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自動車学

クルマを楽しみ、考え、問題を提起する

日本のクルマのアイデンティティとは何か

2012-02-13 03:00:27 | クルマ社会
 先日フォルクスワーゲンのゴルフについて、扱いやすくて理想のクルマのひとつである、と述べた。この扱いやすいという点についてであれば異論がある方は大勢いると思う。小さくて扱いやすいクルマなら日本にもたくさんあるじゃないか、と。だが僕は同時に高級感がある、とも述べている。その高級感こそがゴルフ最大の魅力であり、なおかつセールスポイントにもなっているのだ。言ってみれば扱いやすいという点に高級感という要素がプラスアルファとして備わっている、と言える。
 初代ゴルフはとても軽快なクルマだったが、とにかくうるさかった。そこかしこがガタピシと音がするし、エンジン音も容赦なく室内に入ってくる。おまけに速度警告音が『ブー』というブザー音で、これが笑えるほど強烈にうるさかったことをよく覚えている。もっとも速度警告音などというものは日本仕様のためにやっつけ仕事で取り付けたシロモノだからいたしかたないのだが、それはともかくフォルクスワーゲンはこのやかましいゴルフを静かにして、同時にプレミアムな小型車に育てていこうと考えた。そしてその考えは、モデルチェンジを重ねるたびに見事に具現化されていくことになる。高剛性のボディと建付けの良いインテリアはもはやかすかな音すら発生しないし、エンジン音もうまい具合に遮断されている。特にインテリアの質感はなかなかのもので、意図的に抑えたデザインと細かい仕上げのレベルの高さはもはや小さな高級車と呼んでもいいのではないかと思うほどだ。
 ゴルフに限らずフォルクスワーゲン全般、いや、これはすべてのドイツ車に共通して言えることなのだが、ドイツの自動車メーカーはみなこの抑えたデザインとレベルの高い仕上げを追い求めている。いわゆるプレミアムカーと表現されるクルマ作りを追い求めているのである。ただの安グルマが多い日本車とはわけが違う。

 これに対してイタリアのクルマは徹頭徹尾楽しさの追及にある。デザインで人を楽しませ、エンジンで人を楽しませ、走りで人を楽しませようとしている。イタリアの人たちは楽しくなければクルマじゃない、という強い信念があるのだろう。だからこそイタリアのクルマは単純明快で底抜けに明るい。少しは信頼性のことも考えてくれよ、と言いたくなるが、信頼性など二の次、三の次である。以前僕はフィアット500をベタ褒めしたが、まさにフィアット500はイタリア人にしか作れないクルマだろう。そして僕はこのイタリア車の単純明快さ、底抜けの明るさが大好きである。

 変わってフランス。フランスのクルマは人に優しい印象を受ける。イタリア車ほど底抜けではなく、ドイツ車のような『これでどうだっ!いいだろ?』というような押しの強さも無い。やんわりとやさしく人を迎え入れてくれるような雰囲気である。それでいて走りはとことん追求するから面白い。特にスピードへの憧れと探究心は常軌を逸している、と表現してもいいくらいだ。なにしろ鉄道(TGV)を574.8km/hもの猛烈な速度で走らせる民族である。本当に面白い!実に愉快!この他にもFF車で世界初のオーバー200km/hを実現したのはたしかシトローエンCXではなかったか。ルノー5ターボなんていう常軌を逸しているクルマバージョンもあった。こういったフランス人のスピード狂ぶりを改めて考えると、ルノーがF1に参戦し続けている理由がよく分かる。フランス人にとってスピードとは、フランスのアイデンティティそのものなのではないだろうか。
 例えばプジョーの207に乗ると、スピード狂のフランス人が作ったクルマらしく1.6リッターのNAエンジンでも驚くほど活発によく走る。これはひとたびアクセルを踏めば瞬時にATがシフトダウンをしてエンジンがブン回り、勢いよく加速していくからだ。日本車のように燃費の悪化を恐れてなるべく低く低くエンジン回転を保とうとするのとは全く正反対の考え方である。そして日本車の燃費とフランス車の活発さ、いったいこのふたつのどちらを取るかと問われれば僕は迷うことなくフランス車の活発さを取る。フランス人の考え方のほうが正しいと僕は思う。退屈なクルマに乗るくらいなら、自転車のほうがまだマシだ。

 最後にイギリスである。残念ながら現在のイギリスにはもう民族資本の自動車メーカーは残っていない。このため現在のジャガーやレンジローバーをイギリス車として捉えるには少し無理がある。それでも、ツイードのジャケットがなんとなく似合うあたりはイギリスの薫りがまだ残っていると言えよう。残念なのは現在のミニで、もはやツイードのジャケットよりもジーパンとTシャツ、スニーカーが似合うクルマになってしまった。昔のミニは小さくてもツイードのジャケットと革靴が似合うクルマだったのだが。主力工場は今でもイギリスにあるとはいえ、すべてがBMWのオペレーション下にあるのだから英国風が薄れるのも当然といえば当然ではある。
 昔のイギリス車を思い浮かべると、どこか油の匂いが漂ってきそうな、機械としてのクルマを強く印象付けるものが多かったような気がする。クセのある乗り味や特徴のあるエンジンなどがそう思わせたのかもしれない。いずれにしてもイギリスの薫りを漂わせるクルマが無くなりつつあるのはとても残念だ。

 イギリスはともかく、それ以外のヨーロッパのクルマはそれぞれの国が自動車作りをするうえで持っている個性やアイデンティティをしっかりと表現している。例えばアルファロメオはBMWのようにはならないし、フォルクスワーゲンとルノーは全く違う。言ってみればクルマという商品にナショナリズムを見事に反映させている、と表現することができる。そしてこのことは、これから先も自動車メーカーとして生き残るため、さらにはその国の自動車産業が存続するために極めて重要なキーワードとなっていくだろうと思う。

 では我が国日本はどうだろうか。日本という国のクルマとはいったいどういうものだろうか。我が国はクルマを作り始めて半世紀以上が経つが、残念ながら未だに各自動車メーカーは『これが日本のクルマだ』というものを表現できないままでいる。自国のナショナリズムを反映できないまま今日に至っている。やれドイツ風だ、イタリア風だ、とその時々の気分でよその国のナショナリズムをパクっているだけだ。そしてこれがどんなに危険なことか、未だによく理解していない。
 信頼性が高いことこそが日本のクルマのアイデンティティだ、と豪語する人もいるかもしれない。しかし悲しいことにそれはもう無理だ。なぜなら韓国のクルマがあるから。韓国車のレベルは飛躍的に向上している。もし信頼性だけで勝負したら、いずれは価格の安い韓国車にやられてしまう。いや、現実に北米ではもう日本車は韓国車にやられはじめている。ハイブリッド技術だって、ガチで戦える技術を韓国のメーカーが習得したら、これまた価格の安い韓国車に負けてしまうことは火を見るより明らかだ。

 これからの日本のクルマは日本の文化を色濃く反映させるような、骨太なアイデンティティを持たないと世界では戦ってはいけない。アイデンティティを持たなければ、安売り合戦にさらされることになるからだ。そして安売り合戦になればとうてい韓国車に勝てるとは思えない。さあどうする日本のクルマ。