夜桜や 夢に紛れて 降る、寝酒・・

観念らの規定性らによる、事象らの成り立ちようらへの解枠にも絡めて、 天下経済系の可能的な成長の度合を増すべき事らを述べる

歴史拾遺; 徳政令❗。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗

2019-10-20 23:00:14 | 政治・経済
☆ 徳政令は、
あり得る、 貸し手らを、 より、
減らす向きへ、 圧力をかけ、
貸すからには、 より、
必ず、 力ずくでも、 取り立て得る、
暴力組織らへ、 借り手らを、
より、 引き寄せ、 より、
低い利息で、 貸し合う、
あり得る、 競争性の度合いが、
あり得る、 貸し手ら、が、
より、 減らされる、と共に、
低下して、
より、 高い利息を、 力ずくでも、
取り立て得る、 闇金の、
高利貸しどもへ、 より、
あり得る、借り手らを誘導する、
余計な、度合いを成し増す、
もの、でもあり、
そうした、 あり得る、
闇金員ら、を、 より、 絶やし去るべき、
有効な、 方策な事らを成し、
より、 甚だしく、安い利息での、
貸し手としての役割を、
公の機関が、こなす事で、
あり得る、 貸し手らの側の、
より、 安い、利息での、
貸し付けでの、 競争性を、
より、よく、成し付け得るようにし、
不運や、自らの側の、 怠り、
などによって、 債務の不履行 ;
デフォルト ; 、 を成す、
人々へは、 より、 過酷ではない、
仕事らを、 公の機関が、 提供して、
より、 安楽に、 債務への履行に相当する、
労働ら、を、 気長にも、
成し付け得るようにしてやり、
貸し手らへは、 公の機関が、
長期に渡って、 少しずつでも、
その債務ら、への、履行に相当する、
物事らを、 借り手らに代わって、
成し行い得るようにする、
などの事ら、 と、
あわせて、 執り行う事で、
より、 宛てと成り得る、
人々の、 あり得る、 福利らや、
道徳的な健全性、 を、
より、能く、成し付け得るようにすべき、
手段な事で、 あり得る、
もの、でもある、
が、
鎌倉幕府や、 足利幕府、 などが、
自らを、 より、 低い利息で、
人々へ、資本性らを貸し出す、
投資銀行として、機能させなかった、
事は、
その、 徳政令らによって、
より、たちの悪い、 あり得る、
カネ貸しら、 へ、
余計な、勢力性を付け足してやり、
その社会の、 人々の、
倫理的な健全性らを、 より、
損ない、 悪化させもして、
自らの社会体制を、 より、
崩壊せしめる、向きへ、
余計な、圧力をかける事に成った、
事、 などと、共に、
極めて、残念な事であった❗ 。


根途記事➕論評群 http://www.worldtimes.co.jp/col/siten2/kp111018.html : 自回答の引越保管➕ :
naoki_s9977さん :
今の時代に、 もし・・、
「徳政令」が発動したら、
日本の財政は、 どうなるでしょうか?
閲覧数 ( 1,059 ) 2006/ 10/15 20:32 :

mutuhayaさん :

インフレを進めて、実質的な徳政令・・。
日本の主権者であり、
自らを統治する権限を持つ、世界で、
唯一の存在でもある、 主の、
日本国民らからの、
利息付きの預金らを得て、
その執事の役にある、日本政府は、
その借り、の、94 % 、 前後以上を、
構成し得ており、
諸外国の外国人らからの借り分を、
数 % 、 以内に封じ得ている、
という事においても、
日本の財務省の反日役人らが、
主張する事とは、異なり、
日本政府の財政は、極めて、
健全な状況にあるのですが、
そうした実態を度外視して、
財務省の反日役人らの主張する通りに、
日本政府が、 なぜか、必ず、
反日性の一定度合以上にある、
外国人らから、より、余計に、
借りる事が、善い事であり、
実際に、 反日役人らの主張している、
事らの通りに、
欧米との取り決め事らにより、
外国人らが、 日本の売国奴らにより、
日本政府への貸し手らの中で、
最大手の存在か、
唯一の存在に成ってしまった状況の下、
などでは、 外国人ら、ではなく、
自らの主の、日本国民ら、の、
福利らを増す為にだけ、
存在するべき立場にある、日本政府へ、
進んで、お金を貸してくれる、
外国人らが減って、
日本国民らから、 税、
などで取り立てないと、
是まで通りの公共サービスの
水準を維持し得ない、状況になり、
犯罪に備える、 日本国民らの間にも、
収入や資産による格差の増大が生じ、
犯罪に備える所か、
犯罪行為に手を染めざるを得なくなる、
人が増え・・。

いずれにせよ、
欧米人らを最大手のカネの出し主として頂く、
売国奴ら、 等が、 貸しても、
生半可な事では、お金が返って来ない、
という、社会状況になると、
これまでも、 そうでしたが、
更に、取立てに暴威を発する、
シナ朝鮮人モドキらへ、
貸し手の役が集中してゆく、
事にもなりますね。

自力で取り返せるだけの仕組みがないと、
金主らが、迂闊に、
資金を貸す訳にはいかなくなるので。
2006/ 10/15 19:49 。


☆ 徳政令 貸し手を減らし 借りにくさ
増せば、 利息と 闇金が増え・・❗。

☆ 六角は 勝って、京都で 徳政令
久米田合戦 撃たれし、三好・・❗。

1441年でもある、 嘉吉 元年 、 の、
6月の、 『 嘉吉の変 』、 で、
室町幕府の第6代の征夷大将軍の、
足利義教氏が暗殺されると、
政治的な混乱の中で、
「 代初めの徳政 」、 を求めて ;
≒ 天下の一同への徳政令を求めて ;
、 京都や、近江の坂本の馬借 バシャク 、
たちを中心に、
農者 ノーザ 、 らが蜂起し、
地侍らが指導して、 数万人の、
一揆に膨れ上がった。

各地への波及は、 なく、
京都を包囲する形をとった。

8月 : 近江の馬借が蜂起し、
そこの守護の、 六角満綱氏が、
徳政令を発布した。

9月 : 東寺や、北野社への占拠をし、
丹波口や、西八条への封鎖を成した。

延暦寺が、 六角氏の徳政令に反対した、
事から、 その支配下の近江の馬借が、
一揆から離反し、 敵対するも、
一揆は、更に、清水寺を占拠する。

一揆軍は、 京都と外部との連絡を断った、
上で、 金貸しをしていた、酒屋に、
土倉と、寺院を襲撃し、
地侍らの指導の下に、
組織的な行動をとり、
勝手な略奪を取り締まった❗ 。

足利幕府が、 当初は、
農者らに限定した徳政令を発布して、
事態への収拾に乗り出したのに対し、
一揆勢は、 公家や武家も含む、
一国での平均の徳政令を求め、
支配者層の支持をも得ようとしている。

管領の細川持之が、 土倉から、
賄賂の、 一千貫を貰って、
それへの保護の為に、
出兵の命令を出した事実を知った、
守護大名らは、 出兵を拒んだ❗ 。

畠山持国氏に至っては、 一揆に、
自分の被官が混じっていた事から、
鎮圧に反対し、
事態は、さらに混乱した。

室町幕府の第7代の征夷大将軍の、
足利義勝氏は、 幼かったので、
彼を後見した、管領の細川持之は、
要求を受け入れ、 差し押さえられてから、
20年未満の質物の返還を含む、
山城の一国平均での、徳政令を発布した ;
≒ 『 嘉吉の徳政令 』 。

戦国時代においては、
相模国の戦国大名である、北条氏康氏が、
大飢饉の発生に際して、
氏政氏への家督の相続を行い、
「 代初めの徳政 」、 を行った、
例、 などがあり、
代初めの徳政が定着していた、
事を窺 ウカガ い知り得る。

甲斐の国の、 武田信虎氏は、
1528年な、 享禄 元年 ; 、に、
甲斐の一国を宛とした、
徳政令を発しており ;
≒ 『 勝山記 』 ; 、 これは、
東国の戦国大名が、
領国内に発令した、 徳政令である、
他に、 土一揆の勃発の前に、
発令されている点からも、
注目されている。

戦勝による、 徳政もあり、
1562年でもある、 永禄 5年 ; 、
の、 3月5日に、
畠山高政氏が、
久米田の戦いで、
根来衆の鉄砲らからの攻撃が利いた、
お蔭もあって、 三好氏に勝った後に、
翌る、 6日に、 京に入った、
六角義賢氏が、 8日に、
徳政令を出して、 京を掌握している。

@ 久米田の戦い :

1562年、 な、 永禄 5年 、 の、
3月5日に、 和泉国は、 八木郷の、
久米田寺の周辺 ;
≒ 今の、大阪府は、岸和田市 ;
、に布陣する、 三好実休氏に対し、
畠山高政氏の軍勢が攻め入った合戦だ。

両軍を併せて、 1万7千から、
5万の兵力が激突し、
三好実休氏は、この合戦にて、
討ち死にし、 三好氏の没落、への、
遠因となった合戦 、と、 される。

同じ時期に、 六角義賢氏が、
畠山高政氏と同調して、京都でも、
三好氏と戦 イクサ 、 と、 なったので、
「 南北 接 激戦 」、
とも、 言われている。

第13代の征夷大将軍の、
足利義輝氏を擁した、 三好長慶氏が、
1561年 、 な、 永禄 4年 、 の、
5月6日に、 前 サキ 、 の管領の、
細川晴元氏と和睦する様に、
義輝将軍より、 勧められ、
長慶氏は、 使者として、
三好長逸氏と、 松永久秀氏を、
逢坂 オウサカ 山に出迎え、
細川晴元氏は、 8年ぶりに、入京した。

晴元氏と義輝将軍との対面が終わると、
長慶氏は、晴元氏を、普門寺城に幽閉し、
その後に、 晴元氏の長男の、
細川昭元氏も、普門寺城に入れられ、
長慶氏の監視の下に置かれた。

妻が、晴元氏の妹な、六角義賢氏は、
晴元氏と信良氏な父子への処遇を非難し、
兵を挙げ、
同じ年の、3月18日に、
三好方の岸和田城の主で、
長慶氏の弟の、 十河 ソゴウ 一存氏が、
死んでおり、
三好長慶氏に破れ、 紀伊国に、
落ち延びていた、 畠山高政氏は、
打倒長慶を旗印に呼号していた。

三好軍の防備力が、落ちている、
と、 見たのか、
六角義賢氏と畠山高政氏らは、手を組み、
京都を含めた、 畿内において、兵を挙げ、
同じ年の、7月13日に、
畠山高政氏を、 総大将に、
安見宗房氏や、遊佐信教氏と、
根来衆の1万の兵で、
岸和田城を取り囲んだ。

同じ月の28日に、 六角義賢氏は、
永原重隆氏を大将に、2万の兵を率いて、
将軍地蔵山城に布陣した。

この時に、 三好長慶氏は、
飯盛山城におり、 息子の、
芥川山城主の三好義興氏らの、
摂津衆の、7千兵を、
梅津城や郡城へ、入らせ、
家臣の信貴山城主の、
松永久秀氏らの大和衆の、7千の兵を、
京西院小泉城へ入らせて、
将軍地蔵山城への備えとした。

岸和田城への援軍として、 総大将に、
弟で、高屋城主の、三好実休氏ら、の、
河内衆と、 三好長逸氏に、
三好康長氏や、三好政康氏と、
篠原長房氏らの、淡路や阿波衆の、
7千の兵を呼び寄せ、
岸和田城に向かわせたが、
畠山軍が取り囲んでい為に、 そこから、
数町を離れた、 久米田寺の周辺にある、
貝吹山城に、 彼らは、陣を張った。

11月24日に、 六角軍が攻勢に出た。

六角義賢氏は、自ら、陣頭に立ち、
将軍地蔵山城を出て、 白川口にある、
神楽岡を占領したが、
松永軍が、直ちに、迎え撃ち、
永原重隆氏を始め、
多くの武将らを討ち取られ、
将軍地蔵山城へと退却し、
松永軍からの追撃を受けたが、 撃退した。

一方で、 貝吹山城は、 旗色が悪く、
三好実休軍の武将らの数名が討たれた。

12月25日に、 飯盛山城、への、
支城となっていた、 三箇城の主の、
三好政成氏が、 畠山軍の武将の、
宮崎隠岐守の奇襲にあい、討ち死にした。

政成氏は、三好政康氏の兄で、
堺幕府の時から、朝廷との折衝役で、
三好氏の重鎮であった。

その様な緊張状態の中で、 1562年な、
永禄 5年 、 の、正月に、
三好義興氏と、松永久秀氏らは、
足利義輝将軍への、
謹賀の挨拶に訪れている。

こうして、 馴染んで置く事が、
可能的な標的らをして、
自分の側へ宛てて、 油断させる、
事に成る訳だが、
こうした折々の挨拶、 などを欠かさない、
自らの馴染みに成る度合を積む、
相手らにこそ、心して、備えをし、
備えらを重ねて、 それらを、 予防の為に、
相手らに知らせもし、
予防し切れない場合の為に、
伏せても置くべきな訳だ。
:
この間にも、小さな合戦は、
何度かがあり、 対陣してから、
7か月を経た頃に、
『 細川 両家記 』、 によれば、
同じ年の、3月5日の、 午ノ刻 ;
≒ 午後0時辺り ; 、より、
三好実休氏が布陣していた、 貝吹山城へ、
畠山高政氏や、安見宗房氏らの軍勢が、
魚鱗の陣形で、 攻め入った。

☆ 魚の鱗 ウロコ 、 らが、
連なり合った様な形を成したままで、
畠山方の将兵らが、 三好勢へ攻め寄せた。

☆ 魚鱗 ギョリン :

中心が、前方に張り出し、
両翼らが、 後退した陣形だ。

「 △ 」、 の形に、将兵らを配する。

底辺の中心に、 大将を配置し、
そちらを後ろ側として、敵に対する。

戦端が狭く、 遊軍 ≒ 遊兵
≒ 戦い合いに参加できない、
位置らにある将兵ら ; 、
が、 多くなり、
後ろの方からの奇襲を想定しない、
態勢な為に、
駆動性らの多い、
大陸の平野での、 会戦には、適さない、
が、
山岳や、森林に、 河川、 などの、
地形な要素が多い、 日本では、
戦国時代に、よく、使われた。

全兵力をして、 完全に、
一枚のウロコの様な、
密集陣に編集するのではなく、
数百人が、 単位の横隊 ;

進む向きに対して、
横へ長い、 密集陣 ;
、を単位として、 編集する事で、
個別の駆動性を維持したままで、
全体としての堅牢性を確保する事から、
魚燐 ウロコ 、 と呼ばれる。

多くの将兵らが、 散らずに、
局部での、 戦闘に参加し、
一陣が、 壊滅しても、 次の陣が、
すぐに、 繰り出せるので、
消耗戦に強い❗ 。

一方で、 横隊を要素とした集合な為に、
両側面らや、後方から、
攻撃を受けると、
混乱が生じやすく、弱い❗ 。

包囲され易く、 複数の方向から、
敵勢らに囲まれた状態では、
用いない。

特に、 敵より少数な兵力の場合には、
正面突破に有効だ ;

魚鱗の陣形で、三好勢へ攻め寄せた、
畠山方は、 前方の三好勢より、
少数だったのかも知れない 。

対陣の際に、 前方からの防衛に、強い、
だけでなく、
部隊らの間での、情報らの伝達が、
比ぶるに、たやすいので、
駆動にも適する。

実戦では、 武田信玄軍が、
三方ヶ原の戦いに於いて、 この陣形で、
徳川家康軍と戦い、
これを討ち破っている❗ 。

家康氏は、 その後の、 千6百年の、
関ヶ原の戦いで、 西軍の鶴翼に、
魚鱗をもって攻めかかっている ;

西軍の一定部位らを突破して、
その背後からの攻め戻りも成して、
前後からの、 挟み撃ちを成す、
事も、狙ったのかも知れない 。

・・畠山軍が、 春木川を渡河した所へ、
三好実休軍の弓隊が、
一斉に、矢を放った。

両軍は激突し、せめぎ合う。

特に、畠山軍は、春木川を背に、
背水の陣で、逃げ場を断って、戦った、
が、

一時 イットキ 余り ;
3時間弱 ; 、を経て、 ようやく、
第一陣の畠山方の安見隊が崩れ始めると、
前衛をつとめた、 三好方の、
篠原長房隊が、 畠山方の、第二陣の、
遊佐信教隊に襲いかかった。

第二陣をも、順調に、
切り崩している様に思えたが、
篠原隊と、三好実休軍との間が、 開いた。

その時を狙っていたのか、
畠山方の、第3陣の、紀伊衆を主力とした、
湯川直光隊は、 春木川の上流より、
篠原隊の背後へと、回り込もうとした。

これに、 危機感を覚えた、三好実休氏は、
篠原隊への救出へ、 三好康長隊に、
三好政康隊と、三好盛政隊を、
前線に投入し、 湯川隊への、
切り崩しにかかった。

その結果にて、 実休氏の本陣は、
精鋭の馬廻り衆の百騎前後だけの、
手薄な状態になった。

この時に、 本陣の後方にある、
久留田池の方向から、突然に、
銃声らがした❗ 。

根来 ネゴロ 衆の鉄砲隊が、
三好方の本陣へ撃ちかけたものだ。

馬廻り衆が倒れ、 三好実休氏は、
わずかな手勢を引き連れ、
根来衆へ、 馬を駆けさせたが、
その途中で、討ち取られた模様だ。

三好実休氏の辞世の句は、

“ 草カラス 霜又 今日ノ 日ニ消テ
因果ハ爰ニ メクリ来ニケリ ” 、
とある。

この句にある、「 因果 」、 とは、
阿波の国主の、細川持隆氏を殺した、
事を指している、 と、思われている。

これに対して、 三好実休氏の弟の、
安宅冬康氏は、

“ 因果トハ、 遙 ハルカ 、 車ノ 輪ノ外ニ
メグルモ、遠キ 三芳ノ原 ” 、
と、読み直した、 とある。

書籍の、『 天下を制す
三好長慶vs織田信長 』、 によると、
この句は、 合戦への前夜に詠んだ。

実休氏を討ち取った、根来衆とは、
往来右京氏、なる、 根来寺の衆徒だった、
と、 思われ、 最後に残った、
馬廻り衆の、 30余りも、
敵陣に斬り入って、 全滅した。

合戦は、 申 サル ノ刻 ;
≒ 午後4時頃 ; 、で、
実休氏の享年は、 37 。

総大将が、 討ち取られると、
三好軍は、総崩れとなり、
篠原長房隊に、 三好の、康長隊と、
政康隊や盛政隊は、 厳しい、
追撃をかわしながら、堺に落延びると、
そのまま、阿波に帰った。

岸和田城の主だった安宅冬康氏も、
脱出し、淡路へ帰った。

高屋城の守備兵らは、
畠山高政氏へ、城を明け渡し、
飯盛山城へ逃れた。

高政氏は、 和泉と、南河内を取り戻した。

もう一方の主な戦場だった、 京都では、
三好義興氏が、 撤退を主張し、
京西院小泉城に、梅津城と、郡城にいた、
京都防衛隊を、勝竜寺城まで、
引き揚げさせ、 足利義輝将軍には、
岩成友通氏を警護につけ、
石 イワ 清水八幡宮へ移した。

翌る、3月6日に、 六角義賢氏は、
洛中に進軍し、 同じ月の8日に、
徳政令を敷き、京を掌握した。

2年ぶりに、 高屋城に入った、
畠山高政氏は、 数日を、
兵馬に休息を与えると、
同じ年の3月の中頃に、
三好長慶氏がいる、飯盛山城を攻囲した。

ここは、 三好氏の総本山となっている、
城で、 武力も強大で、 簡単には、
攻め込まず、
『 戦国三好一族 』、 によると、
「 敵兵が疲労するを待ってから、討つ、
持久戦をとっていた 」、
と、 解説している。

その後の、 5月19日から、 20日の、
教興寺の戦いへと続いていく。

将軍山城は、 今の京都市は、左京区の、
北白川清沢口町 ;
≒ 当時は、 山城国の愛宕郡 ;
、にある、 瓜生山 ;
≒ 標高が、 3百1m ; 、
に築かれた、 戦国時代の山城で、
別名には、
北白川 キタシラカワ 城、や、
瓜生山城 ウリュウサンジョウ 、がある。

瓜生山の頂 オベ 、 を、本丸とし、
近江より上洛する際の、
前線基地としての役割をもっていた。

『 ニ水記 』、 の、 1520年な、
永正 17年 、の、 5月30日の、
条 クダリ 、 によると、
細川高国氏が、初めて、
この城に陣を構え、 その際に、
戦勝を記念して、将軍地蔵を勧請したのが、 城の名への由来となった。

1546年な、天文 15年 、の、
冬になると、 第12代の足利義晴将軍と、
細川晴元氏が、 対立するようになり、
義晴将軍は、自ら、この城を、
大幅に改修した。

城へ、米や普請人夫を徴発したり、
太さが、五、六寸の、 竹を与えるように、
命じた事が、
色々な史料らから、 確認できる。

『 日本城郭大系 』、 によると、
「 当城は、 その修築の際に要した、
労働力や資材の調達を、文献で裏づけ得る、 稀有 ケウ の、 中世城郭で、 幕府は、
当城への修築の為に、 洛中と洛外の、
寺社や権門を通じて、
京都の近辺の人夫を、ほとんど、
総動員した、 と、 思われる 」 、とし、
戦国時代の修築の方法を、
古文献で知り得る、 珍しい城だ、
と、 解説している。

修築をした将軍山城であったが、
翌る、天文16年、 の、 3月30日、な、
1547年、 の、 4月20日 、 に、
室町幕府の第12代の征夷大将軍、の、
足利義晴氏は、 征夷大将軍職を、
息子の足利義輝氏に譲り、 自らは、
大御所、となり、 細川晴元氏を討つ為に、
洛中の細川氏綱氏や、
近衛稙家氏らと結んで、 父子で、共に、
ここに籠城するものの、
細川晴元氏の家臣の、三好長慶軍が、
同じ年の7月12日に、 相国寺に、
2万の軍勢で、陣を張り、
周辺の地域を焼き討ちした。

同じ月の19日に、 足利軍は、
将軍山城を自ら焼いて、
義晴氏と義輝氏な父子は、
近江の坂本へ脱出した。

その後に、 足利幕府は、 軍勢の拠点を、
中尾城や、霊山城へ移した為に、
将軍山城は、 部分的にしか、
使用されなかった。

和泉の守護代の松浦氏が、幼かった為に、
後見として、 岸和田城に入っていた、
「 鬼十河 オニソゴウ 」、
と、恐れられていた、 十河一存氏が、
1561年な、 永禄 4年 、の、
3月18日に、 死に、 それに乗じて、
畠山高政軍は、 岸和田城を取り囲み、
これに呼応して、 六角義賢氏も、
家臣の永原重澄氏に命じ、
同じ年の、 7月28日に、
将軍山城に立て篭もり、
六角義賢氏、な、 自身は、
神楽岡の付近に、陣をはり、上洛を伺った。

この時の六角軍は、 総軍で、
2万の兵であった。

これに対して、
三好長慶軍は、 子で、芥川山城主の、
三好義興氏らの7千の兵を、
梅津城と郡城へ、入れさせ、
信貴山城の主の松永久秀氏の7千の兵を、
京西院小泉城へ入れさせ、
勝軍山城と対陣した。

同じ年の、 7月から11月までは、
遠矢を射合う程な、 交戦振りであったが、
11月24日に、 三好軍は、
白川口に襲い来り、 松永軍は、
将軍山城に襲い来って、 挟み撃ちをした。

三好軍は、 白川口を突破し、
細川軍が陣取っている、馬淵に押し寄せ、
激戦となった。

この時に、 三好軍の将だった、
三郷修理亮 シュリのスケ 氏が、
馬ごと刺されて、転倒し、 そこに、
堀伊豆守なる人が、 襲いかかり、
首を討ち取った。

細川軍の損害も、甚大で、薬師寺氏や、
柳本氏、 などが、討ち死にした。

松永軍は、 永原重澄氏を討ち取り、
将軍山城を突破し、
六角義賢氏が陣取る、神楽岡へ、
1万の兵をもって、 突撃した。

六角軍は、 三雲三郎氏に命じて、
選りすぐりの弓隊の、 3百の兵をして、
高い所から、一斉に、射撃を加えた。

松永軍は、 強勢の射撃を受け、
多くの死傷者を出して、敗れ走った。

六角義賢氏は、直ちに、
追撃戦を展開しようとしたが、
蒲生賢秀氏が、大軍をして、
追撃する事の不可を説き、
追撃戦を中止させた。

翌る、1562年な、永禄5年の正月に、
六角軍は、三好軍へ襲いかかり、
何名かの兵らを討ちとった。

同い年の3月5日に、 久米田の戦いで、
三好実休氏が、 討ち取られた、 という、
報せが伝わると、 三好・松永軍は、
勝竜寺城まで、 引き揚げ、
第13代の征夷大将軍の足利義輝氏には、
岩成友通氏を警護につけ、
石清水八幡宮へ移した。

六角軍は、上洛し、
三好長慶軍の者を、かくまう者や、
それへ宿を提供した者には、
罪科 ツミトガ 、を問うとして、
京の人々を威圧し、 一方では、
徳政令を出して、
一守護による徳政令が、
合法な物なのかは、ともかく、
人々の借金を棒引きにして、
人々を撫 ナ で付けもした。

1570年な、 元亀元年、の、
9月から、 11月まで、 志賀の陣があり、
明智光秀氏が、この城に入って、
数カ月を、延暦寺を牽制するが、
織田信長氏の京都への支配が確立すると、
その軍事的意義を失って、 廃城になった、
と、見られている。


☆ 秀吉氏の提案を伝える古文書 ;
将棋の、「王将」を、「大将」に❗ ;
徳島城博物館 ; きょうから特別展 ;

 将棋の、「 王将 」、は、
「 大将 」、 になるかもしれなかった❓ ;

将棋に関する、 県の内外の資料を紹介する、
特別展 ; 「 王手 将棋の日本史 」、
が、 19日から、 11月24日まで、
徳島市の徳島城博物館で開かれる。

インドから、 東南アジアを経て、
平安時代に、 日本に伝わり、
天下人から、 庶民まで、 幅広く、
愛された将棋。

現在の形になったのは、
15 ~ 16世紀 、と、 みられる。

豊臣秀吉氏が、 駒の名称の変更を、
朝廷に提案した古文書などをはじめ、
肖像画、将棋盤、駒など、
歴史、美術史的な資料な、 百点が、
展示される。
国内の将棋関連の資料が、
一堂に集まるのは、初めて。

 最も興味深いのは、
豊臣秀吉氏にまつわる古文書 ;
「 お湯殿の上の日記 第五七 」 ;
( 東京大 史料 編纂所蔵 ) 。

15 ~ 19世紀に、 朝廷に仕えた、
女官が書いた職務日誌で、
秀吉氏が、 1595年、に、
菊亭晴季氏らな、 公家の、3人を通じて、
「 王将 」、を、 「 大将 」、と、
改めるよう、 朝廷に提案し、
陛下が許可したとする、
内容が、書かれている。

しかし、 記述は、それで終わっており、
提案の理由や、 後に、
名称の変更が行われなかった、
経緯 ケイイ ; イキサツ ; 、
などは、 分かっていない。

 江戸時代には、大橋本家が、
徳川家康氏から、将棋界、への、
取りまとめ役に当たる、将棋所を任された。

その大橋本家が考案した、「 大局将棋 」、
の、 復元品 ;
( 大阪 商業大 アミューズメント
産業研究 所蔵 ) 、も、
注目を集めそうだ。

縦が、 1・3 メートル、
横が、 1・1メートル 、 の盤に、
各陣営に、 4百2枚ずつの駒を並べる、
破格の須罫 スケー ; スケール ;
、 の将棋だ。

 「 熊兵 」、 「 森鬼 」、 などの、
居自 オリジ ; オリジナル ; 、
の、 駒、
縷留 ルル ; ルール ; 、 があり、
大橋本家が、 将棋の家元の権威を示すべく、
考案した 、と、 される。
実際に指すと、勝敗を決するまでに、
3、4日を要する、 という。

 県内関係の出品では、 美馬市は、
脇町の出身で、 明治時代に活躍した、
12世名人、な、 小野五平氏 ;
( 1831~1921年 ) 、 が、 三段から、
七段まで、 昇段ごとに受け取った免状な、
5枚が並べられる。

 徳島市の中島田遺跡の、 13世紀の、
地層から出土した、 「 歩兵 」、 な、
駒は、 全国的に見ても、 古い。

駒の裏に、 「 と(金) 」、 の墨書がなく、
実際に使われたかどうかは、不明だ。

この他に、 徳島市は、 上八万町の、
鎌倉から、 室町時代の、
川西遺跡から出土した、 駒には、
「 本横 」、と、 書かれている。

中世に、はやった、 「 中将棋 」、
と、 呼ばれる、 将棋で、 使われた、
と、観られる。

 森脇崇文学芸員は、
「 日本の将棋の長い歴史と伝統を、
知ってもらい、 各時代の人々が、
親しんできた史実を、 資料を通して、
想像してほしい 」、
と、 話している。

 ◇  10月27日、の、 午後1時半から、
記念講演会 ; 「 将棋の歴史と文化 」
、 がある。
講師は、 大阪商業大アミューズメント
産業研究所主任研究員の古作登さん。

日本医学; 和方❗; 三石分子栄養学➕藤川院長系; 代謝医学❗; 心筋梗塞などへの元凶員にもなる、虫歯菌ら❗

2019-10-20 22:10:06 | 政治・経済
☆ 虫歯菌 血潮に乗るや 海賊に
成りて、 心臓 脳まで、荒らし・・❗。

☆ 虫歯菌らは、
その人の血潮へ、 まざり込むと、
その体中の血管に臓器ら、を、
荒らし、 破りもし、 詰まらせもする、
本当に、 危険な存在であり、
その危険性を、 人々は、
より、 知らされるべきでもある❗ 。

こうしたものらによる、
人々の体での、 構造らや機能らを、
より、 そこなう、
あり得る、 悪さ、ら、に加えて、

あるべき、 代謝員ら、への、
あるべき、度合いら、での、
飲み食いなどによる、 摂取ら、を、
より、 欠いてしまう、
日頃の、 暮らしようがある、と、

あり得る、 悪さ、ら、を成し得る、
元凶員ら、 の、 それら、を、
より、 未然にも、差し止め、
元凶員ら、な、そのものら、を、
より、 能く、 撃退もする、
免疫系ら、なり、 免疫細胞ら、なり、
を、 そのように仕立てる、
あり得る、 あるべき、代謝ら、も、
その他の、 あるべき、代謝ら、も、
より、 欠かされてしまったり、
不十分な物にされてしまったり、
する事によって、

より、 実現され得ない筈の、
元凶員らによる、悪さ、ら、が、
現実態の物らへ、仕立てられる、
度合いら、を、 余計に、
成し、増されてしまい、

つまりは、 発症しないで、
済み得た物ら、が、
より、 現実に、発症させられる、
向きへ、余計な、圧力が掛けられる、
事になる。

あるべき、代謝員ら、への、
あるべき、度合いら、での、
摂取ら、を、 より、 欠いてしまう、
事は、
可能態の、 悪さ、ら、 をして、
より、 現実態の、 悪さ、ら、へ、
仕立てる、 事へ向けて、
余計な、圧力らを、 確実に、掛けてしまう、
事であり、
我彼の、 あり得る、 健康性ら、を、
より、 能く、 成し付けるべき、
責任性のある、どの人にとっても、
我彼の遺伝性らを、 より、 よく、
調べて、 知り、
どの代謝員らで、
その合体性の度合いにも応じて、
成され得る、 代謝 、な、 働き、 の、
あり得よう、 での、 不足性、 が、
どれ位に、 あり得るのか、
を、 観積もり、
どの、代謝員ら、への、摂取らを、
より、 重点的に、 成すべきなのか、
を、 観定めるべき、 必要性がある❗ 。


☆ 日本医学 ; 和方 ❗ ;
三石分子栄養学➕藤川院長系; 代謝医学❗ ;

☆ 代謝員らの合体性の度合い、
による、 代謝ら、の、あり得る度合い ;

タンパク質な、 酵素 コウソ 、
と、
補酵素 ホコウソ 、 な、
ビタミン 、か、
補因子 、な、 ミネラル 、
とは、
文字通りに、 『 合体 』、をする、
事により、
『 代謝 』、 な、 働きを成し合う、
代謝員ら、 であり、

この代謝員らの合体性の度合い、
が、 一定以下である場合らにおいては、
どの、代謝、も、成されない❗ 。

人によって、
代謝員らごとの、合体性の度合い、
が、 異なる、 だけでなく、
同じ一人のヒトにおいても、
その、 代謝員らごとに、
合体性の、 能く、成され得る、
あり得る、度合いは、
異なり得る❗ 。

この、 三石分子栄養学➕藤川院長系 、
で、 言う所の、

代謝員ら、ごとの、
代謝を成す上で、 必要な、
合体性 、での、 あり得る、 度合い、
らの系でもある、
『 確率的 親和力 』、
らにおける、 不足性、らを、
より、 埋め余し得るような、
度合い、ら以上の、 度合い、らで、

必ず、 その一方に、
タンパク質、らを、 含む、

あるべき、 代謝員ら、 への、
飲み食いなどによる摂取ら、
を、 成し付ける、
事が、
人々が、 その命と健康性とを、
より、 確かに、 より、 能く、
成し得てゆく上で、
他の何よりも、
圧倒的に、 重要な事であり、

これの度合いを、 欠けば、欠く程に、
人々の命や健康性を、
より、よく、成すべき、
運動ら、や、 薬らに、
手術ら、などの、
あり得る、 効果らの度合いらは、
より、 小さくなり、

それが、 一定度合い以上に、
欠けてしまうと、
何をしても、 助からない、
状態に、 誰もが、成る❗ 。

どんな健康法も、 どんな治療も、
どんな薬も、 どんな手術も、
どんな運動も、
代謝員らごとの、
『 確率的 親和力 』、 らでの、
あり得る、 不足性ら、を、
埋め余し得る以上の、 度合いらでの、
あるべき、 代謝員ら、への、
飲み食いなどによる、 摂取ら、の、
質としての度合い、や、
量としての度合い、 を、
欠けば、 欠く程に、
より、 その人々の命や健康性を、
能く、成さしめる、 その、 あり得る、
効果らの度合いら、を、
より、 小さくされ、
それが、一定度合い以上に成れば、
誰もが、 必ず、 死に至る、
のであり、

癌 ガン 、などを、
我が身に成しても、
完治する人々が、成る、一方で、
再発させる人々が、 成る、のも、
この、 あるべき、度合いら
≒ つまり、
『 確率的 親和力 』、 らの、
あり得る、 不足性 、らを、
より、 埋め余し得る、 度合いら 、
での、
あるべき、代謝員ら、への、
飲み食いなどによる摂取ら、について、
より、 有り余らしめる、 のと、
より、 欠かしめる、 のと、の、
互いへの、 違いよう、 らに、
決定的な、 要因性ら、がある❗ 。

☆ ハゲてある人々が、
ふさふさな髪の毛らを取り戻す、
にも、
植物人間状態にされてある人々が、
その体の部位らを動かしめ得る筋合いの、
意識性らを取り戻す、
にも、
特定の、 代謝ら、か、
それらに類する、 代謝ら、を、
復活させしめたり、
新たに、 成したり、する、
事が、 必要に成る。

その持ち前の遺伝子らが、
ウィルス 、などによって、
改変されて居らずに、
その、持ち前の、 特定の、
タンパク質らを、
細胞ごとに、 作らしめる、
能力性ら、を、 改変されていない、
のであれば、
その、細胞ごとに、 含まれてある、
遺伝子ら、へも、向けて、
必ず、 その一方に、
タンパク質らを含む、
あるべき、 代謝員らを、
あるべき、度合いら以上の、
度合いら、で、 投与し続ける、
事が、
ハゲてある人々へ、
自然に生える、 髪の毛らを、
取り戻してやり、

植物人間状態な、人々へ、
その動作性の意識性らを取り戻してやる、
上で、 必要な事であり、

この度合いらを欠けば、欠く程に、
それらは、
より、 得られ得ないものにされる❗ 。

現実に、 植物人間状態から、
意識性らを取り戻し得た、
人々は、 存在している、
が、
その事の裏には、
あるべき、あり得る、代謝ら、が、
その人々においては、
復活させしめられ得た、
という事が、
欠かし得ない、 要因性を帯びて、
あり得ている❗ 。

☆ フロスをするか死を選ぶか❗? ;
毎日の歯磨きを見直すべき理由は、
歯周病の恐ろしさ❗ ;
医科歯科ドットコム 編集部 ;

誰もが、毎日に、必ず行う習慣、歯磨き。
老いも若きも、起床後や就寝前、
食後や人に会う前など、
色々な状況の下で、 毎日に、 必ず、
歯磨きをされている、 と、思います。

そして、 あなたは、
どの程度の時間をかけて、
歯を磨いていますか? ;

「 朝は、 忙しいから 」、と、
手短に済ませていませんか? ;

今回は、 どのくらいの時間をかけて、
歯磨きをすべきか、 歯科医師からの、
回答をご紹介します。

Q: 歯磨きは、 基本的に、
どのぐらいの時間を、磨けば、
良いのでしょうか? ;

A: どれ位、 という、 正確な時間は、
難しいですね。
何分を、 磨いたか? 、 というより、
どれだけ、 丁寧に磨けたか
ということの方が、 重要です。

実際に、 以下の様な、研究もあります。
1日に、3回を、 普通に、
歯磨きを行なった人と、
1日に、 1回ですが、 非常に丁寧に、
歯磨きを行なった人とでは、
効果に、 差は、無い、 という、
報告も、あります。

例えば、 歯ブラシ 、 以外にも、
デンタル・フロス ; ( 糸ようじ ) 、
は、 非常に、 効果が高いですし、
歯間ブラシが入るような方は、
1日に、1回でも、良いので
確実に、 歯間ブラシをご使用される、
ことが、 良いです。

アメリカでは、
1997年に、 アメリカ歯周病学会が、
“ FLOSS OR DIE  ”
、 という、 歯周病スローガンを、
発表しました。
日本語にすると、
“ フロス か 死か ” 、
つまり、
“ フロスをしますか? ; それとも、
死にますか ”
、という、 怖い話です。

つまり、
「 デンタル・フロスをしないで、
歯周病になって、 それが、 原因で、
病になり、 死んでしまっても、
いいのですか? 」 、
という話です。

でも、 歯ブラシだけでも、 最低限で、
5分は、かかりますよね。
1 〜 3分では、 ほとんど、
取れてない、 と言っても、 いい、
と、 思います。

引用元: 大船駅北口歯科 杉山 貴志
歯科医師 回答日 : 2017/ 9/20 ;

歯科医師の回答によれば、
「 どのくらい、 時間をかけて、
磨いたか 」、 より、
「 どれだけ、丁寧に磨いたか 」、
が、 重要なようです。

1日に、 3回を、 普通に、
歯磨きをした人と、
1日に、 1回を、 丁寧に、
歯磨きをした人とで、
差が、 ほとんど、無い ❗ 、
というのは、 驚きですね。

2. 進行するまで、 気が付かない❗? ;
歯周病の本当の恐ろしさ❗ ;

歯科医師は、 回答の中で、
フロスと歯間ブラシをすすめています。

中でも、 フロスに関しては、なんとも、
強烈で、 衝撃的な、 アメリカの、
歯周病スローガンを紹介しています。
「 “ FLOSS OR DIE ” ;
フロスか、死か 」 ;
かなり、 極端では、ありますが、
歯周病は、 それだけ怖い、病である、
ということを訴えています。

虫歯は、 痛みを感じますが、
歯周病は、 進行するまで、
痛みが伴わないことが多く、
気が付いた頃には、 重症化している、
ケースが、 多いようです。

まだ、 具体的な症状が無いからと、
ケアを怠っていると、
50代で、 歯周病に苦しんでしまう、
かも知れません。

歯周病になってしまうと、
毎週のように、 歯医者さんに通って、
クリーニングをしたり、
症状を繰り返して、 終いには、
歯を失ってしまう、可能性もあります。

そうならないためにも、
フロスや、 歯間ブラシ、 などの、
補助器具を使用して、 普段の歯磨きを、
丁寧に行うべき、
必要性があります。

歯ブラシが届きにくい、
歯と歯との間の、 歯垢を、
フロスで、しっかり取り除く習慣を、
この機会に取り入れてみては、
いかがでしょうか。

フロスの使用方法は、 歯医者さんでも、
教えてもらうことができます。
将来に、 歯を失わないためにも、
予防歯科に取り組みましょう。

全国の歯医者さん一覧ページは、
こちら ;
寒河江 英子 Eiko Sagae 記者。

☆ 歯科医師が答える❗、
虫歯でないのに、歯が痛い❗ ;
謎の痛みの、 6大原因と解決法 ;
監修日: 2019年 10月9日 ;

「 歯科検診で、 虫歯が、無い、
と、 言われたばかりなのに、
急に、 歯が痛み出した 」 、
「 歯が痛くてたまらず、
歯科医院に駆け込んだら、
虫歯では、ない、 と言われて、
痛み止めだけ処方された 」、
「 虫歯の治療をした後なのに、
歯が痛い 」、 という、
経験は、 ありませんか?。

実は、 虫歯、 以外の原因でも、
歯や歯茎が痛むことは、あるのです。
今回は、 そんな、 「 謎の痛み 」、への、
原因を探り、 解決法とあわせて、
ご紹介します。

@ 「 歯 」、に関係がある場合 ;

突然の歯の痛みは、 予想していない、
だけに、 肉体的な、 兌免 ダメン ;
ダメージ ; 、 よりも、
精神的な兌免が、大きいものです。

しかし、 虫歯への治療で、
詰め物をした後だったり、
矯正治療中だったりすれば、
ある程度は、 痛みの原因への、
推察がつくのではないでしょうか。

また、 最近は、 定期健診で、
クリーニングする程度で、 虫歯も無く、
どこも治療していない…、 という場合でも、 (3) のように、 歯が原因で、
痛みが生じる場合があります。

(1) 詰め物をした後の痛み ;

進行した虫歯を取り除いて、
詰め物をした場合には、 神経に近い所まで、
歯を削る必要があるために、
神経に、 兌免が残り、 しばらくは、
痛んだり、しみたりする場合があります。

個人差は、 ありますが、
過敏になっている神経は、 おおよそで、
1 ~ 2週間程で、 落ち着き、
痛みも、消えていきます。

冷たいものや、極端に、
熱いもの、 などを避けて、
様子を見ながら、過ごしましょう。
あまりに痛む場合は、かかりつけの、
歯科医師に相談しても、いいでしょう。

(2) 矯正治療に伴う痛み ;

矯正装置をつけて、 しばらくは、
歯が動く痛みを感じることが、あります。
この痛みは、 矯正装置の装着後や、
調整の後の、 約 1週間程が、 ピークで、
その後は、 だんだん落ち着いてきます。

ズーンとした痛みや、 違和感が、
気になるのは、 当然ですが、
必要な痛みであることを理解し、
乗り切りましょう。

痛みへの緩和には、 硬いものを食べず、
やわらかい食事にしたり、
やわらかなブラシで、 歯茎を、
摩擦侍 マサッジ ; マッサージ ;
、 したりする方法、
場合によっては、 鎮痛剤を服用する、
ことも、 有効な方法です。

(3) 歯ぎしりが引き起こす痛み ;

就寝中に、 無意識に、
歯と歯を、 こすり合わせたり、
食いしばったりしてしまう、歯ぎしり。

あまりにも強いと、 歯に亀裂が入り、
最悪の場合は、 割れて、 神経にまで、
影響を及ぼすことも…。

最初のうちは、 冷たいものや、
熱いものがしみる程度ですが、
亀裂が進むと、 急に、 強い痛みが出る、
場合があります。

家族などから、 歯ぎしりの指摘を受けたら、
できるだけ早く、 歯科医院に行き、
マウスピース、 などで治療して、
改善を図りましょう。

@ 歯とは、 無関係なのに、
歯が痛むように感じる場合 ;

副鼻腔炎・神経痛・心臓疾患・
精神疾患・帯状疱疹、 など、
歯に、原因は、 一切が、 無いのに、
歯が痛むように感じる病もあります。

(1) 副鼻腔炎❗ ;

歯の痛みに耐えかねて、
歯科医院に駆け込んだら、
「 副鼻腔炎 」、 と、 指摘された、
という、 ケースは、珍しくありません。

上顎の奥歯が、 副鼻腔に近いために、
副鼻腔に、 炎症が起きて、
粘液が溜まると、 圧迫された、
歯の根が、痛む❗ 、 のです。

上顎の奥歯、 かつ、 1本だけではなく、
2 ~ 3本が、 痛む場合は、
副鼻腔炎 、が、 疑われます。

副鼻腔炎は、 風邪が悪化して起こる、
急性のものから、 慢性的なもの、や、
花粉症によるもの、 などと、
色々ですが、 いずれも、
元凶の、 微生物らを殺す、 抗生物質を、
1週間程を、 飲み続ける、
ことで、 回復します。

ただし、 重度の場合は、 耳鼻科で、
粘液を吸い出してもらったり、
薬を、 吸引で、 副鼻腔へ送ったりする、
治療が、必要になるかもしれません。

慢性的な場合は、
症状が、ひどくなる前に、
耳鼻科を受診して、
痛みが出ないうちに、
予防できるようにしたいところです。

(2) 帯状疱疹 ;

水痘ウイルスによって引き起こされる、
帯状疱疹は、 初期の段階では、
汗疹か、 虫刺されのような発疹と、
ピリピリとした痛みが出るだけなので、
つい、 放置してしまいがちです。

しかし、 3日も過ぎると、
横になって休むことも、できないほどの、
激痛に襲われます。

そして、 発疹とともに、 神経痛が残り、
これによって、 歯痛が誘発されてしまう、
のです。

早く発見できれば、
抗ウイルス薬で対処できるので、
痛みを伴う発疹があるときは、
3日以内に、 皮膚科を受診しましょう。

(3) 心臓病 ;

歯は、心筋梗塞や狭心症といった、
心臓に由来する痛みが出やすい、
ところでも、あります。

しかし、 「 歯が痛いから 」、 といって、
歯科医院に行き、 もし、そこで、
虫歯が見つかってしまうと、
歯への治療に、 時間が費やされる、
ことでしょう。

その間にも、 心臓の症状は、
進んでしまうのです。

坂道を登ったときや、
重いものを持って動いたときだけ❗ 、
歯が痛む、
「 労作時の痛み 」、 は、
心臓から来ている可能性がある、
と、 覚えておきましょう❗ 。

このほかに、 精神疾患では、
肉体的には、 どこにも、
悪い箇所が、 無い、のに、
色々な痛みを感じることがあり、
そのひとつとして、
歯に痛みを感じることがある様です。

歯の痛みが、 歯に由来するか、
否かは、 さておき、
「 痛み 」、が、 体からの、何らかの、
信号 ; シグナル ; 、 であることに、
変わりは、ありません。

痛みを感じたら、 なるべく早く、
歯科医院へ行き、レントゲン、 などで、
痛みへの原因を突き止めましょう。

@ 編集部まとめ ;

歯に関係ない原因でも、
歯が痛むことがあるんですね。
心当たりがないのに痛いって、
怖いですよね。
少しでも、 「 痛い 」、 と感じたら、
迷わずに、 歯医者へ行きましょう❗ 。


☆ 歯の根元の黒ずみの、
意外に危険な、 6つの原因と対処法 ;
医科歯科ドットコム 編集部 ;
監修日: 2019年 10月8日 ;
藤本 歯科 長洲 医院 ;
藤本 俊輝 歯学博士 ;

口は、 顔の印象に、
大きな影響を与えるだけに、
歯や歯茎の色に、 異変があると、
気になるところでしょう。
例えば、
「 歯の根元が、黒ずんできた 」、
という、 悩みを持つ人は、
結構と、多いのではないでしょうか。

歯と歯茎との境目が、 黒ずんでくる、
のには、 いくつかの原因があり、
それぞれで、 治療法や予防法が、
異なります。
その、おもな原因と対処法、
予防法をまとめてご紹介します。

@ 歯の根元が黒ずむ、 6つの原因 ;

歯と歯茎との境目が黒くなっている場合、
原因としては、 以下のようなものが、
考えられます。

原因1 虫歯 ;

虫歯は、 虫歯菌の出す、 『 酸 サン 』 ;

【 電子強盗を働く、 物質 】 ;
、 により、
歯のエナメル質から、
燐 リン P 、や、
ミネラル 、 らが溶け出す、
「 脱灰 」、 という作用が、
唾液の働きで、
リン P 、 や、 ミネラルが、
歯に再び吸収される、 「 再石灰化 」、
という、 作用の速度を上回り、
歯が溶けてしまう病です。

リンや、ミネラルを失った歯は、
徐々に、 黒くなっていきます❗ 。

虫歯といえば、 「 削って詰める 」、
な、 治療が、 当たり前、 という、
意目侍がありますが、
初期の段階なら、 削らずに、
ケアをしながら、 再石灰化を促す、
ことで、 回復する場合も、ありますので、
早めに、 歯科医院を受診することが、
大切です。

原因2 汚れ ;

コーヒーやワイン、カレーといった、
色素が強い食べ物を日常的にとったり、
タバコを吸う習慣があったりすると、
歯に、 「 ステイン 」、 と呼ばれる、
着色汚れが、 蓄積されていきます。

汚れは、 歯と歯茎との境目や、
歯と歯とのあいだに、溜まりやすい為に、
これらの着色汚れらが、原因で、
黒ずんで見えることがあります。

この場合は、
ホワイトニング成分を配合した、
歯磨き粉や、ヤニ取りグッズを使うことで、
歯をきれいにすることができます。

汚れが、 こびりついているようなら、
歯科医院で、プロによるクリーニング ;
PMTC ; 、 を受けるのが、
おすすめです。

予防方法としては、
「 着色性の強い物を食べたら、
すぐに、 歯を磨く 」、
「 禁煙する 」、 などして、
汚れの蓄積を防ぐのが、
基本となります。

@ 原因3 歯石 ;

歯周病が進み、 歯茎が下がってくると、
歯茎の中に隠れていた、
黒い歯石が見えてくる、
ことが、あります。

その際に、 歯と歯茎との境目が、
黒ずんでしまっている場合もあります。

歯石とは、 歯垢 ; ( プラーク ) 、
が、 唾液と混じり合って、
固まった物です。

通常は、 白色ですが、
歯茎の内側にできる歯石の場合は、
血液の成分による影響で、
黒くなります。

歯石は、 歯周病菌にとって、
最適な住みかです。

歯周病を悪化させる元凶なので、
歯科医院で、 歯周病治療を受けて、
必ず、除去してもらいましょう❗ 。

予防には、
「 日頃のブラッシングで、
歯石への原因となる、 プラークを、
しっかりと、取り除くこと 」、 や、
「 定期的に、 歯科医院で、
メインテナンスを受けて、
歯石を取ってもらうこと 」 、
が、 有効です。

@ 原因4  被せ物の露出 ;

治療して、 被せ物をした歯の根元が、
数年が経って、 黒ずんでくる、
という、場合があります。

「 加齢により、 歯茎が下がったことで、
被せ物の内側に使われていた、
金属が、露出してしまった 」、
「 被せ物に使った金属の成分が、
歯茎に流出して、 黒っぽく、
変色してしまった 」、 などが、
原因です。

また、 被せ物のフレームに使われている、
金属が、 透過してくる光を遮断する為に、
歯茎が、 陰になって、
歯と歯茎との境目が、 暗く見えている、
場合も、あります。

治療法としては、
黒ずみ、への、原因となっている、
被せ物については、
「 金属を使わない、 セラミック、
などの、被せ物と交換すること 」、
が、 挙げられます。

また、「 最初から、 金属、 以外の、
素材を選ぶこと 」、 を、
心掛けると、良いでしょう。

@ 原因5  詰め物の劣化 ;

小さな虫歯や前歯の虫歯、 などに使われる、
素材な、 「 コンポジットレジン 」、
は、 3 ~ 4年で、 劣化して、 徐々に、
黒くなります。

虫歯が、広範囲に広がっている場合は、
削って、治療することになりますが、
軽度の場合は、 研磨することで、
きれいになる場合も、あります。

このような、 素材の劣化による黒ずみは、
「 審美性が高く、 劣化が少ない、
セラミック、などの素材を使うこと 」、
で、 予防できます。

@ 原因6 神経がない歯の変色 ;

歯の根の中には、
神経や血管が通っており、
色々な刺激を、 脳に伝えたり、
歯に、 栄養や酸素を供給したりする、
役目を担っています。

一方で、 「 虫歯への治療の過程で、
神経を取った歯 」、 または、
「 交通事故や転倒、 などで、
歯を強く打って、
神経が死んでしまった歯 」 、 は、
いわば、 枯れ木のようなものです。

すぐに、 抜けたりはしませんが、
徐々に、 黒ずんでいき、
衝撃によっては、 抜けてしまう、
場合も、あります。

神経が、無くなれば、
神経の中に含まれる、 血液に、
赤血球らがあり、
その一つごとに、 沢山の、
タンパク質、な、 ヘモグロビン 、
という、 成分があり、
その、 ヘモグロビンは、
鉄 Fe 、 を含む為に、
この鉄が、 硫化水素と結合して、
『 硫化 第一鉄 』、 と、なり、
青みがかった、 黒い歯 、を、成します。

歯が黒ずんでしまうのは、
止めようがないので、
セラミック、などの、 被せ物をする、
ことになります。

「 虫歯にならないよう、 普段から、
ケアを行うこと 」 、と、
「 もし、 虫歯になっても、
神経を抜くまえに、治すこと 」、 が、
予防となります。

「 歯の根元が黒ずんでいる 」、
といっても、 色々な般汰 パンタ ;
パターン ; 、 があり、
原因によって、
対処法も、さまざまです。

被せ物の中に使われている金属など、
意外なことが、 原因となっている、
場合も、ありますので、
歯と歯茎とのあいだの黒ずみが、
気になるようなら、まずは、
歯医者さんに相談してみては、
いかがでしょうか。

@ 編集部まとめ ;

歯の黒ずみにも、色々な原因がある、
ことが、わかりました。
でも、やはり、 自分で判断して、
なんとかするのは、難しいものです。
少しでも、 気になるなら、すぐに、
歯医者さんに診てもらってください。

☆ 虫歯は、 薬で治す時代に? ;
「 削る 」、だけではない、
虫歯治療の最先端とは? ;
医科歯科ドットコム 編集部 ;
< 参考 URL >
予防歯科から生まれたクリニカ
http://clinica.lion.co.jp/oralcare/fluorine.htm

「 歯科治療 」、 と聞くと、
歯を削る、 ドリルの、 「 キュイーン 」、
という音を思い出し、
「 怖いから、歯医者には行きたくない 」、
という方は、多いのではないでしょうか。
しかし、 医学の世界は、日進月歩です。

現在では、 昔に比べて、
治療法の選択肢も増え、 従来型の、
「 削って詰める 」、 だけでなく、
薬を使うことで、 削る部分を少なくし、
状況によっては、 削らずに、
治療を完結できる方法も、
登場しています。

@ 初期の虫歯なら、削らなくても、
治せる可能性あり❗ ;

そもそも、 虫歯は、 細菌による、
感染症です。

虫歯菌が出す酸により、
歯が溶かされてしまった状態です。

初期の段階では、 自覚症状は、
ありませんが、進行すると、
しみたり、痛んだり、 などの、
症状が、でてきます。

このうちの、 まだ、 エナメル質に、
穴があく前のような、 初期の段階か、
または、 小さな穴しか、
あいていないような場合には、
早い段階で、 発見・処置をすることで、
場合によっては、
虫歯になるのを食い止め、
自覚症状が出るほど、
虫歯が悪化するのを防止できます。

例えば、 次のような治療法です。

虫歯になりかけの場合 :
高濃度フッ素・デュラファットを塗る ;

フッ素の塗布は、 子どもの虫歯、への、
予防に使われる意目侍が強いですが、

・ 虫歯菌が、 酸を作る働きを弱める ;

・ 歯の再石灰化 ;
( 歯から溶け出した、 カルシウム、や、
リン 、を、 歯の表面に戻す働き ) ;
、 を促進して、 歯を修復する ;

・ 歯のエナメル質を強化する ;

、という、 3つの働きがある、
優れものです。

デュラファットは、 そのフッ素が、
一般の歯磨き剤のフッ素の濃度の、
950 ppm 、 の、
約 23 ~ 24倍の、
2万2千6百 ppm 、も、
含まれているもので、
虫歯になるのを防いだり、
初期の虫歯の進行を止めたりする、
効果が、期待できます。

エナメル質に、少し、穴があいている場合:
カリソルブで、
虫歯だけを溶かして除去 ;

もうすこし、 虫歯が進んで、
表面のエナメル質や、 その下の、
象牙質まで、 穴があいてしまっている場合、
まず、 虫歯になった部分を取り除き、
虫歯菌を完全に除去した上で、
被せ物で、密閉する必要があります。

この、 「 取り除く 」、 時に、
従来の方法では、
歯科ドリルが登場するわけですが、
ドリルに代わる方法として、
注目されているのが、
「 カリソルブ 」、 という、
虫歯に侵された部分だけを柔らかくする、
薬を使う方法です。

周りの、 健康な組織まで、
削らなくて、よいのが、最大のメリットで、
薬を効果的に投入するために、
少し、 削ることはありますが、
従来の方法に比べて、
削る部分は、 少なくて済みます。

虫歯を除去した後は、
詰め物をすることになります。
日本では、 2007年に、
厚生労働省に認可されました。

象牙質や神経まで達している場合:
削らずに治療できる、
ドックスベストセメント ;

さらに、もう少し進み、 虫歯が、
象牙質や神経の側まで達している場合でも、
症状によっては、 削らなくてよい、
場合も、あります。

@ ドックスベストセメント ;

「 銅イオン 」、 を主成分とし、
殺菌と酸によって、
軟らかくなった歯を硬くする働きのある、
薬です。

虫歯な部分を除去する必要がなく、
薬を詰めるだけで、
殺菌と予防の効果があるので、
歯を削る必要がないのが、 何よりの、
メリットです。

日本では、 保険治療として、
認可されていないので、
自由診療になりますが、
アメリカでは、 FDA ;
( アメリカの厚生労働省 ) ; 、
の認可を受けて、 商品化されており、
ヨーロッパ諸国や、アメリカでは、
一般的に用いられている治療法です。

@ MTA セメント ;

主に、 歯の神経を守るために使われる、
治療法です。

虫歯が酷くなり、 歯髄 ;
( 歯の神経 )、 や、
その近くまで達すると、
神経を取らなければいけない、
場合がありますが、
神経を取った歯は、もろくなり、
歯の寿命は、短くなってしまいます。

そこで、 従来の方法に比べて、
高い確率で、 神経を保護するために、
開発された治療法です。

治療は、まず、 ドリル 、 などで、
虫歯を取り除き、 殺菌・消毒した後で、
MTA セメント 、 で、 露出している、
神経を封鎖する❗ 、 という、
手順になります。

歯の神経を守り、 寿命を延ばすのが、
メリットです。

2千7年に、 薬事認証されていますが、
治療は、 自由診療になります。

@ 3MIX-MP法 ;

3種類の抗菌剤らを混合した、
薬を使うもので、
MTA セメント 、 と同じように、
歯の神経を保護することを、
目的に使われる治療法です。

@ まとめ ;

虫歯への治療に薬剤を使う方法は、
「 無痛治療 」、 「 削る必要なし 」、
などの、 キャッチフレーズと共に、
紹介されることが、 多いですが、
従来の方法に比べて、
削る部分は、 少なくても、
ゼロになるか、どうかは、
ケースバイケースです。

実際に、治療を受ける際には、
歯科医師に相談した上で、
自分の歯の状態にあった、
治療法を選ぶようにしましょう。

純資産❗、と、主権者たち❗。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗

2019-10-20 13:15:23 | 政治・経済
☆ 六角は 勝って、京都で 徳政令
久米田合戦 撃たれし、三好・・❗。

☆ 六角承禎氏 ―負けても勝った、
名門大名 ;

織田信長氏、豊臣秀吉氏、武田信玄氏、
等々、日本人の誰もが知る、
超有名人ばかりが、
戦国武将では、ありません。
戦嫌いだったり、趣味に生きたり…
独自の個性を保ちながら、
歴史の隙間を縫うようにして、
戦国の世を生き抜いた人々を、
注目の歴史小説家が紹介します。

@ 乱世の能範 ノーハン ; ノウハウ ;

 戦国時代であれ、 現代社会であれ、
熾烈な競争を勝ち抜いて、
生き残るためには、時代に合わせて、
自己を変革していくことが、
欠かせません。
 
戦国の覇者となった、 織田信長氏は、
尾張守護・斯波家への家来である、
清洲織田家の、そのまた、
家来の家に生まれました。

この、一介の小領主 、 といってもいい、
地位から須端 スタン ; スタート ;
、 した信長氏は、 徐々に勢力を拡げて、
清洲織田家、斯波家、さらには、
隣国の美濃・斎藤家をも凌駕して、
尾張・美濃の二ヶ国を領する、
戦国大名となります。

そして、 流浪の将軍・足利義昭氏、への、
庇護者、 という、立場で、 京へ上り、
その後は、 義昭将軍をも追放して、
天下人へと、自らと、 織田家、
という、 組織を、
揚浮提 アプテ ; アップデート ;
、していったのです。

 このように、常に、自己研鑽に努めながら、
周囲の状況に、 目を光らせ、
状況に合わせて、 新たな自分へと、
生まれ変わる。
それこそが、 苛酷な社会を生き抜く、
必須条件、 と言っても、いいでしょう。

 と、何やら、 自己啓発本のような、
書き出しをしてみましたが、どうにも、
気持ちが悪いですね。
こういう、 「 歴史上の偉人から得た、
教訓を実生活に活かそう❗ 」、
みたいな文章は、結論ありきで、
歴史にこじつけているものも、
多々あるので、とりあえず、
眉に唾をつけて読むのが、いい、
と、 思います。

 それは、さておき、戦国時代で、
上を目指すのであれば、
自己変革が必要、 というのは、
確かなことです。

特に、武田家、今川家、島津家、
といった、 古くから続く守護大名は、
時代に合わせて、 戦国大名へと脱皮する、
ことで、 生き残りを図り、
強大な勢力を築き上げることに、
成功しています
( もっとも、武田家も今川家も、
戦国大名へ転身した後に、
滅びてしまいましたが )。

 前置きが長くなりましたが、
今回に取り上げるのは、 代々を、
近江の守護を務めた名門・六角家の当主、
義賢 ( 後の承禎 )、 さんです。

 戦国史に詳しい方なら、その名を、
一度は耳にしたことがあるでしょう。

織田信長氏の上洛に立ちはだかり、
鎧袖一触で蹴散らされた、
あの、承禎さんです。

 彼は、守護大名から、 戦国大名へと、
揚浮提した六角家を率いながら、
何故に、 いともたやすく、
信長氏に敗北したのか。

その後に、 彼は、どんな人生を送ったのか。
それらを通じて、乱世に生きる、
武将たちの勝ち負け、とは、
何なのかを考えてみたい、と、思います。

@ 偉大な父 ;

 六角家は、 清和源氏と並び称される、
宇多源氏は、 佐々木氏の嫡流として、
平安時代の末から、 近江に根を張る、
名門でした。
近江源氏の出身の人物には、
源頼朝氏の挙兵に加わり、活躍した、
佐々木定綱氏や、
バサラ大名として知られる、
足利幕府の創設の功臣・佐々木導誉氏、
などが、います。

その嫡流の六角家は、
室町時代を通じ、 代々を、
近江への守護職に任じられていました。

  第8代の室町幕府の征夷大将軍の、
足利義政氏への跡目を、
その子の、 義尚氏にするか、
僧侶から、還俗させていた、
義政氏の弟にするか、 で、
争った、
1467年 ~ 1476年 、の、
応仁の乱の後に、六角家は、
近江の国内の、 寺社や、
幕臣の領地を横領した罪で、
二度にわたり、 幕府の追討を受ける、
ことになります。

しかし、 当時の当主な、六角高頼氏は、
甲賀の山中に立て籠もって、
遊撃 ユゲキ 戦 ; ゲリラ戦 ;
、 を展開し、 幕府軍を退ける、
ことに、成功しました。

 高頼の子の、定頼氏が当主となった頃には、
足利幕府の権威は、 すっかり衰え、
将軍は、 しばしば、 京都から、
追われるようになります。

定頼氏は、 近江へ落ち延びてきた、
第十二代の将軍の、足利義晴氏を庇護し、
京都を支配する、 細川晴元氏と、
たびたび、 干戈かんかを交えました。

また、 京都を、 法華一揆が支配する、
ようになると、 比叡山延暦寺と合力
ゴーリキ 、 して、
これを打ち破っています。

 義晴将軍が、 細川晴元氏と和睦して、
帰洛すると、 定頼氏は、
幕政にも、深く関与します。

義晴将軍の子の、義輝氏が元服した際には、
本来なら、 幕府の管領 カンレイ 、
が務めるべき、 烏帽子 エボシ 親を、
定頼氏が務めました。

この時期には、 六角家の版図は、
本拠の近江の南半国に加え、隣国の、
伊賀や伊勢の一部にまで及んでいました。

また、 北近江で台頭してきた、
浅井家を圧迫し、 従属させる、
ことにも、成功しています。

 着実に、 版図 ハント 、を拡げ、
京都の政局にまで関与する一方で、
定頼氏は、 領内で謀叛を起こした、
有力な国人 コクジン ;
地侍ら ; 、 を滅ぼし、
南近江に、 強固な地盤を築いています。

また、本拠地な、 近江観音寺城の、
下 モト 、 を整備し、
一部の商人らの特権を廃して、
市場を開放する、
「 楽市令 」、 を発布しました。

 この楽市令は、 織田信長氏の政策として、
有名ですが、 最初に記録に残っているのは、
定頼氏が発布したものです。

残念ながら、 詳細な記録が残っていない、
ために、 実態は、 はっきりしませんが、
信長氏に、 二十年近くも先駆けて、
この政策を実行した定頼氏が、
かなりの先見性を持っていた、
ことは、 間違いないでしょう。

 さて、ここで、 守護大名と、
戦国大名の違いについて、
考えてみたい、と、思います。

 この問いに対する答えは、
学術的には、 諸説がありますが、
大まかに言うと、
足利幕府から、 守護職 シュゴシキ 、
に任じられたことを、
支配への根拠とする、 守護大名に対し、
自らの実力で、 現地への支配を行うのが、
戦国大名、 といったところでしょうか。

 そのためには、幕府権力から、
ある程度は、 独立し、
領内の土豪・国人層を、
家臣に取り込んで、
統制していく必要があります。

当然に、 領国内に対する支配力は、
守護大名より、 戦国大名の方が、
強くなります。

 こうしたことを踏まえると、
定頼氏は、 六角家という組織を、
守護大名から戦国大名へと揚浮提する、
ことに成功した、 と、
言えるのでは、ないでしょうか。

@ 仁義なき戦い・京都死闘編 ;

 さて、 長々と、
六角家の歴史を語ってきましたが、
ここからが、 本題、我らが、
六角義賢さんの登場です。

 義賢氏は、 大永 元年 ;
一五二一年 ; 、に、
六角定頼氏の嫡男として生まれました。

弓術は、 日置流、馬術は、 大坪流を、
当代一流の師から学んでいます。

特に、 馬術は、後に、 自ら、
佐々木流、 という、 流派を起こすほどの、
達人でした。

後年に、 織田信長氏に、呆気なく、
蹴散らされたことから、 意目侍しにくい、
ですが、 個人的な、 武芸の腕前は、
相当なものであったようです。

 義賢氏は、 六角家の中興の祖である、
父な、定頼氏の死によって、
三十二歳で、 家督を継ぎます。

その頃は、 京都では、
細川家への家臣の、 三好長慶氏が台頭、
ついには、 謀叛を起こし、
細川晴元氏と、 前の将軍の、
義晴氏の跡を継いだ、 足利義輝将軍を、
京都から追い出していました。

定頼氏は、 この争いを憂慮して、
和睦を斡旋しましたが、
その交渉の最中に没してしまったのです。

  義賢氏は、 父の遺志を継いで、
交渉を継続、 晴元氏の出家を条件に、
義輝将軍が、 京都に帰還する、
ことを、 三好長慶氏に承諾させます。

 伸張の著しい三好家を相手に、
和睦を呑ませたことは、
義賢氏の大きな自信となった事でしょう。

また、 当時の六角家は、
傑物の三好長慶氏をして、
敵に回したくない、 と、 思わせるほどの、
力を持っていた、 という、
証 アカシ 、 でも、あります。

 しかし、 義輝将軍は、 自身に、
実権が無いこと、 長慶氏が、
事実上の天下人のように振る舞う、
ことを、 不満に思っていました。

そして、 ほどなくして、 出家した、
細川晴元氏と通じ、 長慶氏、への、
打倒を画策しはじめます。

義輝将軍は、 京都は、 東山の麓 フモト 、
に、 霊山城を築いて、 立て籠もり、
晴元氏と共に、 京都への侵攻を狙いました。

ところが、 長慶氏の素早い反撃に遭って、
あえなく敗走、 またしても、
近江へ逃亡することとなります。

以後は、 三好長慶氏は、
将軍・管領を戴くことなく、
自らの実力で、 京都を支配しました。

ここから、 三好家は、 絶頂期となり、
長慶氏は、 事実上の天下人として、
君臨することになります。

 さて、 義賢氏は、 父の方針に従い、
近江の朽木谷に落ち延びた、 義輝将軍と、
細川晴元氏へ、 救いの手を差し伸べました。

本音では、 面倒ばかりを起こす、
義輝将軍に、 うんざりしていた、
かもしれませんが、
そこは、 腐っても、 将軍。
手元に置いておくだけでも、
それなりに価値がある、というものです。

 しかし、 義輝将軍は、 後に、
『 剣豪将軍 』、 と呼ばれるほどの人物。
黙って、 飼い殺しにされているはずも、
ありません。
義輝将軍と晴元氏の個辺 コベ ;
コンビ ; 、 は、
義賢氏から、援軍を引き出し、
性懲りもなく、 京都、への、
奪回の戦いを挑むのです。

 三好家との戦いを前に、 義賢氏は、
家督を、 嫡男の義治氏に譲り、自らは、
出家して、 承禎 、 と、名乗ります。

この時に、 承禎氏は、 三十七歳。
討死にの覚悟を決めた、 というよりは、
いつ、 何があっても、いいように、
早めに、 相続をすませておく、
という、 意味合いでしょう。

 永禄 元年 ; 1558年 ; 、の、
六月に、 義輝将軍の率いる軍勢は、
如意ヶ嶽に布陣しました。

両軍は、 しばらく、
小競り合いを繰り返しますが、
三好家の本拠である、 四国から、
続々と、 援軍が到着するに及び、
形勢は、 三好軍の圧倒的有利となります。

 そもそも、 史料によれば、
この時に、 義輝将軍が率いていた軍勢は、
たったの、 三千だった、 と、いいます。

これでは、 畿内の近国から四国にかけて、
広大な版図を持つ、 三好軍に、
勝てるはずも、ありません。

六角承禎氏は、 頼まれたから、
兵を出しただけで、本気で、
京都を制するつもり、 など、
なかったのでしょう。

 戦況が膠着すると、 承禎氏は、
早速 サッソク 、 三好家と、
和睦への交渉に入りました。

結果にて、 義輝将軍は、 再び、
京都へ戻ることとなります。

 下剋上の代表格のように言われる、
ことの多い、 長慶氏ですが、
義輝将軍への措置は、 ずいぶんと、
寛容です。

やはり、 長慶氏にとっても、
義輝将軍は、 「 腐っても将軍 」、
だった、 ということでしょうか。
  細川晴元氏は、 この和睦に、不服で、
長慶氏へ、人質として差し出していた、
息子を、 ほったらかしたまま、
姿をくらませてしまいました。
乱世の父子の絆ほど、
あてにならないものは、ありませんね。

@ 決戦❗、  野良田表 ;

 これで、 畿内は、 ようやく、
平穏を取り戻したかに見えましたが、
そこは、 戦国時代、そう、
甘くは、ありません。
次の火種は、 北近江の浅井家でした。

 浅井家は、 代々を、 北近江に勢力を張る、
六角家の同族な、 京極家の配下でした。

しかし、 浅井亮政氏の代に、
主家の内紛に乗じて、 勢力を伸ばし、
下剋上を成し遂げます。

ところが、 亮政氏の子の、久政氏は、
凡庸で、 前に述べたように、
六角定頼氏の圧力に抗しきれず、
六角家に従属する道を選びます。

 承禎氏は、 浅井家との、
主従関係を確かなものとするために、
久政氏の息子に、 自らの名の一字を与えて、
「 賢政 」、と、 名乗らせ、
家臣の娘をめあわせました。

 しかし、 これに、 浅井家の家臣団は、
激怒します。
承禎氏自身の娘なら、まだしも、
家臣の娘をあてがわれることを、
侮辱 、 と、 捉えたのです。

 永禄 二年 ; 1559年 ; 、の、
四月に、 浅井家臣団は、
久政氏を、 強制的に隠居させると、
弱冠十六歳の賢政氏を当主に据えました。

賢政氏は、 妻を離縁して、
六角家に送り返してしまいます。

そして、 すぐさま、 六角氏の傘下の、
国人・土豪に調略をしかけ、
肥田城主・高野瀬秀隆氏を寝返らせる、
ことに、成功しました。

 翌 アク る、 永禄三年、の、四月、に、
この報せを受けた、 承禎氏は、
大軍を率いて、 観音寺城を出陣、
肥田城に押し寄せます。

 承禎氏は、 肥田城の周囲に、堤防を築き、
近くの、 愛知川、宇曽川から、
水を引き入れて、 水攻めを行います。

しかし、 落城寸前 、と思われた所で、
大雨に見舞われ、 堤防が決壊した、
ことで、 この作戦は、
失敗してしまいました。

六角氏は、 戦法を力攻めに切り替え、
肥田城にほど近い、
野良田表に、 布陣します。

 そうこうしているうちに、 浅井軍も、
その本拠の小谷城から出陣してきました。

八月の中旬に、 両軍は、
宇曽川を挟んで、 対峙します。

 軍記物によれば、 この時、六角軍は、
二万五千余り、 対する浅井軍は、
一万一千。
この数字を鵜呑みにすることは、
できませんが、 六角軍が、
浅井軍の倍近い兵力を動員していた、
のは、 間違いが、 なさそうです。

 浅井賢政氏としては、苦しい状況です。
ここで、 引き上げれば、
肥田城を見捨てたことになり、
賢政氏への信頼は、 地に堕ちます。

敵に攻められたら、
見捨てられる、 となれば、
配下の土豪・国人が、 次々と、
六角家に寝返り、
浅井家の支配が、 一気に、瓦解する、
ことにも、なりかねません。

 しかし、 六角軍は、 浅井軍の二倍。
野戦を挑んだ所で、 普通に考えれば、
勝ち目など、ないでしょう。

まさに、 進むも地獄、戻るも地獄の、
大瀕危 ヒンキ ; ピンチ ; 、 です。

六角軍が、 肥田城攻めに、
四ヶ月もの、 期間をかけたのは、
浅井軍の主力を、 小谷城から、
引きずり出す、 意図があった、
のかもしれません。

 窮地に陥った、 浅井氏が選んだのは、
野戦での、 真っ向勝負でした。

若さによる血気か、あるいは、
野戦を挑むに足る勝算があったのか。
いずれにせよ、後世に名高い、
「 野良田表の戦い 」、の、
火蓋が切られることとなりました。

 開戦の当初は、 互いの、
先陣同士のぶつかり合いは、
数で勝る、 六角軍の優勢となりました。

しかし、 ここで敗れれば、
滅亡が必至となる、 浅井軍は、
粘り強い戦いぶりで、
六角軍の先陣を食い止めます。

 戦闘の開始から、 およそ、 四時間。

浅井軍の先陣に、さすがに、
疲れの色が見えてきました。

ここで、 六角承禎氏が、動きます。

温存していた、 六角軍の、
第二陣を迂回させ、
浅井軍の先陣の横腹を衝かせたのです。

浅井軍の先陣は、これを支えきれず崩壊、
何とか踏みとどまろうとした、
浅井家の家臣の、 百々内蔵助氏も、
奮戦の末に、討ち取られてしまいます。

 このまま押せば、難なく勝てる。

六角軍の誰もが、そう思った事でしょう。
六角軍の将兵は、 武功を求め、
さらに、激しく、 浅井軍を攻め立てます。

先陣が壊滅した浅井軍は、
戦線を維持するのが、 やっと。
このままでは、 総崩れは、
時間の問題です。

凡百の将なら、この時点で、
勝利を諦め、 退却を命じても、
おかしくありません。

 ところが、 浅井賢政氏は、
この状況で、 手持ちの兵力を二分する、
という、 挙に出ました。

一手は、 家臣に預けて、
六角軍への足止めを命じ、もう一手は、
自らが、率い、 戦場を、大きく、
迂回したのです。

 賢政氏の狙いは、 手薄になった、
六角軍の本陣への強襲でした。

前がかりになっていた六角軍の主力は、
いとも、たやすく、 賢政氏の本隊の、
迂回を許してしまいます。

気づいた時には、 浅井上は、
手勢とともに、 六角方の本陣へ、
突撃を敢行していました。

 この捨て身の攻勢に、六角の本陣は、
大混乱。
武芸の達人である承禎氏も、
こうなっては、 どうすることも、
できません。
戦況は、 一気に、逆転❗。
承禎氏らは、 這う這うの体で逃亡し、
六角軍は、総崩れとなってしまいました。

 こうして、 野良田表の戦いは、
浅井軍の大逆転の勝利で、
幕を下ろしました。

浅井軍の死者は、 四百、
六角軍は、 九百余り。

この勝利で、 浅井賢政氏は、
「 江北の麒麟児 」、 という、
異名をとることになります。

この戦いから、 ほどなくして、
賢政氏は、 六角承禎氏から賜った、
「 賢 」、 の字を捨て、
名を、 『 長政 』、 と、 改めました。

後に、 織田信長氏への妹婿となり、
信長氏を裏切ってら 窮地に追い込んだ、
あの、浅井長政氏です。

 一方で、 敗れた六角家の兌滅 ダメツ ;
ダメージ ; 、 には、
深刻なものがありました。

 北近江と肥田城への支配権を失い、
さらには、 倍する兵力で、
十六歳の若者に打ち負かされたことで、
承禎氏の武威は、 大きく、
低下してしまったのです。

このことが、後の、 六角家中の混乱、
へと、繋がっていきました。

  野良田表の戦いの翌年に、
近江坂本に、 流寓中の細川晴元氏は、
将軍・義輝氏の勧めで、
三好長慶氏と和解し、再び、
京都の土を踏みました。

 しかし、 長慶氏は、あろうことか、
晴元氏を、 摂津普門寺に、
幽閉してしまいます。

 この報せを受け、
六角承禎氏は、 激怒しました。
実は、 晴元氏の妻は、
承禎氏の妹だったのです。

承禎氏は、 前年の敗戦の痛手も、
癒えないうちに、 反三好勢力による、
一斉蜂起を画策しました。

 承禎氏が、 手を組んだのは、 かつて、
三好長慶氏に敗れ、 紀伊へ落ち延びていた、
前の河内の国主な、畠山高政氏でした。

これを、 精強な鉄砲隊を擁する、
紀伊は、 根来 ネゴロ 寺、の、
衆徒に支援させ、 南北から、
三好領を挟撃しよう、
と、 目論 モクロ んだのです。

 永禄四年、の、 七月に、
観音寺城を発した、 六角軍の二万は、
京都の東に進出、同時に、
根来寺の衆徒を、 主力とする、
畠山軍の一万が、 南から、
三好領の和泉の国は、
岸和田に攻めかかります。

 対する三好方は、 京都の守備を、
長慶氏の嫡男な、 三好義興氏、と、
重臣の、 松永久秀氏に託し、
畠山軍に対しては、 弟の、
三好実休氏を当て、 自身は、
本拠の、 河内国は、 飯盛城に腰を据えて、
情勢を睨 ニラ みます。

 戦いは、 長期戦になりました。

京都の戦線では、 十一月二十四日、に、
勝軍地蔵山城を巡って、
激しい合戦となり、 双方に、
多数の死傷者を出したものの、
その後は、 一進一退が続き、
互いに、 譲りません。

和泉でも、 畠山軍と三好軍、との、
睨み合いが続きます。

 しかし、 翌る、 永禄五年、の、三月、に、
畠山軍と、三好軍は、 和泉の国は、
久米田で、 激突、
三好軍の総大将の、 三好実休氏が、
鉄砲で、討ち取られてしまいました。

この敗戦で、 三好家は、 大きく動揺し、
三好義興氏、と、松永久秀氏は、
京都を放棄、 六角軍は、 三月六日、に、
ついに、 念願の入京を果たします。

 ところで、この時期の、
「 天下 テンガ 」、 という、 言葉は、
日本の全国ではなく、
京都と、 その周辺を指す、
ものでもありました。

つまり、
京都と畿内の近国を制した者こそが、
「 天下人 テンガビト 」、
と、 呼ばれたのです。

その意味では、 一時期の、
三好長慶氏は、 まぎれもなく、
「 天下人 」、 でした。

 六角承禎氏に、 長慶氏から、
天下人の座を奪う意図があったか、
否かは、 わかりません。
ですが、 上洛を果たした、 この時に、
承禎氏は、 間違いなく、
天下人の座に、 手をかけていました。

ここが、 戦国大名の、 六角承禎氏の、
頂 オベ ; ピーク ; 、 だった、
と、 言っても、 いいでしょう。

 さて、 三好実休氏を討ち取った、
畠山軍は、 三月の中旬に、 勢いに乗って、
三好長慶氏のいる飯盛城を包囲しました。

三好政権の崩壊が、俄然、
現実味を帯びてきます。

 しかし、 そこは、
百戦錬磨の長慶氏です。
軽々しく、 出撃することなく、
守りに徹して、 畠山軍の疲弊を待ち、
態勢の立て直しを図ります。

そして、 五月二十日に、
京都から撤退した、 三好義興氏、に、
松永久秀氏と合流した三好軍は、
河内教興寺の合戦で、
畠山軍を、 完膚なきまでに、
打ち破りました❗ 。

畠山軍は、 総崩れとなって敗走、
その勢力は、 事実な上で、 消滅します。

 この間を、 京都の承禎氏は、
何をしていたのでしょう。

入京の直後に、 承禎氏は、洛中に、
人々の借金を棒引きにする命令な、
徳政令を発布し、
武士や民への慰撫に努めました。

しかし、 その後に、
畠山軍の要請に応じることなく、
二ヶ月余りの時を浪費しています。

 兵糧が、 欠乏していたのか、
勝軍地蔵山城での、
激戦の痛手が、 大きかったのか、
あるいは、 承禎氏が、
病に臥せっていたのか。

その真相を、 史料から、
明らかにすることは、できません。

しかし、 翌る年に、
六角家で起こった大事件を考慮すると、
この時には、 すでに、家中に、
不協和音が生じていた、
可能性が高いでしょう。

 理由は、 さておき、
畠山軍を壊滅させた、
三好軍が、 京都に迫ると、
承禎氏は、 まともに戦うこともなく、
近江へ撤退します。

 こうして、掴 ツカ みかけていた、
天下人の座は、
承禎氏の掌 テノヒラ 、 から、
するりと、 すり抜けてしまいました。

@ 観音寺騒動 そして没落へ ;

 永禄六年、の、十月、に、
近江一国を揺るがす大事件が起こりました。

名目上の六角家の当主な、義治氏が、
重臣の、後藤賢豊氏を殺したのです。

 賢豊氏は、 先々代の当主な、
定頼氏の時代から、 家臣団の筆頭格で、
承禎氏の信頼も厚く、 家中で、
人望を集めていました。

賢豊氏への殺害の名目は、
無礼討ち、 ということですが、
具体的なことは、 わかりません。

義治氏が、 賢豊氏の人望を妬んだとも、
隠居後も、 実権を手放さない、
承禎氏の力を削ぐため、 とも、
言われています。

 実際に、 承禎氏は、
口うるさい父親だったようで、
六角義治氏が、 美濃の斎藤家と、
同盟を結ぼうとした際に、
それへ苦言を呈する書状も残っています。

義治氏としては、 公然と、
父に反抗するわけにもいかず、
賢豊氏が、 そのはけ口として、
殺されたのかもしれません。

 この義治氏の行為に、 家臣団は、
猛反発しました。
賢豊氏と近い、 重臣たちは、 あっさりと、
義治氏を裏切り、 挙兵、
浅井長政氏へ、支援を仰ぎます。

この事態に、 観音寺城の義治氏は、
城を捨てて逃亡、 箕作城で、
隠居していた、 六角承禎氏も、
義治氏の後を追って、
甲賀へと逃げ込みました。

 承禎氏は、 頭を抱えたことでしょう。
定頼氏から、承禎氏の時代にかけて、
六角家は、 家臣団への統制を強める、
ことで、 守護大名から、
戦国大名への脱皮を果たしました。

しかし、それは、 完全なものではなく、
不測の事態が起これば、 家臣たちは、
簡単に、 主家に牙を剥く、
ことが、わかったのです。

 結局は、 後に、 観音寺騒動 、
と呼ばれることになる、 承禎父子と、
家臣団との対立は、 賢豊氏と並ぶ、
宿老の一人な、 蒲生定秀氏の仲介により、
どうにか、収拾されました。

 しかし、 実際に、 干戈を交えた、
両者の溝が、
簡単に埋まるはずもなく、
この四年後には、 『 六角氏式目 』、
と呼ばれる、 分国法が、 制定される、
こととなります。

 分国法とは、
領国への支配の縷留 ルル ; ルール ;
、 を記した法律ですが、
他の大名家のものとは、違い、
六角家のそれは、
大名家の恣意的な権力の行使を、
抑制する、 ことに、 重きが置かれ、
六角氏の傘下の、 土豪・国人層の、
自立性を保障する、
内容となっています。

これは、 大名が、 配下、への、
統制を強めていく、 世の流れとは、
明らかに、 逆行するものでした。

式目は、 家臣団が起草したもので、
承禎父子は、 自らの権力を縛る、
法を認めさせられた、
ということになります。

その意味では、 六角氏式目は、
法律 、 というよりも、
憲法に近い❗ 、 ということが、
できるかもしれません。

; 『 戦国大名と分国法 』 ;
( 清水克行氏著・岩波新書 )、 では、
六角氏式目のことを、
「 日本版 マグナ・カルタ 」、
と、 呼んでいます。

 こうした経緯で、 六角家は、
戦国大名としての権力を、半ば喪失し、
家臣団との深刻な亀裂を抱えたまま、
最大の敵を迎えることになるのです。

 六角家が衰退に向かっていた、
永禄七年に、 三好長慶氏が病没、
その翌年には、 三好家を牛耳っていた、
三好三人衆 ; ( 三好政康
・三好長逸・岩成友通 )、 と、
松永久秀の子の、 久通が、
京都の将軍御所を襲い、
足利義輝将軍を討つ、 という、
大事件が起こります。

 出家して、 奈良の興福寺にいた、
義輝将軍への、 弟の、 一乗院覚慶氏は、
三人衆に幽閉されるも、
幕臣の、細川藤孝氏らの手引きで逃亡、
近江国は、 矢島へ移った後に、
還俗しました。 これが、
後の、 足利義昭将軍です。

 当初は、 六角承禎氏は、
義昭氏を上洛させ、 将軍職に就ける、
方針で、 動いていました。

そのために、 仇敵の、 浅井長政氏と、
尾張の織田信長氏との同盟を、
斡旋してもいます。

この同盟により、それぞれで、
敵対していた、 六角・浅井・織田、
さらには、 美濃の斎藤龍興氏が和解し、
義昭氏を支援する、
体制を築こうとしたのです。

交渉は、成功し、 長政氏は、
信長氏の妹な、お市女史を娶 メト る、
こととなりました。

 しかし、 なぜか、 承禎氏は、ここで、
方針を一転し、 三好三人衆と、
手を結びます。

これを察知した足利義昭氏は、
矢島を離れ、 若狭、次いで、
越前の朝倉家のもとへと、
逃れていきました。

 承禎氏が、 どういった目論みで、
義昭方から、 三好方へ鞍替えしたのかは、
不明です。
後の歴史を知る我々の目から見れば、
「 承禎さん、馬鹿だなあ 」、
と、 なりますが、 承禎牛には、
それなりに、勝算があったのでしょう。

しかし、 結果として、
この方針の転換は、
大失敗に終わりました。

 斎藤家を滅ぼして、 美濃を制した、
信長氏は、 越前から、 義昭氏を迎えて、
上洛の軍を起こします。

信長氏は、 六角家に対し、
義昭氏の上洛に合力するよう、
要請しますが、 承禎氏は、これを黙殺、
開戦は、 不可避 、 と、なりました。

 永禄十一年、の、 九月に、 信長氏は、
岐阜を出陣、 これに、 浅井家、
三河の徳川家の軍勢が加わり、
総勢は、 六万に達しています。

 これに対し、 六角承禎氏は、
領内の支城を連携させた、
持久戦を目論みました。

織田軍を、 六角領に張り巡らせた、
支城らの網で、 搦め捕り、
三好三人衆の援軍とともに、
逆襲を狙うのです。

 ところが、 観音寺騒動以後の、
六角軍の弱体化は、
承禎氏の想像をはるかに超えていました。

最初に、 織田軍の攻撃を受けた、
重要拠点の、 箕作・和田山の両城が、
わずか一日で、陥落してしまったのです。

 想定外の事態に慌てた、承禎・義治父子は、
観音寺城を捨て、祖先の例に倣って、
甲賀へと逃げ込みます。

遊撃戦に転じて、 織田軍の疲弊を待つ、
策に切り替えたのでしょうが、
祖父の、高頼氏が、 幕府軍と戦った時とは、
状況が、 まるで、 違います。

承禎氏の逃亡を見た、六角家臣団は、
次々と、織田軍に降伏してしまいました。

 当面の脅威を取り除いた、と、判断した、
信長氏は、 さらに、 軍を進めて、
三好三人衆を蹴散らし、
9月26日に、上洛を果たします。

 かくして、 一時は、 京都にも進出し、
存在感を放った、 強豪・六角家でしたが、
承禎・義治父子が、 重要なところで、
致命的な判断未扶 ミフ ; ミス ;
、 を繰り返した結果にて、
その勢力の大半を失う、
こととなってしまいました。

 もしも、 承禎氏が、
三好三人衆と結ぶことなく、
義昭氏の上洛に合力していたら、
その後の歴史は、どうなっていたでしょう。

 革命児と呼ばれることの多い、
信長氏ですが、その政策は、
楽市令や、家臣団の城下への集住、など、
六角家のそれを模倣していた、
形跡があります。

信長氏は、 一般的な意目侍と、違い、
旧体制を重んじる傾向性もあったため、
六角家を無下に扱うことは、
なかったのでは、ないでしょうか。

 承禎氏が、織田政権内にとどまっていれば、 守護大名の六角家は、 戦国大名を経て、
近世大名への揚浮提に成功していた、
かもしれません。

もっとも、それまでに、何かしら、
致命的な未扶 ミフ ; ミス ; 、
を犯して、 滅ぼされる、
可能性の方が、高そうですが……。

 さて、領地の大半と本拠地を失った、
承禎氏らですが、ある意味では、
ここからが、 彼の本領 、
といっても、いいでしょう。

 承禎氏は、 この後に、しつこさ、
粘り強さ、執念深さ、 という、
強味 ; ストロング・ポイント ; 、
を、 最大限に発揮していくのです。

 上洛して、 畿内を制した、信長氏ですが、
ほどなくして、 義昭将軍と不和になり、
浅井長政氏の離反や、大坂の、
本願寺の蜂起に見舞われました。
世に言う、 信長包囲網です。

 甲賀で息を潜め、 旧領、への、
奪回を狙っていた承禎氏は、
ここぞとばかりに、動き出しました。

仇敵の、 浅井長政氏や、南近江の、
一向一揆と手を結び、
反信長陣営に加わるのです。

 承禎氏は、 活発な遊撃戦を繰り広げ、
信長氏を苦しめました。
叩いても叩いても、逃げ延び、また、
ちょっかいを出してくる承禎氏に、
信長氏は、 さぞかし、
頭に来たことでしょう。

 ですが、いかんせん、反信長陣営は、
寄り合い所帯。 肝心なところで、
連携が、 うまくいきません。

幾度かを、 信長氏を窮地に追い込んだ、
ものの、 元亀 四年 ; 1573年 ;
天正 元年 ; 、 に、
武田信玄氏が没すると、
潮目が変わり、 浅井・朝倉は、滅亡、
包囲網は、瓦解します。

 翌る、 天正二年、に、 承禎氏の籠もる、
最後の拠点な、甲賀石部城が、ついに、
織田家の大軍に、包囲されました。

 雲霞の如き、織田軍に対し、
六角軍は、 せいぜいで、 数百、
といったところでしょう。
もはや、どこにも、
援軍は、望めません。
とうとう、 年貢の納め時か。
そう思われましたが、
この程度で諦める承禎氏では、
ありませんでした。

折から降り出した雨に紛れ、
六角義治氏とともに、 城を脱出。
さらに、 山深い、 近江の、
信楽郡へと落ち延びていったのです。

 とはいえ、 組織的な抵抗は、
ここまででした。 これ以後は、
承禎・義治父子の行方は、
杳 ヨウ 、 として、知れなくなります。

いまだに、 独立を保っていた、
伊賀の国人衆を頼って、抗戦を続けた、
とも、 大坂の本願寺に身を寄せた、
とも、 言われますが、
定かでは、 ありません。

 ここに、戦国大名の、 六角家は、
完全に消滅したのです。

 石部城の陥落から、 十年近い、
歳月が流れました。 信長氏は、
1582 一期 イチゴ 、半分、 の、
1582年に、 本能寺で倒れ、
長きにわたった戦国乱世は、
豊臣秀吉氏によって、平定されています。

 その秀吉氏の傍らに、
承禎・義治父子の姿がありました。

御伽衆、すなわち、主の側近くに侍り、
雑談や学問の講釈をする役目です。

どういった経緯を経たものか、
父子は、 いつからか、 秀吉氏に、
御伽衆として、仕えていたのです。

 秀吉氏の御伽衆には、
様々な人物が、顔を揃えていました。
商人や文化人、 織田家臣の時代の上司に、
かつての大名、 旧主の織田一族 ;
( 以前に紹介した、 織田有楽斎氏も、
名を連ねています ) 、 さらには、
元の将軍の、 足利義昭氏。

低い身分から成り上がった秀吉氏は、
周囲に、 そうした、 貴人、
上流階級の人々を集めて侍らせることで、
自らを飾り立てたのです。

 由緒のある、 近江佐々木源氏の嫡流が、
没落の末に、成り上がり者の飾り物にされる。 後世の目から、 承禎氏の晩年を見れば、
そこには、 憐れみを禁じ得ません。
あるいは、 矜持を捨ててまで、
権力者の側に侍る、 承禎氏を、
嘲笑する向きもあるでしょうか。
名門の誇りは、 どこへ行った。
なぜ、信長氏との戦いで、
潔く散らなかったのか。

 しかし、 当時の武士の至上命題は、
誇りを守ることでも、
華々しい最期を遂げて、
後世に語り継がれることでもなく、
生き延びて、家名を存続させることです。

その意味で、 承禎氏は、
父祖伝来の領地を、すべてを失おうと、
世人の嘲りを受けようと、 まぎれもない、
勝者でした。

 承禎氏の父な、定頼氏の代に、
守護大名から、 戦国大名へ転身した、
かに見えた、 六角家ですが、 それは、
甚だ、 不十分なもので、
承禎氏の代には、 再び、
家臣団への統制に苦慮するようになります。

さらに、 信長氏に敗れたことで、
近江の一弱小勢力へと落ちぶれ、ついには、
すべての領地を失ってしまいました。

 しかし、 六角家が、
滅びたわけでは、ありません。
承禎氏は、 権力者の庇護を受ける、
旧名門へと、自らを揚浮提したのです。

 太閤秀吉氏の死に先立つこと、 五ヶ月、
慶長 三年 ; 1598年 ; 、
の、 三月に、 承禎氏は、 山城国は、
宇治で、 天寿を全うしました。

享年は、 七十八。 当時としては、
異例と言っていい、長寿です。

 あまり、 戦に強い意目侍のない、
承禎氏ですが、 信長氏に、正面から、
敵対し続けて、 ここまで、
長生きした人物は、 他に、
そうは、いません。
それだけでも、 彼の生命力は、
特筆に値する、 というものでしょう。

 承禎氏の嫡男な、 六角義治氏は、
秀吉太閤の死後に、 その子の、
豊臣秀頼氏、への、 弓術の師範として、
豊臣家に仕え続け、
慶長十七年に、 死去します。
享年は、 六十八。

義治氏の弟の、 六角義定氏も、
元和 ゲンナ 六年年 ; 1620年 ;
、に、 七十四歳で没しました。
いずれも、 天寿を全うした末の、
大往生でしょう。
承禎氏の生命力の強さは、子供たちにも、
しっかりと受け継がれていたようです。

 義定氏の子孫は、 江戸幕府の、
旗本に召し抱えられたものの、
江戸時代の中頃に、 嗣子が絶えて、断絶。
義治氏の子孫は、 加賀藩士となって、
その血統を後世にまで伝えています。

 秀吉氏、への、 御伽衆となった、
承禎氏の晩年が、 どの様な物だったかは、
残念ながら、 よく、わかりません。

 承禎氏が、 天正 九年 、 に、
キリスト教に改宗した、 という、
記録が残っています。

天正 九年 、 といえば、
織田信長氏が、 独立を保っていた、
伊賀の国人衆を殲滅した、
第二次天正伊賀の乱が起こった年です。

 ここから、想像を逞しくしてみましょう。
  石部城の陥落の後に、 承禎氏は、
伊賀に身を寄せ、 失地の回復のために、
細々と、 織田家への抗戦を続けていました。

しかし、 織田軍の伊賀への侵攻により、
その野望は、 完全に、潰 ツイ えます。
通常の戦ではなく、 敵対する者は、
殺し尽くす、 殲滅戦です。
承禎氏の眼前に広がる光景は、
眼を覆いたくなるほど、
惨たらしいものだったでしょう。
 殺戮の巷を逃れた、 承禎氏は、
命からがら、 堺あたりにたどり着き、
潜伏を余儀なくされました。
やがて、 何らかのきっかけから、
ヨーロッパからやってきた、
宣教師と出会うのです。

 キリストの教えに触れた彼は、
戦、謀略、権力争いに明け暮れた、
己の生涯を振り返りました。
そして、そうしたものの、
虚しさに思い至り、改宗を決意する。

 承禎氏は、秀吉氏に召し抱えられた後も、
俗世と距離を置き、信仰に生きました。

子や孫に囲まれて、 畳の上で、
大往生を遂げた彼の心は、
大名だった頃よりも、ずっと、
穏やかなものだったことでしょう。

 すべては、 想像に過ぎません。
乱世の武将が、そんなに、
甘っちょろいものか。
そう仰る方もいるでしょう。
 ですが、 そう考えることで、
彼の報われることの少なかった生涯に、
一筋の光が射し込んでくる。
僕には、 そう思えるのです。

http://news.tv-asahi.co.jp/sphone/news_economy/articles/000075472.html :

25年を連続で、
“ 世界一の金持ちな日本国 ”:

日本の、政府、や、 企業などが、
海外に持っている、 資産から、
負債を引いた、 海外の、
『 純 資産 』、 が、 去年は、
3百39兆円で、

日本は、 25年を連続して、
世界一のお金持ちの国になった ;

≒ 国 ; 、というのは、
日本の主権者である、
日本国民である場合の、
あなた、方の事であって、
それ以外の何か、の事ではないので、
あなた、方へ、再配分されるべき、
あなた、方の、『 純 資産 』、 が、
同じ通貨を単位とする、
金額に換算して観た場合に、
世界で、第一位の多さの金額で、
評価される状態に成った ;

という事だが、
なぜ、 あなた、方の、純資産が、
あなた、方へ、分配されないか、
というと、

あなた方への、 財務執事な、 役人らや、
政治執事な、政治家らが、
彼らへの主 アルジ 、 の立場にある、
日本の、主権者な、
あなた方から、の、
同意を得る事を、無しに、
あなた方へ、
これを分配できない、 とする、
偽 イツワ りの理由な事らを挙げる、
等し、
偽りの主張な事らを成して、
実際にも、 これを、
あなた方へ配分しない、 ままに、
し続ける行為を成している事について、
憲法に違反している行為であるとして、
彼らを裁判に掛ける行為を、
成さないままにする、
不作為型の行為を、
あなた方が、 成しているからだ。

日本の、 財務省によると、
企業らの、 海外への投資の増加や、
証券投資が増えて、
「 対外 資産 」、 は、
7年を連続して、 増えた❗ 。

一方で、 外国人らが持つ、
日本株らが、 増えたり、

年末にかけて、 値上がりをした事から、

「 対外 負債 」、 も、増え、

資産から、 負債を引いた、
日本の、 「 対外 純 資産 」 、 は、
3百39兆2千630億円 ❗ 、
と、 5年ぶりに減った。

それでも、 日本は、
対外純資産の保有残高が、
25年を連続して、 世界一、となった。

主要国では、
ドイツが、23年ぶりに、 2位に、
中国が、 十年ぶりに、 2位から転落して、
3位になっている。


☆ 三橋貴明氏❗ ;

公共投資で、 国富と所得 ( 預金 )、
が、 増えるって、 知ってた? ;

2019-10-20 8:28:26
三橋貴明オフィシャルブログ
「新世紀のビッグブラザーへ blog」

株式会社経世論研究所 講演・執筆依頼
等、お仕事のご依頼は、こちらから
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チャンネルAJER
『日本の少子化をくい止めるにはー
その1ー(前半)』三橋貴明 AJER2019.10.15

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
令和の政策ピボットの呼びかけ人に、
経済評論家・株式会社
クレディセゾン主任研究員の
島倉原氏が加わって下さいました。
また、メルマガ
「令和ピボットニュース」が始まりました。
皆様、是非とも、メルマガ登録を❗。

三橋TV第152回
【東京都民のための地方経済再生を!】

https://youtu.be/FDEKFE1VKZM

 昨日は三橋経済塾
第八期第十回講義開催日でした。
上島先生、二次会までお付き合い頂き
ありがとうございます。
 インターネット受講の皆様は、
しばらくお待ちくださいませ。

 メルマガ「週刊三橋貴明
~新世紀のビッグブラザーへ~」の最新号「Vol543 インフラ投資と国富」で、
防災投資による
「国富創出」と
「我々の財産(預金)創出」について
バランスシートで説明したところ、
かなり好評でした。

 本件に関連した記事が
いくつかありましたので、ご紹介。

『台風を期に公共投資「所得倍増」を❗。
「伊勢湾台風」型の進路が示唆するもの
(前略)先ほども述べたように、
伊勢湾台風が日本全国を襲ったのが
1959年、このときの内閣総理大臣は
岸信介でした。

現在の上皇・上皇后夫妻が結婚、
前回の東京オリンピックの開催が
決まったのも、同じ年のことです。

 また「60年安保」で政治が
大荒れに荒れたのもこの頃のことで、
翌60年の6月15日には
東京大学に在学していた女子学生、
樺美智子さんが亡くなり、
岸政権は
新安保条約批准ののち、 総辞職、
池田勇人内閣が成立します。

 直後の10月、日本社会党の
浅沼稲次郎委員長が、17歳の少年
山口二矢に刺殺される、など、
別の意味での嵐の季節でもあった。
 そんな中で誕生したのが、
池田内閣の目玉政策となった
「所得倍増計画」でした。(後略)』

『対策遅い「災害大国」
借金ばかり心配する財務省、
国民の命を守るための公共投資増やせ

(前略) 財務省は、口を開けば
「赤字削減」を唱える。

だが、建設国債で
河川対策費用を賄えば、
借金が増えたとしても、同時に
河川の価値も高まる。

国のバランスシートで見れば、
資産と負債が両建てで増えるだけだ。

負債から資産を引いた、
純債務は、 変わらない。

借金の大きさだけを問題にする
財務省の理屈が、そもそも、
間違っているのである。

 別の言い方をすれば、いくら
政府の借金が増えようと、それで
治水対策が進んで、
国民が災害から免れるなら、
結構な話ではないか。

政府の仕事は
「国民の命と暮らしを守る」ことだ。

それができないのに、
借金を心配するのは、本末転倒である。

 折から臨時国会が開かれている。
政府は、 大型補正予算を組んで、
無電柱化の推進はじめ、
抜本的な災害対策を進めるべきだ。

米中対立の激化など
世界経済の行方が不透明になるなか、
災害対策は景気対策にもなる。
まさに一石二鳥ではないか。(後略)』
 
 台風15号、台風19号、という、
連続的な災害襲来は、確かに、
日本国の「空気」を変えつつあります。

 以前は、堂々と
「公共投資の拡大を」と主張していたのは、我々くらいなものでした。
財政面の話は、とりあえず置いておいて、
とにもかくにも、
「政府は、
公共投資、防災投資で
国民の生命や財産を守らなければならない」
 という、当たり前の話が
理解され始めたのだ、 と、思います。

 記事において、伊東乾氏は
「公共投資と所得」、長谷川幸洋氏は
「公共投資と純資産」の話を書いていますが、まさにこれが
「Vol543 インフラ投資と国富」の
テーマでした。ちなみに、
長谷川氏の言う「純資産」は、
別名「国富」と呼びます。

【歴史音声コンテンツ 経世史論】

http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/
※10月1日から、長浜浩明先生の
特別コンテンツ
「日本人はどこから来たのか?」が
視聴可能となりました。

 というわけで、日曜日で、じっくりと
エントリーを読み込むことが
可能な方も多いでしょうから、
防災投資による、「国富」と
「所得( 我々の現預金 )」の、
増加のプロセスについて
解説しておきましょう。

 バランスシートを使った細かい説明は、「Vol543 インフラ投資と国富」を
ご覧ください。
バランスシートを使うと、さすがに
置き去りの読者が、激増しそうなので、
本エントリーでは、やりません。

 例えば、 政府が、
10億円の建設国債を発行し、
ダムを建設したとします。

(1) 政府の建設国債発行
 市中銀行の資産、日銀当座預金 ;
10億円 、 が、
国債 ; 10億円 、 と引き換えに、
政府に移ります。

 市中銀行の資産として、
政府の負債である、 国債 ;
10億円 、 が計上されます。

(2) 企業のダム建設と、政府の支払い。
 事業を受注した企業が、
ダムを建設すると、政府は、
市中銀行に指示し、支払いをします。

 具体的には、市中銀行に持つ、
企業の銀行預金口座の、
「お預かり金額」に、
10億円 、 が打ち込まれます。

( 銀行が印字するだけ )。

 ご存知の通り、預金は、
市中銀行にとって、負債です。

政府の指示で、 負債 ( 銀行預金 )、
を増やさせられた、 市中銀行は、
決済をしてもらわなければ、なりません。 

 また、この時点で、
政府の固定資産として、
「 ダム 10億円 」、が出現しています。

(3)  市中銀行が、
企業への支払いについて、
政府と決済。

 日本銀行は、
政府が、 国債の発行で借りた、
日銀当座預金 ; 10億円を、 「 消し 」、
市中銀行の日銀当座預金 ;
10億円を 、 「 増やし 」、 ます。
( キーボー打つだけですが ) 。
 これで、
政府-銀行間決済は、
完了です。
 
 普通の公共投資は、これで終わりですが、「国の借金、国の借金」煩いので、
政府が最初に発行した、 国債 ;
10億円 ; 、
を、 貨幣化してしまいましょう。

(4) 国債の貨幣化。
 日本銀行が、市中銀行の国債を買い取り、
日銀当座預金を発行。

 具体的には、
銀行の資産から、 国債 ;
10億円 、 が消滅し、代わりに、
日銀当座預金 ;
10億円 、 が増えます。

 日銀の資産として、国債 ;
10億円が出現します。

 最終的に、国債が貨幣化されたため、
政府の債務的な負担
( 利払い・償還 )、 は、
消滅しました。

 その上で、一連のプロセスを経て、
1.企業の生産活動により、
所得の創出が行われ、
銀行預金 ; 10億円 、 という、
「資産」が生まれた

2.政府に、 ダム 10億円、 という
「資産」が生まれた
 ことが理解できるはずです。

この「ダム10億円」こそが、
国富に該当します。
( 生産資産という名の国富です )。

 つまりは、 政府の10億円の防災投資
( & 貨幣化 )により、
「 国富、 な、 10億円が生まれ、
国民の所得 ; ( 預金 )、が、
10億円 、 を、 増え、さらに、
政府の実質的な債務の返済での負担は、
生じない 」
 ということになるわけです。

「そんな巧い話があるか!」
 と反発するおバカさんが、
「現実に」多いのですが、
事実が、こうである以上、
仕方がありません。巧い話は、
普通にあるんですよ。

 すると、
「そんな巧い話があるのに、なぜ
政府は
公共投資を減らし続けているんだ❗ 」
 。と、妙な反発をされるのですが、
そりゃあ、国民や政治家が、
アンタ同様に、バカだからだよ、
としか、言いようがないのです。

 問題は、むしろ、日本の企業に
「ダムを建設する能力があるか、否か」です。

国民経済の五原則の1を思い出してください。
「1、国民経済において、
最も重要なのは
「需要を満たす供給能力」である。」

 つまりは、政府が防災投資を怠ることは、
上記のメリットが生じない上に、
虎の子の、「土木・建設の供給能力」を
毀損していく事態になってしまうのです。

 さて、ここまで
「国民のメリット」を説明しても、
我が国の公共投資否定論は
終わらないでしょう。
彼らを潰すためには、
公共投資肯定論で、
国民世論を埋め尽くす必要があります。

 自分や家族、同じ国民の生命を守るため、
あらゆる角度から切り込み、
公共投資否定論を潰さなければなりません。
切りつける際の「刀」の一つを、
本日、ご紹介いたしました。

「公共投資否定論を叩き潰そう!」に、
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☆ ガン細胞たちは、
ブドウ糖だけ、 を、
唯一の、主な、栄養分としてあり、
糖質を制限する事を含む、
ビタミン・ケトン療法は、
ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、
ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。

タンパク質たち、と、
ビタミン、たち、に、
ミネラル 、たち、を、 完全以上に、
飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、
一部の人々を除いた、
ほとんどの人々の健康性を成し続ける、
代謝ら、を、
完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、
これら、を、 より、 欠いてしまう事は、
万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、
より、 余計に、 成す事を意味する。

☆ Cancer cells
Only glucose,
As the only main nutrient,
Including restricting carbohydrates,
Vitamin / ketone therapy
Even if
you make cancer cells attack soldiers,
This will reduce
the possible degree of cancer.

With proteins,
Vitamins,
Minerals, more than complete,
Drink and eat, keep taking,
Excluding some people,
Keeps the health of most people,
Metabolism,
It ’s necessary to continue
to do more than perfect,
The more you miss these things,
Cause all kinds of illness,
possible degree,
More than that, it means to do it.

☆ いずれにせよ、
日本人たちは、 より早くに、
日本人たちの足元の、 地下へ、
より、 どこからでも、
より、 速やかに、 落ちついて、
歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、
公共事業らを成す事により、

日本の、 財務省の役人ら、と、
与野党の、 主な政治家らとが、

英米のカネ貸しらの主張する事らを、
そのまま、自らもまた、
オウム返しにして、主張し、
実行もする事において、

日本政府の財政における 、緊縮 、
を、 繰り返し、 成す事を通して、

彼らへの、 主 アルジ の立場にある、
日本の主権者としてある、日本人たちへ、
物価だけではなく、
その労働らへの賃金らの水準へも、
より、 押し下げる向きへ圧力をかける、
要因らの系である、
デフレ不況性 、を、
押し付け続けて来てある、

その、 デフレ不況性 、を、
解消し去ってゆく、 と共に、
日本人たちの防衛性の度合いを、
飛躍的にも高めてゆくべき、
ぎりぎりの状況にも、 ある 。

地上を襲い、 地上をおおい得る、
あり得る、 災害らへ対して、

地上に、 避難所らや、
避難経路らを設定して、
日本の主権者たちを、
それらへ誘導する事は、

人食い虎どもの住む、 密林へ、
わざわざ、 人々を誘導する事に類する、
行為であり、

日本の主権者としてある、
日本人たちの一般 、へ対して、
個々の日本国民においても、
執事なり、 召し使いなりの立場にある、
公務員などの、 者らにおいても、
成す事が、 許されない 、
行為なり、 態度なり、 であり、

日本人たちの一般の、 あり得る、
福利ら、を、 より、 能くも、
最大限にも、 成す事を、 約束して、
日本の社会に、 存在し、 存続する事を、
日本国民たちの一般から、 許されてある、
筋合いにある者としての、 義務 、 に、
違反性を成す、 行為であり、

それが、 作為型では、 無く 、
無知性と痴愚性とにもよる、
不作為型の、 行為なり、 態度なり、
であっても、
それへの責めを負うべき、 筋合いを、
その主らの側に、 成すものである事に、
変わりは、 無い。

日本医学; 和方❗; 三石分子栄養学➕藤川院長系; 代謝医学❗; 糖質への制限で、 復活し得る、耐糖能❗

2019-10-20 10:32:12 | 政治・経済
☆ 糖質への制限で、
復活し得る、耐糖能❗ ;

☆ 人々の命と健康性とを成し続ける、
上で、 必要な、 代謝ら、を成す、
のに要りような、 代謝員ら、への、
あるべき、度合いら、での、
飲み食いなどによる、 摂取らが、
十分に、 成され付けてある、
場合らにおいては、
甘い物らを、 やたらと、
飲み食いしたがったり、
暑くもないのに、
氷を口に含みたがったり、
新聞紙などを、 むしゃむしゃと、
食べたがったりする、
異食い性の欲求性ら、の、
あり得る、 湧き立ちようら、が、
より、 未然にも、 差し止められる、
ので、
兌越砥 ダエット ; ダイエット ;
、 なども、 より、 難なく、
成功の裡 ウチ 、 におさめ得易くなる❗ 。

より、 あるべき、代謝らへ対して、
より、 必要性の度合いの高い、
代謝員ら、 への、 摂取らの度合いが、
より、 足りない場合らにおいて、
炭水化物、な、糖質ら、などへの、
あり得る、 異食い性の欲求性ら、が、
より、余計に、 湧き立たしめられる、
実態ら、が、
そうした人々において、
観宛てられ得る。

牛が、 日頃は、 食べない、
小鳥を食べて、 その健康性を、
より、能く、成すのに必要な、
代謝員らを補給し得た、
実例が、 報告されてあり、
自らの生存や、その子孫員らを成す上で、
必要な、 代謝員ら、や、 栄養分ら、を、
その日頃の、 飲み食いらからは、
より、 得られなくなっている、場合の、
生き物らにおいては、
異食い性の欲求性ら、が、
湧き立って、 あれこれの物らを、
やたらと、飲み食いし宛てる事で、
欠けてある、栄養分ら、や、
代謝員ら、を、 補給し得る、
場合もあり、
進化の道筋らにおいて、
より、 そうした、 異食い性の、
欲求性ら、を、成せない場合の、
生き物ら、は、
より、 絶やされやすく、 あったり、
あり続けていたりする事、 などが、
考えられる。


☆ 日本医学 ; 和方 ❗ ;
三石分子栄養学➕藤川院長系; 代謝医学❗ ;

☆ 代謝員らの合体性の度合い、
による、 代謝ら、の、あり得る度合い ;

タンパク質な、 酵素 コウソ 、
と、
補酵素 ホコウソ 、 な、
ビタミン 、か、
補因子 、な、 ミネラル 、
とは、
文字通りに、 『 合体 』、をする、
事により、
『 代謝 』、 な、 働きを成し合う、
代謝員ら、 であり、

この代謝員らの合体性の度合い、
が、 一定以下である場合らにおいては、
どの、代謝、も、成されない❗ 。

人によって、
代謝員らごとの、合体性の度合い、
が、 異なる、 だけでなく、
同じ一人のヒトにおいても、
その、 代謝員らごとに、
合体性の、 能く、成され得る、
あり得る、度合いは、
異なり得る❗ 。

この、 三石分子栄養学➕藤川院長系 、
で、 言う所の、

代謝員ら、ごとの、
代謝を成す上で、 必要な、
合体性 、での、 あり得る、 度合い、
らの系でもある、
『 確率的 親和力 』、
らにおける、 不足性、らを、
より、 埋め余し得るような、
度合い、ら以上の、 度合い、らで、

必ず、 その一方に、
タンパク質、らを、 含む、

あるべき、 代謝員ら、 への、
飲み食いなどによる摂取ら、
を、 成し付ける、
事が、
人々が、 その命と健康性とを、
より、 確かに、 より、 能く、
成し得てゆく上で、
他の何よりも、
圧倒的に、 重要な事であり、

これの度合いを、 欠けば、欠く程に、
人々の命や健康性を、
より、よく、成すべき、
運動ら、や、 薬らに、
手術ら、などの、
あり得る、 効果らの度合いらは、
より、 小さくなり、

それが、 一定度合い以上に、
欠けてしまうと、
何をしても、 助からない、
状態に、 誰もが、成る❗ 。

どんな健康法も、 どんな治療も、
どんな薬も、 どんな手術も、
どんな運動も、
代謝員らごとの、
『 確率的 親和力 』、 らでの、
あり得る、 不足性ら、を、
埋め余し得る以上の、 度合いらでの、
あるべき、 代謝員ら、への、
飲み食いなどによる、 摂取ら、の、
質としての度合い、や、
量としての度合い、 を、
欠けば、 欠く程に、
より、 その人々の命や健康性を、
能く、成さしめる、 その、 あり得る、
効果らの度合いら、を、
より、 小さくされ、
それが、一定度合い以上に成れば、
誰もが、 必ず、 死に至る、
のであり、

癌 ガン 、などを、
我が身に成しても、
完治する人々が、成る、一方で、
再発させる人々が、 成る、のも、
この、 あるべき、度合いら
≒ つまり、
『 確率的 親和力 』、 らの、
あり得る、 不足性 、らを、
より、 埋め余し得る、 度合いら 、
での、
あるべき、代謝員ら、への、
飲み食いなどによる摂取ら、について、
より、 有り余らしめる、 のと、
より、 欠かしめる、 のと、の、
互いへの、 違いよう、 らに、
決定的な、 要因性ら、がある❗ 。

☆ ハゲてある人々が、
ふさふさな髪の毛らを取り戻す、
にも、
植物人間状態にされてある人々が、
その体の部位らを動かしめ得る筋合いの、
意識性らを取り戻す、
にも、
特定の、 代謝ら、か、
それらに類する、 代謝ら、を、
復活させしめたり、
新たに、 成したり、する、
事が、 必要に成る。

その持ち前の遺伝子らが、
ウィルス 、などによって、
改変されて居らずに、
その、持ち前の、 特定の、
タンパク質らを、
細胞ごとに、 作らしめる、
能力性ら、を、 改変されていない、
のであれば、
その、細胞ごとに、 含まれてある、
遺伝子ら、へも、向けて、
必ず、 その一方に、
タンパク質らを含む、
あるべき、 代謝員らを、
あるべき、度合いら以上の、
度合いら、で、 投与し続ける、
事が、
ハゲてある人々へ、
自然に生える、 髪の毛らを、
取り戻してやり、

植物人間状態な、人々へ、
その動作性の意識性らを取り戻してやる、
上で、 必要な事であり、

この度合いらを欠けば、欠く程に、
それらは、
より、 得られ得ないものにされる❗ 。

現実に、 植物人間状態から、
意識性らを取り戻し得た、
人々は、 存在している、
が、
その事の裏には、
あるべき、あり得る、代謝ら、が、
その人々においては、
復活させしめられ得た、
という事が、
欠かし得ない、 要因性を帯びて、
あり得ている❗ 。


☆ 妊娠糖尿病と糖質制限食。
インスリン・フリー。 耐糖能が治る。
糖尿病 ;
2019/ 10/4 8:12 14 - ;

☆ ドクター江部❗ ;

【 19/ 10/3 のん ;
教えてください
はじめまして,のんと申します。
江部先生のブログを
拝見させていただいております。
とても有益な情報を
ありがとうございます。

実は,第2子の、 妊娠10週で受けた、
血液検査で, 妊娠糖尿病になっていた、
ことが、 分かりました。
その時の結果が、
GTT ; 75 g 、で、
空腹時 ; 84,
一時間後 ; 157,
二時間後 ; 156 、 という、
血糖値でした。
担当の先生からは, 食事を食べて、
血糖を制御できない時は、
インスリンを打つ、 と言われていましたが, 江部先生のブログを参考にして、
自分なりに、 食事への管理をして、
インスリンを使うことなく、 8月に、
無事に出産を終えました。
子供も、 2992gで、うまれ,
低血糖になることもなく、安心しました。

ところが, 先月の末に、
産後2か月後に、 再度、
血液検査をしたら, 境界線 、という、
結果が出て, ショックを受けています。

NGSP ; 5.6
負荷前血糖 ; 66
血糖30分 ; 100
血糖60分 ; 187
血糖90分 ; 186
血糖120分 ; 176
、 と,
食後120分の血糖が、 高かったです。

インスリンは,
食前 ; 0.77
30分後 ; 16.6
60分後 ; 238
90分後 ; 95.5
百20分後 ; 81.5
、 でした。

先生からは, 野菜を最初に食べてから、
食事をするとか、すれば、よい、
と、 言われましたが, 普段から、
食べるのが大好きで、 量も、
普通の人より多く食べている、
と、 思います。

身長 ; 159センチで,
妊娠前は, 体重が、 60キロありましたが,
つわりや、 食事管理で、 体重が減り,
出産時の体重は、 59.3 キロ,
現在は、 52 キロ 、 です。
( 一人目の時は, 妊娠糖尿病には、
なりませんでした。)

これからの食事制限を、どの程度にすれば、
将来的に、 糖尿病を発症せずに、
済むのでしょうか。
現在は, 野菜と、タンパク質を中心に、
朝と昼に、 玄米を、
70 g 、を食べています。

妊娠中は、 玄米 ; 50 g 、 ずつ、を、
3食を食べていました。

間食は、してよいのか, 可能なら、
どの程度でしてよいのか, 例えば,
ケーキは、 食べていいのか,
うどんは、 食べていいのか,など、
考えると、 不安にもなりますし,
ストレスもたまります。

今は、 産休でお休みしていますが,
仕事に復帰すれば、 昼食は、 ほぼ、
糖質だけのものを用意される状態です。

野菜から食べれば、よい、
ということすらできない状態なので,
例えば、 イージーファイバー、 などを、
一緒に飲みながら、 食べれば、
少しは、 血糖が上がらないのか、など、
いろいろ考えているのですが・・・。

ぜひ、 江部先生に、
アドバイスをいただければと思い,
失礼ながら、 コメントに
記入させていただきました<(_ _)> 】

こんにちは。
のんさんから、
妊娠糖尿病の経過や、 出産後の、
75G経口ブドウ糖負荷試験について、
コメント・質問を頂きました。

妊娠中は、 玄米 ; 50 g 、ずつ、を、
3食を摂取。
炊いた玄米 ; 50 g 、 中の、
糖質は、 17・1 g 、 です。

あとは、 野菜やおかずの糖質で、
1食あたり、 < 30 ~ 40 g > 、
くらいの糖質量でしょうか。
妊娠糖尿病で、
「 緩やかな糖質制限食 」、 を実践されて、
インスリンなしで、 無事に、 出産とは、
素晴らしいです。

出産後、 159 cm 、 52 Kg 、
BMI : 20・57 、2
と、 体重コントロールも良好です。

出産後 2ヶ月、
75 g 経口 ブドウ糖 負荷 試験 ;
負荷前血糖 ; 66 。
血糖30分 ; 100 。
血糖60分 ; 187 。
血糖90分 ; 186 。
血糖120分 ; 176 。

1 g 、の、 糖質が、
ピーク60分で、 1・6 mg 、 を、
血糖値を上昇させています。
現時点で、 診断は、
境界型糖尿病です。

『 現在は、 野菜とたんぱく質を中心に、
朝と昼に、 玄米を、 70 g 摂取。 』

炊いた玄米 ; 70 g 、は、
糖質の含有量は、 23・9 g 、 です。

野菜やおかずの糖質が加わると、
1回の食事の合計での、 糖質量は、
< 40 ~ 50 g > 、位でしょうか。

糖質 ; 40 g 、 なら、
食後ピークの、 1時間血糖値は、
64 mg 、 の上昇であり、

糖質 ; 50 g 、 なら、
食後ピークの、 1時間血糖値は、
80 mg 、 の上昇でです。

空腹時の血糖値が、
66 mg / dl 、 とか、
84 mg / dl 、 ですので、

食後血糖値のピークは、
糖質 ; 50 g 、 の摂取で、
百46 mg 、とか、
百64 mg 、 です。

これ位なら、 将来に、糖尿病になる、
確率は、 低い、 と、思います。

さらに、 私の畏友、産婦人科医の、
宗田哲男先生のご研究で、
「 妊娠糖尿病だった患者が、
2 - 3年間を、 糖質を制限していたら、
耐糖能が、なおる❗ 」 ;
ということが、 わかりました。

妊娠糖尿病だった患者さんが、
緩やかな糖質制限食を、
2 - 3年間を続けたら、
16例中、 の、 14例が、
糖負荷試験で、 完全に、
耐糖能が正常になっていました❗ 。

それで、 反復妊娠では、
妊娠糖尿病は、 発症しませんでした。

2017年12月3日の糖尿病妊娠学会 ;
( 宮崎 )、 でのご発表です。

妊娠糖尿病な、 患者さん達のうちの、
2人の女性は、
出産の後に、 元の食事 ;
( 普通に、 糖質あり ) 、 に戻して、
次回の妊娠でも、 また、
妊娠糖尿病になってしまっていました。


この宗田先生のご研究の結果を踏まえれば、
「 1回の食事の糖質量 ;
40 g 、 くらいの、
緩やかな糖質制限食 」 ;
、を、 出産後も続ければ、
耐糖能が正常化する、
可能性が高い❗ 、 こととなります。

1回の食事の糖質量は、
< 少量の、 ご飯・うどん、 野菜、
少量の、 ケーキ、 少量の、
アイスクリーム・・ > ;
などからの、
合計の糖質量となります。