goo blog サービス終了のお知らせ 

自動車学

クルマを楽しみ、考え、問題を提起する

迷走するホンダ  その2

2015-08-11 02:32:20 | クルマ社会

 一連のぐにゃぐにゃボディ。そして以前述べたC20Aターボエンジンの確信犯的なエンジン作り。僕が目の当りにしたのは、ホンダという会社が持つ高い技術イメージと現実に販売されているホンダ車との間にある愕然とするほどの大きな乖離であった。そしてホンダという会社が好きだったから、そして信用していたからこそ僕の落胆は大きなものになったのである。なにしろそれまでの僕は、ホンダという会社は望めばフェラーリをも凌駕する高級スポーツカーメーカーになれた可能性があった、と思っていたからだ。


 ホンダを語る上で欠かすことができないのが本田宗一郎氏だ。本田宗一郎氏の生い立ちについては詳しく記した本がいくらでも存在するのでここでは省略するが、『ホンダ』に対する本田宗一郎氏のイメージと『フェラーリ』に対するエンツォ・フェラーリ氏のイメージはとてもよく似ている、と僕は思っている。
 もちろん細かい部分では違う。孤高の存在だったエンツォ氏と親しみやすいキャラクターだった本田氏との人物像はまるで正反対だし、レーサー上がりのエンツォ氏とたたき上げのエンジニアだった本田氏が求めていた理想は違う。しかし強烈な影響力によって会社を牽引し、モータースポーツに情熱を注いだ姿は同じである。この二人の人物を抜きに世界のモータースポーツ史を語ることはできない。
 そしてその世界のモータースポーツ史において、天下のフェラーリをも凌ぐ偉業を持っているのがホンダである。なにせホンダは二輪と四輪の両方で世界タイトルを取っているのだ。こんなメーカーは世界中のどこを探してもホンダ以外には存在しない。

 本田宗一郎氏が指揮を執っていた頃のマシンはどれもこれもみな凄まじいものばかりである。例えば1966年に二輪の世界GP250ccクラスに参戦した『RC166』はなんと250ccでありながら並列6気筒DOHC24バルブというとてつもないエンジンを搭載していた(スペックは60馬力以上/18000rpm)。さらに同じ年に参戦した125ccクラスには『RC149』というマシンで参戦し、これまた並列5気筒DOHC20バルブというとんでもないエンジンを搭載している(同34馬力以上/20500rpm)。そしてこの年、ホンダは50cc、125cc、250cc、350cc、500ccの全5クラスでメーカータイトル獲得という金字塔を打ち立てた。
 さらにホンダは1964年にこの二輪で蓄積したエンジン技術を応用して初のF1マシンである『RA271』でF1参戦を果たす。1500ccV型12気筒エンジンは220馬力/14000rpmというスペックで、トランスミッションも含めたその横置きレイアウトはまさに二輪エンジンそのものといった感じだ。そして翌年、改良型である『RA272』でホンダは見事にF1初優勝を遂げるのである。

 当時のホンダエンジンのことを世界の人々は『時計のように精密』と形容している。だが、僕から言わせてもらえば『時計よりもはるかに精密』だ。例えばRC149は125ccで5気筒である。これは1気筒あたりたったの25ccしかない。そしてわずか25ccのその燃焼室には四個のバルブが備わっている。そのバルブは、もはやつまようじくらいの細さだろう。このつまようじのような繊細なバルブが燃焼室内の高熱に耐えながら20500回転もの超高回転の中で運動しているのである。もはや機械式時計など比べものにならないほど過酷で、なおかつ気が遠くなるような精密な世界だ。ホンダが実現したその世界はまさに芸術そのものであり、その芸術には狂気すら宿っている。そして狂気を宿した芸術、という点でもあのフェラーリとどこか通じるものがあるように思う。
 
 本田宗一郎氏はその後、突如空冷エンジンに固執し始め、F1の責任者だった中村良夫氏との間に軋轢が生じてしまう。この軋轢の果てが1968年のF1で、この年は中村氏が主導した縦置き水冷V12エンジン搭載の『RA301』と、本田氏が主導して久米是志氏が設計した縦置き空冷V8エンジン搭載の『RA302』の全く異なる二台が出場することになる。そしてレース中にRA302はクラッシュし炎上、乗っていたジョー・シュレッサー氏は亡くなってしまう。
 本田氏はこの頃、市販車でもホンダ1300という空冷エンジン搭載のクルマを発売している(N360も空冷)。水冷エンジンのSシリーズとT360でクルマ作りをスタートした本田氏がなぜ突如空冷エンジンにこだわるようになったのか。
 「水冷エンジンだって最終的には空気で冷やす。だったら最初から空気で冷やしたほうがいい」と本田氏は言っていたそうだ。しかしこれは表向きの発言だろう。本田氏ほどの人物が本気で、しかもこんな単純な理由で空冷エンジンの道を進もうとしていたとはとうてい思えない。なぜならエンジニアであれば、空冷エンジンよりも水冷エンジンのほうが燃焼室内の温度を制御しやすい、という利点があることくらい簡単に理解できる。きっと内心はこの水冷エンジンの利点を十分に理解しつつ、それでも
 「人とは違うことをやってみたい!」
 「人と違うことをやって、多くの人からすごいと言われたい!」
という少年のような純粋な思いを持っていたのではないだろうか。
 そしてさらに、もしかすると本田氏の頭の中には最終的に『冷却しないエンジン』というものがあったのかもしれない。エンジンというのは、発生した熱を冷却すること無くすべてエネルギーに変換することができれば、理論上熱効率は100%の夢のエンジンになる。現時点では実現不可能な技術だが、本田氏はここまで思い描いていたのではないだろうか。


 残念ながら、僕は本田宗一郎氏にお会いしたことは無い。しかし本田宗一郎という人物を知れば知るほど、そこには愚直なまでにクルマとバイクに向き合い、そして少年のような純粋で熱い思いを持ちながら技術を突き詰めていった姿がひしひしと感じられる。かつてアイルトン・セナ氏と本田宗一郎氏が共に写っている写真を目にしたことがあったが、そこに写っていたのはアイルトン・セナ氏を前にして経営者としてではなく、まさに少年そのものの屈託の無い笑顔を浮かべた本田氏の姿だった。

 本田宗一郎という人物は、『HONDA』という会社を大企業にしたいと思っていたのではない。ただただ、人から「すげぇ!」と思ってもらえる会社にしたかっただけなのだ。


 さらに次回へ続く