「天狗の中国四方山話」

~中国に関する耳寄りな話~

No.480 ★ アメリカは終わって中国の時代が来る?→社会学者がキッパリ否定する理由

2024年07月15日 | 日記

DIAMOND online (吉見俊哉:社会学者)

2024年7月14日

写真はイメージです Photo:PIXTA

混迷する世界情勢の中、「アメリカ一強の時代は終わった」という意見も大きくなっている。しかし、東大名誉教授で著名な社会学者の吉見俊哉は「アメリカの時代は終わっていない」と断言する。本稿は、吉見俊哉著『さらば東大 越境する知識人の半世紀』(集英社新書)を一部抜粋・編集したものです。

アメリカの覇権が終わるとき 資本主義総体の終わりが見える

――かつての絶対的な存在としてのアメリカの時代はもう終わったとも言われますが、それでもアメリカは世界の中心にいると、先生は思いますか。

吉見 そう思います。アメリカの時代はまだ終わっていません。アメリカは資本主義を極限的に体現しているようなところがあり、まだ半世紀くらいはアメリカ時代が終わらないはずです。

 たとえば、私はそう簡単に世界の人々がディズニーランドやスターバックスやマクドナルドに見向きもしなくなるとは思えないのです。アップルやグーグル、アマゾンについても同じです。国家としてのアメリカでは、今後も混乱が続くでしょうが、それでもアメリカの軍事的、経済的、文化的ヘゲモニーは、少なくとも21世紀の後半までは維持されるはずです。

 対比的に言えば、ローマ帝国の地中海支配は、五賢帝時代が終わって政治の混乱がひどいことになってからも100年以上は続いたのです。いろいろな意味でアメリカの覇権とローマの覇権は似たところがあり、世界はまだまだアメリカから影響を受け続けるし、それが終わるころには、資本主義総体の終わりが見え始めているだろうと思います。そんなことが起こるのはまだだいぶ先で、少なくとも私はもう生きてはいません。

 ですから私は、アメリカの時代が終わって中国の時代がくるとは全然考えていないということです。中国はもうしばらく経済成長を続け、軍事的にも強大化して、アメリカとの緊張関係が高まるでしょうが、しかしかつてのソ連がそうであったように、中国もアメリカの他者として強大な立場を築くにとどまると思います。

 中国は移民国家ではなく、長い伝統的基盤があります。ユーラシア大陸ではそうした文明がほとんどで、アメリカのような根本的に抽象的な存在ではないのです。習近平の中国はかなり強引で強欲ですが、この強欲さは本質的には資本主義の強欲さと少しずれる。アメリカの強欲さや軍事的な強引さは、資本主義の強欲さそのものであり、また近代そのものの強引さです。

ディズニーランドから見える アメリカの帝国としての姿

――先生が書かれてきたアメリカ論を時系列で見ていくと、イベントやテーマパーク、あるいは原発のようなインフラから、時空間としての戦後日本に広がっていくなど、どんどん手を広げているというか、話が大きくなっていっていますよね。

吉見 「アメリカ」は、私が対象としてきたなかで最も広がりのある相手で、それは実は現代世界とほとんど重なってしまうのですが、だからといってそのすべてに手を出してきたわけではありません。

私にとって、戦後日本におけるアメリカは、戦前日本における近代天皇制と同じような位置にあり、戦後の文化事象を考えていこうとするとき、そのほとんどの背後にある巨大な力の審級として作動しているのです。

 ですから、戦後の文化政治を分析すると、多くが結果的に「アメリカ論」になる。それでも問いの展開としては、まずは戦後日本に広がっていたさまざまな消費社会現象があり、それらを問うと、「アメリカの影」が出現してくるという順番です。

 私自身にとってアメリカ論は結果であって原因ではありません。いろいろやっていくなかで、やはり「アメリカ」という場の力学と正面から向かい合わなければいけなくなっていったのです。

――そこがはっきりしないんです。場とおっしゃいますが、先生のアメリカ論で上演論的パースペクティブがどう活かされているのかが、よくわからないというか。

吉見 そうですかね。1990年代初頭、多木浩二先生の研究会で報告したディズニーランド論は、まさしく上演論的パースペクティブの分析なのですけどね。

 そこで論じたように、アメリカの文化政治学は、文化パフォーマンスをまるごと取り込み、それを映像的な権力工学によって再編し、完全に予定調和の仕組みに組み上げてしまうような仕掛けを作動させています。

 これは、アリエル・ドルフマンとアルマン・マトゥラールが『ドナルド・ダックを読む』(山崎カヲル訳、晶文社、1984年)で論じたことでもあったのですが、そもそもヨーロッパの植民地からの独立というモメントを通じて自己形成を遂げていったアメリカの文化は、その植民地としての大衆文化的な基盤のなかでも息づいてきました。

 それがやがて、アメリカ自体が世界帝国としての意識を深く身につけていくなかで、「外部=植民地」を予定調和的な内部に仕立て上げる巨大なエンタテイメント世界となっていったのです。

 ディズニーランドは、まさしくこうした植民地的大衆文化を帝国の予定調和的な完結世界に転回させていく反転のパフォーマンスが日々完璧に演じられている場所です。

「上演」という言葉を何か人間の生身の身体だとか、パロールだとか、偶発性だとかそういうところからだけ考えていると、ディズニーランドという場がなかなか「上演」とは見えにくいのかもしれません。

 しかし私が「上演」と言っているのは、必ずしもそれ自体としては反体制的な含意とか、ミハイル・バフチン的なカーニバル性とかが不可欠なわけではありません。

しかも、アメリカは自らがそれぞれのドラマの演出家であることをしばしば否認します。この否認は占領期の検閲にまでさかのぼるものですが、戦後を通じ、私たちはアメリカニズムを戦後天皇制であれ、テレビ文化であれ、家庭電化であれ、それぞれナショナリズムや日本的な娯楽文化、あるいは技術力として受容してきました。

 つまり戦後日本の側も、アメリカを強く欲望しながら、その欲望を否認もしてきたのだと思います。ジョン・ダワーが論じた日米の抱擁は、そうしたお互いの否認による抱擁でもあったと私は思います。

日本の家電製品やゴジラとアメリカとの関係性

――まさに江藤淳がそうだったように思います。

吉見 ですから、戦後日本における「シンボルとしてのアメリカ」は、アメリカと日本という二分法で分けることができない、そのどちらの役も、誰が誰として何を否認しながら演じているのかという厄介さがあります。

 ざっくり言えば、それは無限の仮面劇のような多重的な上演なのです。これはなかなかジャン・ジュネ的な上演とも言えますが、しかし演じている本人は、あまり自分がしていることに意識的ではありません。それぞれが無自覚になるほどまでに自分が何かに置き換えられているのです。

 つまり、戦後日本人のなかで「アメリカ」は、他者でも自己でもあるような二重性を帯び、そのことがさまざまな文化表象のなかに表明されてきました。

『さらば東大 越境する知識人の半世紀』(集英社新書)吉見俊哉 著

 たとえば、家電製品は1950年代には「アメリカ」を演じる俳優でしたが、60年代以降になると「日本」を演じる俳優に転身します。ゴジラについてみても、製作された1954年の時点では、あの巨大怪獣は第一義的には米軍のB29爆撃機のメタファーだったと思いますが、その後のさまざまな解釈のなかで、ゴジラは「B29」であると同時に、戦争で死んだ日本軍の「英霊」でもあったのではないかということになってくる。

 私もゴジラにはこの両側面があると思っていて、そういう両義性が戦後日本の大衆的イメージには常についてまわっています。

 しかし、さらに議論を進めると、戦後日本における「アメリカ」の上演を、このように表象の演技というレベルだけで捉えるのは、やはり不十分だという気がしてきます。

 なぜなら、戦後日本、つまり日本列島やそのなかの都市を考えたとき、アメリカは演じられる役であるのみならず、そのような役が演じられる舞台でもあったのです。

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