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Retro-gaming and so on

モナコGP

中山は、セガに副社長として入ったものの、自分が思ったほどには改革はすすまなかった。開発部も、中山の手で人数を増やしてはいた。が、まだまだ力が弱い。嵐を呼ぶほどのソフトが、まるでできない。 
<早く、ポスト・インベーダーゲームを開発し、販売しなくては・・・・・・>
昭和五十四年六月八日、インベーダーブームは突如として去った。
販売部長の小形武徳は、愕然とした。信じられないことだが、その日を境に、セガの販売していた「スペース・ファイター」の注文が、ぱたりと止まった。一台たりとも来なくなったのである。
小形は、血の気が引く思いがした。
<いよいよ、インベーダーブームが終わるときが来た・・・・・・>
インベーダーゲームによって、セガは、タイトーに業界トップの座を明け渡し、二位に転落していた。セガの内部に、危機感が満ちていた。
開発部の佐藤秀樹は、とくに焦っていた。なんとか「ヘッドオン」という新ゲームを開発した。
画面上の道にドット(点)が置かれている。そのドットを、自分の車を操作しながらつぎつぎと消していくというゲームだった。ところが、敵の車が、自分の車の邪魔をする。敵の車に接触してしまうと、自分の車は破壊されてしまう。
のちの「パックマンブーム」につながる「ドット取りゲーム」のはしりであった。
このゲームはそこそこヒットはしたものの、大ヒットまでにはいたらなかった。
佐藤たち開発部は、毎晩必死に話し合った。ドライブゲームをもう一歩すすめた「モナコ・グランプリ」というゲームの開発が企画されていた。「スピードレース」というゲーム以来、ドライブゲームはタイトーのマシンの方が人気を集めていた。
佐藤は闘志を燃やした。
<インベーダーでは負けたかもしれないが、この「モナコ・グランプリ」で、タイトーのお株を奪ってみせる!>
佐藤たちは、連日議論した。
中山までもが参加した。
中山は、前から疑問に思っていたことを口にした。
「車のゲームって、どうして時間がきたら終わりにならなきゃいけないんだ。壊れるまで走れたほうが楽しいじゃないか。インベーダーだってこちらがやられるまでできるだろう」
佐藤は、おどろいた。
<それは気づかなかったな>
反省もした。
<おれたちは、ゲームに詳しいがゆえに、初心に返って楽しむことを忘れていたのではあるまいか>
「モナコ・グランプリ」は、中山の案を取り入れることにした。最初の九十秒まではいままでどおり時間制で、何台車が壊れても走れる。ただし、一定以上の得点をあげていれば、持ち時間が切れても車が破壊されるまで走ることができるようにした。
中山は、さらに佐藤たちをしきりに食事に誘った。
「飯でも食いに行こうや」
ただし、漫然と食事をしたわけではなかった。
開発スタッフを食事をしながらも、開発中のドライブゲーム「モナコ・グランプリ」についてさまざまな意見を出した。
「コースの中に、橋をかければ面白いんじゃないか」
「雨が降ってくると、道が滑るっていうのは、どうかな」
それまでのドライブゲームにはない目新しい意見がつぎつぎと出た。
佐藤秀樹も負けずに意見を出した。
「事故を起こすと、救急車が来る、というのはどうだろう」
「それはいい。ところで、途中で暗くなると車のヘッドライトが点灯して、ライトが照らした範囲しか見えないというのは、どう思う?」
「モナコ・グランプリ」は、熱をおびたブレーンストーミングにより、それまでのドライブゲーム覇権を握っていたタイトーのドライブゲームを抜いて、トップの人気を獲得した。
このゲームが、のちにセガを救うことになる体感ゲームへと発展していくことになる。

 
 

そこまで言うほど大したゲームじゃねぇと思う・・・・・・。
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