから自愛心をことごとく引き抜き、その愛情の土をわたしのなかで掘り返す。かれらは、このようにして、聖い洗礼によってさずかった恩寵をつちかい、成長させる。かれらは、自分たちの霊魂をたがやすと同時に、隣人の霊魂もたがやす。他方をおいて一方をたがやすことはできない。わたしが、すべての悪もすべての善も、隣人を介しておこなわれると話したことを、思い出してほしい。あなたがたは、至高かつ永遠の耕作者であるわたしが送った耕作者である。わたしは、あなたがたと一致することによって、あなたがたを「ぶどうの木」に接ぎ木したのである。
 理性的被造物は、めいめい、隣人のぶどう畑に直接につながっているぶどう畑をもっていることを、よく心得ていてほしい。両者はきわめて密接につながっていて、自分自身に善をなすか害を加えるかするときは、必ず隣人に善をなすか害を加えるかするのである。
 あなたがたはいっしょに、ただ一つの普遍的なぶどう畑を、すなわち、聖なる教会の神秘的体のぶどう畑と一つになっていてそこから生命を汲み取るキリスト者の社会を、形づくっている。このぶどう畑には、ひとつの「ぶどうの木」、わたしの「ひとり子」が植えられている。そして、あなたがたはこれに接ぎ木されなければならない。もしも、あなたがたがこれに接ぎ木されていないならば、ただちに、聖なる教会に反逆する者となる。体から切り離された肢体のようになり、すぐさま、腐敗しはじめる。
 たしかに、あなたがたは、まだ時があるあいだに、まず、まことの痛悔によって、この罪の腐敗からのがれ、わたしの聖職者たちに依り頼むことができる。かれらはわたしの耕作者であって、このぶどうの木から取れたぶどう酒、すなわち、「血」の鍵を保管している。この血は、きわめて完全であるから、聖職者のいかなる過失によっても、その実を失うことがない。
 技をぶどうの木に結ぶのは仁愛である。仁愛は、自分自身と「わたし」とのまことの認識のなかで獲得したまことの謙遜によって、これを結ぶのである。これによってわかるように、あなたがたはみな、わたしのぶどう畑に、わたしが送った耕作者である。わたしは、いま、あらためて、あなたがたをそこに招きたい。なぜなら、世はますます悪化しているからである。いばらが生いしげって、種子をおおいふさぎ、恩寵の実をなにひとつ結ばせないほどになっているからである。
 それゆえ、あなたがたは、まことの耕作者となり、聖なる教会の神秘的体のなかに、大きな熱誠をもって、霊魂を栽培してほしい。
 わたしがこう言うのは、あなたの切なる望みに答えて、世にあわれみを注ぎたいからである。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)



私達は皆、聖なる教会のぶどう畑に働く神の労働者

2021-07-24 06:28:32 | 対話(聖カタリナ)
わたしたちはみな、聖なる教会のぶどう畑に働く神の労働者であることについて。──各人は自分自身というぶどう畑をもっていることについて。──みなが神の御子のぶどう畑と一つにならなければならないことについて。

 ここで、永遠の「真理」は、この霊魂に、神はわたしたちの同意を待たないでわたしたちを創造したが、わたしたちの同意を待たないでわたしたちを救うことがないことを示された。そして、わたしたちが、与えられた時を、わたしたちの自由意志と自由な意欲とによって、まことの善徳の実行に用いるよう望んでいると話されたのち、つづけて次のように語られた。
 ──あなたがたはみな、霊魂の救いのなかにわたしの名の栄光と賛美とを求め、数多くの労苦をつぐのいとして堪え忍び、愛の甘美な「言葉」のあとに従って、この橋を渡らなければならない。あなたがたにとって、わたしのもとに来るには、他に方法はない。
 あなたがたは、わたしが聖なる教会のぶどう畑に働かせるために配置し送ったわたしの耕作者である (1) 。あなたがたはキリスト教の普遍的体のなかに働いている。わたしは、あなたがたが聖なる教会の神秘的体から受けた聖い洗礼の光明を、あなたがたといっしょに働かせるために送った聖職者の手によって与えたのち、あなたがたをそこに配置したのである。
 あなたがたは普遍的体のなかにいる。かれら (2) は、神秘的体のなかにいて、あなたがたに授ける秘跡によって「血」をあなたがたに分かち、あなたがたの大罪のとげを抜き取り、あなたがたのなかに恩寵を蒔く。かれらは、聖なる教会のぶどう畑と一つになったあなたがたのぶどう畑に働くわたしの耕作者である。
 理性を与えられた被造物はみな、自分自身のなかにひとつのぶどう畑、すなわちその霊魂のぶどう畑を所有している。あなたがたは、生きているあいだ、意欲と自由意志とによって、このぶどう畑に働く。この期間をすぎると、善い働きも悪い働きも、なすことができないが、生きているあいだは、わたしに指定された自分のぶどう畑をたがやすことができる。この霊魂の耕作のためにわたしが与えた力はきわめて大きく、自分が同意しなければ、悪魔からも、他の被造物からも奪われることがない。この力は聖い洗礼によってさずかったのであるが、それと同時に、あなたがたは、善徳に対する愛と悪徳に対する憎しみとのつるぎをさずけられた。わたしの「ひとり子」は、この愛と憎しみとのために、すなわち、あなたがたに対する愛と罪に対する憎しみとのために、死去し、あなたがたの上にその血を注いだ。そして、あなたがたは、その血の功徳によってあなたがたに生命を取り戻して与える聖い洗礼のなかで、この愛と憎しみとを見出すのである。
 それゆえ、あなたがたは、武器を手にしている。この武器を、時があるあいだに、大罪のとげを抜き取り、善徳を蒔くために、自由意志によって用いなければならない。さもければ、あなたがたは、「血」の効果にあずかることができないであろう。この「血」は、わたしが聖なる教会に配置した耕作者たちによって分配される。かれらは、すでに話したように、この「血」をたたえている秘跡、聖なる教会によって執行される秘跡によって、霊魂のぶどう畑から大罪を除き、これに恩寵を与える役目を果たすのである。だから、あなたがたは、「血」のあたいを受ける前に先ず第一に、心の痛悔と罪に対する嫌悪とにより、そしてまた善徳に対する愛によって、身を清めなければならない。あなたがたは、あなたがたの側から、わたしの「ひとり子」であるぶどうの木に結合した良い枝になる心構えを抱かなければ、これを受けることができないであろう。わたしの「ひとり子」は、「わたしは『ぶどうの木』であって、わたしの『父』は耕作者である。あなたがたはその枝である」(3) と言ったではないか。
 これが真理である。わたしこそ耕作者である。なぜなら、存在を有するものはみな、「わたし」から発したし、また発するからである。わたしの力は測り知れない。わたしは、わたしの力と徳とによって全宇宙を統治する。したがって、わたしなくしては、なにものも造られないし、統治されない。たしかに、わたしは耕作者である。わたしの「ひとり子」のまことのぶどうの木を、あなたがたの人性の土地に植えたのはわたしである。そしてそれは、枝であるあなたがたが、このぶどうの木に接合されて、実を結ぶためである。
 聖い善業の実を結ばない者は、「ぶどうの木」から切り取られて枯れるであろう。なぜなら、実を結ばない枝は、もうなんの役にも立たないから、切り取られて火に投げ入れられるように、「ぶどうの木」から切り離された者は、恩寵の生命を失い、永遠の火に投げ入れられるからである (4) 。この人たちも同じである。自分自身の過失によって、「ぶどうの木」から切り取られたかれらは、大罪の過失のなかに死んだままであるならば、神的「正義」によって、永遠に燃える火に投げ入れられるほかはない。なんの役にも立たないからである。
 かれらは、自分のぶどう畑をたがやさなかった。それどころか、これを荒らしてしまった。自分たちのぶどう畑だけではなく、他の人のぶどう畑も。そこに善徳の良い木を育てるかわりに、そこから恩寵の種子を取り除いた。この種子は、聖い洗礼の光明のなかで、まことの「ぶどうの木」があなたがたのためにこしらえたぶどう酒であるわたしの「子」の血を分かつことによって、さずかったものであった。かれらは、この種子を取り上げて、動物に、すなわち多様な、おびただしい罪に、飼料として投げ与えたのである。かれらは、みだらな愛情の足によってこれを踏みにじり、わたしを侮辱し、自分と隣人とに不幸をもたらした。
 しかし、わたしのしもべたちは、そのようにはしない。あなたがたも、かれらにならって、このぶどうの木と結びつき、これに接ぎ木されていなければならない。そうすれば、あなたがたは、ユダかな実を結ぶであろう。なぜなら、このぶどうの木の樹液を分かつことができるからである。あなたがたは、わたしの「子」、「言葉」にとどまることによって、わたしにとどまるであろう。なぜなら、わたしはかれと、かれはわたしと一つだからである (5) 。あなたがたは、かれにとどまることによって、かれの教えに従うであろう。かれの教えに従うことによって、この「言葉」の本体を分かつであろう。すなわち、あなたがたは、人性と一致した永遠の「神性」を分かち合う者となり、そのなかに、霊魂を酔わす神の愛を汲み取るであろう。それゆえ、わたしは、あなたがたは「ぶどうの木」の本体を分かつと言ったのである。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)



天上にかかる橋

2021-07-13 09:28:45 | 対話(聖カタリナ)
神はこの橋の偉大さを観想するようすすめることについて。──この橋は地上から天上に及ぶことについて。

 あなたの知性の目を開いて、盲目な人々と無知な人々、不完全な人々とまことにわたしに従う完全な人々とを見るがよい。そうすれば、あなたは、無知な人々の亡びに対する悲しみとわたしのいとしい子供たちの完全性に対する喜びとを感じるであろう。あなたはまた、わたしの光明のもとに歩む者と暗黒のなかを歩む者とが、どのように行動するかを見るであろう。
 しかし、その前に、わたしの「ひとり子」の「橋」を眺め、天上から地上に及ぶその偉容を見てほしい。それというのも、偉大な「神性」があなたがたの人性の地と一致しているからである。それゆえ、この橋は、人間と一致することによって、天上から地上に及ぶと言ったのである。これは、すでに話したように、破壊された道を修復し、世の苦難を通って生命に達することができるようにするために必要であった。
 ただ地だけによっては、河を渡って永遠の生命に達するために十分な偉大さをきずくことができなかった。なぜなら、人性の地は、それだけでは、すでに語ったように、過失を償い、全人類を腐敗させ毒したアダムの罪のけがれを除去することができなかったからである。それゆえ、これを永遠の「神性」であるわたしの偉大な本性に結合させ、全人類のために償いを果たすことができるようにする必要があった。すなわち、人性が苦しみを凌ぎ、この人性と一致した神性が、わたしの「子」がわたしにささげたあの犠牲を受諾して、死をほろぼし、生命を取り戻す必要があった。
 このようにして、「いと高き者」はあなたがたの人性の地までくだり、これと一致することによって、橋をきずき、道を再開したのである。なんのための道であろうか。それは、人間が真実に天使たちとともに喜ぶことができるようになるための道である。しかし、生命を獲得するためには、わたしの「子」が橋となるだけでは足りない。あなたがたが、この橋を渡らなければならない。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)



アダムによって壊された道に神は一人子によって橋を架けた

2021-07-12 05:51:28 | 対話(聖カタリナ)
アダムの不従順によって天に通じる道が破壊されたので、神はその「ひとり子」を橋となし、天への道を再開されたことについて。

 わたしはあなたに、わたしの「ひとり子」、「言葉」を橋に仕立てたことについて語った。これは真理である。いとしい子供たちよ、つぎのことを知ってほしい。アダムの罪と不従順とによって道が破壊され、だれも恒久的な生命に達することができなくなった。それで、人間は、わたしにささげなければならない栄光を、しかるべき方法でささげることができなくなった。なぜなら、わたしがかれらを創造した目的である善を分かつことができなくなったからである。そして、そのため、わたしの「真理」はまっとうされなかった。
 真理とはつぎの通りである。わたしは、人間が不滅の生命を所有し、わたしと分かち合い、わたしの「いつくしみ」の至高かつ永遠のたのしさを味わうことができるように、これをわたしの似姿として創造した。しかし、過失が天とわたしの「あわれみ」の門戸とを閉ざしたために、この目的を達することができなくなり、わたしの「真理」はまっとうされなくなった。
 罪はいばらを生じ、さまざまの艱難と葛藤とを生んだ。被造物は、自分自身のなかに、謀叛が起きているのをさとった。なぜなら、被造物はわたしに謀叛するやいなや、自分自身に謀叛したからである。
 肉は、ただちに、霊に対して戦いを起こし、人間は、無垢の状態を失って、けがらわしい動物になった。そして、わたしが与えた状態にとどまっていたら、かれに従ったにちがいないあらゆる被造物と、戦わなければならなくなった。人間は、この状態を放棄したために、わたしの掟に背き、霊魂も肉体も永遠の死におちいる羽目になった。
 人間は、罪を犯すやいなや、激流におそわれ、絶えずその水に悩まされるようになった。人間は、苦労と責苦、自分自身からの責苦、悪魔からの責苦、世俗からの責苦を、堪え忍ばなければならなくなった。みながこの激流におぼれ、だれひとり、そのすべての義をもってしても、永遠の生命に達することができなくなかった。
 それゆえ、わたしは、あなたがたのこれほど大きな不幸をいやしたいと考え、わたしの「子」を橋として与えた。あなたがたが、それを通って、おぼれないで河を渡ることができるようにするためである。この河は、暗い生命のあらしに満ちた海である。
 だから、被造物はわたしに対してどれほどの負い目があるか、このうえ溺れて、しかも、わたしが与えた助けを受けつけようとしないというのは、どれほどおろかなことであるかを、わかってほしい。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)