自動車学

クルマを楽しみ、考え、問題を提起する

エンジンは次世代でも主要な動力源であり続ける、と思う    その2

2014-10-04 02:11:42 | クルマ社会
 
 僕と同様にエンジンに魅せられた人間は、みなクルマが好き、あるいはバイクが好きだろうと思う。そしてそういった人々は、前回僕が書いたエンジンの好みに対してあれこれと意見を持っているはずだ。
 「4A-Gはあまり好きじゃないなぁ・・・」
 「EZ30よりもやっぱりEJ20だろ!」
 「B16Aより13Bのほうがいいに決まっているじゃないか!何言ってんだこいつ!!」
 「バイクはやっぱり並列四気筒エンジンだろ!分かってないなぁ」
など、いろいろな意見があると思う。好みは人それぞれ。エンジンに魅せられた人々は、実に様々な意見を持っているものだ。それでいいと思うし、それが楽しい。エンジンが好きな人とエンジンについて語り合う時間は、僕にとって実に幸福な時間である。

 しかし、これが『電気モーター』になるとどうなるだろうか。

 クルマが世界中の人々に愛されてきた理由、それは単に便利で手軽な移動手段だからというだけではない。その心臓部には『エンジン』というまるで生き物のような内燃機関が存在し、そこに人それぞれの多様な好みが存在してきたからこそ愛されてきたのである。クルマというのは実用品であると同時に『嗜好品』でもあるのだ。もちろん電気自動車結構、燃料電池車大いに結構。存在を否定するつもりは毛頭無い。しかし、これから先の時代に世界中の人々がエンジンと同じように電気モーターにも魅せられるとはとうてい思えない。「このモーターの回転フィールは・・・」とか、「高回転の伸びが・・・」などと意見を言いあうことも無いだろう。そしてそこには、もはや『嗜好品』としてのクルマの姿は存在しないのではないだろうか。

 嗜好品としての要素が全く無い、単なる実用品としてのクルマ。僕はそんなクルマが次世代で主流になっているとは思えない。世界中の多くの人間は、そこまでドライにはなれないと思う。

 もちろん、感情論や精神論だけでは無い。そもそも僕は、『歴史上、電気モーターはエンジンに負けた動力源』であると思っている。

 多くの人は電気自動車や燃料電池車が新しい技術だと思っているが、実はそうではない。初めて電気自動車が発売されたのが1886年(イギリス)。つまり内燃機関(エンジン)の乗り物誕生とほとんど変わらないのである。当時は産業革命以降に誕生した蒸気自動車に変わる動力源として、電気自動車と内燃機関の自動車が覇権を争った。最初は電気自動車がリードしていたのだが、しだいに内燃機関の自動車が主流となっていく。恐らくバッテリーの問題だと思うが、早い話、この時点で電気自動車はすでに負けているのである。
 また、フェルディナント・ポルシェ博士が作ったハイブリッドカーは有名だ。もともと電気工学を学んだポルシェ博士は、1900年に電気モーターとガソリンエンジンによるハイブリッドカーを市販化させている。市販化しただけでも驚きなのだが、さらにこのクルマの電気モーターはなんとインホイールモーター、つまりホイール内部にモーターを内蔵しているのである。今から百年以上も前にこんな驚愕のハイブリッドカーを作ったポルシェ博士はまさに天才と呼ぶにふさわしい人物なのだが、そのポルシェ博士も以後は電気モーターを使用したクルマを生み出してはいない。このことは、天才ポルシェ博士も電気モーターよりエンジンのほうが優れている、という判断をしたからではないだろうか。
 さらに我が国日本でも、戦後に『たま電気自動車』というメーカーがあった。あの立川飛行機をルーツに持つこのたま電気自動車は、戦後のガソリン不足から生まれた生粋の電気自動車メーカーだった。のちに中島飛行機の一部と合併して富士精密工業、そしてプリンス自動車になっていくのだが、やはりここでもエンジニアの方々は電気モーターではなくエンジンを選択している。

 「そりゃ、当時の技術ではモーターとバッテリーの性能が悪かったからだろ!現在は比べものにならないくらいに進化してるし、これからも進化する!だからエンジンじゃなく電気モーターの時代が来るに決まってるさ!!」
 たぶんこう思っている方は大勢いると思う。しかし、進化するのはエンジンも同じである。現在、ガソリンエンジンの熱効率はおよそ36パーセント程度だと言われている。このことは、逆に言えばあと64パーセントもの進化の余地がある、ということだ。熱効率がすでに100パーセントに近いのであれば、当然「エンジンに未来は無い」という話になるのだが、大幅に進化の余地がある以上、まだまだ「エンジンに未来は無い」と結論付けることはできないのではないだろうか。

 繰り返しになるが、僕は電気自動車や燃料電池車を否定しているのではない。それどころか、電気自動車を「楽しい!」とさえ思っている。実は今から七年ほど前に、僕はヤマハの電動バイクである『EC02』に試乗して、その無音で走る独特の面白さに夢中になってしまった。もはや買う気満々、即行でお金を工面して数日後に注文しに行くと、残念なことにEC02はバッテリーのリコールで販売中止となっていたのである。もはやバイクを買う気満々のバイク馬鹿がバイクを買えなくて「仕方がない・・・」と諦めることなどできない。この時にさらにお金を足して現在のピアジオX9を買ってしまった、という経緯がある。だから電動バイク、そして電気自動車の面白さは十分に理解しているつもりだ。

 面白さは認める。だが、電気自動車や燃料電池車のことを『次世代のクルマ』ともてはやし、エンジンのクルマを『いずれ無くなるクルマ』とするマスコミや一部の人の風潮に僕は我慢ならない。電気自動車や燃料電池車にも欠点はある。例えばイギリスのBBCが放送している『トップ・ギア』という番組でアメリカのテスラの電気自動車をテストしたら、電気モーターがオーバーヒートしてしまった。スポーツカーだから、と、電気モーターをブン回して試乗しているうちにオーバーヒートして動かなくなってしまったのである。マスコミは電気自動車の欠点として『インフラ整備の遅れ』や『航続距離の問題』、あるいは『充電時間の問題』をよく挙げているが、実はそれだけではない。このオーバーヒートも含め、潜んでいる欠点は他にもきっとある。日産や三菱がインフラ整備のコストやバッテリーの保障に多大な負担を背負っていることも見逃せない。このまま負担を背負いながら、はたして電気自動車を作り続けることができるのだろうか。
 もちろん環境問題を考えた上で電気自動車や燃料電池車が重要だ、という考え方は理解できる。しかしこの先、エンジンの熱効率が飛躍的に向上したら、電気自動車や燃料電池車の優位性はいったいどれほどあるだろうか。熱効率が向上して驚愕の低燃費を実現したうえで、今日まで百年以上もエンジンのクルマが培ってきた便利さ、手軽さ、面白さが備わっている。そんなクルマに電気自動車や燃料電池車は、はたして勝つことができるのだろうか。

 僕はそうは思わない。エンジンという素晴らしい機械は、次世代でも依然として主要な動力源であり続けていると思う。