☆ 歴史拾い❗ ; 土器像 ➕
和歌ら❗ ;
☆ 胸に乳房が表現された女性、
と、みられる、 人物の刻まれた、土器片❗ ;
奈良県は、 田原本町と天理市にまたがり、
弥生時代の集落跡と墓跡が確認された、
清水風 ( しみずかぜ ) 遺跡で、
胸に乳房が表現された女性とみられる、
人物の刻まれた土器片 ;
( 紀元前1世紀ごろ )、 が、 みつかった。
町教育委員会が、 9日に発表した。
乳房が表現された、 弥生時代の、
絵画土器への発見は、 初めて。
この女性を、 霊的な力を持つシャーマン ;
( 宗教的職能者 ) ;
呪員 ジュイン ; 、
とする、 見方もあり、
農耕祭祀 ( さいし )、 での、
女性の役割を探る、 貴重な資料として、
注目される。
町教委によれば、 土器片は、
最大の幅が、 16 センチ 、
高さ、 が、 12 センチ 、 で、
大形の甕 ( かめ ) ; ミカ ;
、の口から、 胴にかけての、 部分、
と、 みられる。
5~6月に、 約 40平方メートルを調査し、
弥生の中期の川跡から、出土した。
両手を広げ、 手の指は、5本。
顔に、 目と鼻、や、 口、に、 まゆ毛、と、
羽のような袖や、 二つの乳房らも、
表現されている。
絵画土器は、 10日~12月1日、
町内の唐古・鍵考古学ミュージアム ;
( 月曜は、 休館、 祝日の場合は、
翌日に、 休館 )、 で展示される。
問い合わせは、 町教委文化財保存課へ。
( 岡田 匠 記者 )
@ かつては、あった ;
君が代 、の、 二番 ;
( 藤原俊成氏の作詞 ) ;
君が代は 千代とも鎖さじ 天の戸や
出づる月日の 果てし無ければ ;
同じく、 三番 ;
( 源頼政氏の作詞 ) ;
君が代は 千尋の底の さざれ石の
鵜の居る磯と 現わるるまで・・。
・・さざれ石は、 本当に、
くっついて、大きくなる。
☆ 「 かるたの聖地 」、 として、
知られる、 近江神宮 ( 大津市 )、で、
11月3日に、 世界初の、
競技かるた国別対抗団体戦が開かれる。
競技かるたに青春をかける、
女子高生の姿を描いた漫画 ;
「 ちはやふる 」、 の、 働漫 ドマン ;
アニメ ; 、 版が、
海外でも、放映され、
かるた人気が、 国外でも高まる中で、
競技かるたの魅力を世界に発信しようと、
大津市などが企画。
米国やイタリアなどの、
7カ国のチームのほか、に、
日本代表な、 2チームと、
留学生チームの、 計して、
10チームが参加して、腕を競う。
世界一を決める一戦を控え、
外国人な選手らも、 熱のこもった、
練習を繰り広げている。
( 杉森 尚貴 記者 ) ;
「 バンッ❗ 」 。 畳をたたく音が、
張り詰めた空気を切り裂く。
10月の下旬に、 大会の会場な、
近江神宮では、
「 大津あきのた会 」、 に所属する、
かるた愛好家に交じって、
練習に励む、 留学生選手の姿があった。
留学生チームの面葉として出場する、
立命館大の、 大学院の、経営学研究科の、
2年、黄馨永 ( コウ・シンヨン )、さん
; ( 25 )、も、 その1人だ。
台湾の出身で、 7月に、
かるたを始めたばかりだが、
和歌を母国語に訳したメモなどを使い、
研鑽 ( けんさん )、 を積んできた。
「 単に、 文字として、
ひらがなを覚えるのは、 難しいが、
和歌の意味を理解することで、
情景が意目侍できるようになってきた 」、
と、 手応えを感じている。
競技かるたに熱中する女子高生を、
主人公にした漫画な、「 ちはやふる 」、
が、 働漫化され、 海外でも、
配信されたのが、 きっかけとなり、
かるた人気に、火が付いた❗ 。
黄さんも、 漫画を読んで、
かるたの魅力に取りつかれた。
競技かるたで読み上げられるのは、
小倉百人一首の和歌だが、
最初の数音で、 取り札を判断するため、
日本語が堪能ではない外国人でも、
楽しみ得ることも、 普及の背景にある。
大津市によると、 米国、中国、タイでは、
愛好会が立ち上がり、 多くの国で、
選手が増えている。
日本で開催される大会に出場して、
段位を取得する人も増え、
列辺 レベ 、 が上がっている、 という。
競技かるたの海外での普及、での、
第一人者で、10カ国以上で、
かるたを紹介してきた、 米国に在住の、
日本人、な、 ストーン睦美さん
( 56 )、 は、
「 読みあげられる瞬間、
日本の選手が、 聞き取りにくい、 子音を、
すばやく感知して、動き出せるので、
コンマ数秒の駆け引きで、
有利になることもある 」 、
と、 指摘する。
百人一首の巻頭歌を詠んだ、
天智天皇を祭る、 近江神宮は、
かるたの聖地として知られる。
「 ちはやふる 」、 の舞台にもなった、
ことで、 国の内外から、 和阿 ワー ;
ファン ; 、 が、
聖地への巡礼に訪れている。
大津市は、
「 かるたの魅力を知ってもらい、
大津への誘客のきっかけにしたい 」 ;
( 観光振興課 )、 と、 意気込んでいる。
◇
競技かるた 鎌倉時代の歌人、
藤原定家氏が、 京都は、小倉山にある、
知人の山荘の障子に張る、
色紙へ、書きつけるために、 集めた、
100首の和歌らが、 起源とされる。
かるたの形で普及したのは、江戸時代。
読み上げられる、 百人一首の、
上の句と対応した、 下の句の字札を、
いかに速く取るか、を、競う。
素早く、 激しい動きや、
対戦で求められる、 強い精神力と、
体力から、 「 畳の上の格闘技 」、
と、 呼ばれる。
☆ 『 鳥羽僧正、
絵の描き様問答の事 』 ;
鳥羽僧正という人は、比類なき、
絵の名手であったが、その下にも、
絵描きの好きな法師がいて、あまりに、
練習を重ねたものだから、最近は、
僧正にも、劣らないほどの、
絵描きになっていた。
僧正は、 ねたましくなり、 どうにかして、 失点を見つけ出してやろう、
と、 思っていた所で、 法師が、
手元に置いていた自信作の中に、
喧嘩の図があり、 相手に突き刺した、
刀の切っ先が、 拳ごと、
背中へ出ているのを見つけた。
これは、 いい失点と思った僧正、
早速、 法師へ、このことをあげつらう。
「 お前さん、 もう、 絵を描かぬ方が、
よかろう。 人を突いたから、といって、
拳まで、 背中に出るなんてことが、
あるものか。 ありもしないことだ。
こんな、 心ばせなら、
絵を描くべきではない 」。
すると、法師は、反論する。
「 そのことですが、 これは、
絵の故実、 というやつでして 」。
僧正、 相手が言い終わる前に、
文句を言う。
「 自分で決めた、 故実か。
片腹痛いわ 」 。
だが、 法師は、動じない。
「 私一人のものでは、御座いません。
昔の名人の描いた性交の図、
などを見てみますと、 性器の寸法は、
とても実在するものの大きさでは、
御座いません。 なんで、現実に、
あんな物が在る筈が御座いましょう。
ありのままを描いたら、 興ざめである、
からこそ、ああしたのです。
絵そらごと、とは、 絵だけが表現しうる、
もの故に、 言われている言葉です。
事実と異なる描写は、 貴方様の絵にも、
数多く見受けられますが 」 。
この様に、 臆することをなく、
言い放ったものだから、 僧正も、
正論だと感じ、黙ってしまった、 という。
◆m6VSXsNcBYte 2010/10/10 ( 日 ) ; 21:31:46 ;
『 福原大相国禅門のわかがみの事 』 ;
平清盛という人は、 若い頃は、 実に、
立派な評判をとった人であった。
折悪しく、苦々しいことをしでかした、
者がいても、 戯れであろうと思って、
とがめず、お愛想で、
つまらないことを言われても、
笑ってやった。
どんな誤りをし、物をぶちまけ、
呆れる真似をする者がいても、
今更に言っても、 詮の無いことである、
として、 声を荒げる様なことは、なかった。
冬の寒い頃には、 傍に控えている、
者たちを、 己の衣で覆ってやり、
朝早く目が覚めた時には、まだ、
寝ている者たちを起こさずにおき、
好きなだけ、寝させておいてやった。
召使の末端に位置している様な、
者であっても、 その身内がやって来た、
目の前では、 欠かせない人材である様に、
扱われたので、 そんな姿を、
身内に見せることが出来た者たちは、
大いに面目をほどこし、心から喜んだ。
こういう情け深い人であったから、
多くの者達が、心服したのだ。
ここでは、 若い頃の話とされており、
晩年は、 そうではなかったのか、
という話になりそうですが、
当時の因果応報の理から言うと、
善因が善果に、悪因が悪果になる筈なので、
晩年まで、 「 いい人 」、 であった、
ことにしてしまうと、
熱病や一門の滅亡、への、原因が、
より、 つかめなくなる、ので、 あえて、
若い頃は、 としたものでしょう。
この話が本当なら、 基本的な性格は、
変わらなかったのでは。
寝ている家来を起こさずにおく、
という話は、 伊達政宗氏や、
徳川家治氏にも、あります。
36: m6VSXsNcBYte 21:44:15 ;
『 上達部案内を頼む事 』 ;
鎌倉幕府の時代な、 天福 ;
( 1233 ~ 1234年 )の頃、
ある上達部 カンダチメ 、 が、
嵯峨の辺りに、 家を建てようと思い、
出歩いた末に、 大覚寺の池の辺りで、
破子を開いていた。
すると、 そこに、杖にすがった老僧が、
一人で歩いて来たので、これ幸いと、
周囲のことを訊ねてみると、 これが、
驚くほどに、詳しい。
喜んだ上達部は、 酒を勧めてみるが ;
( 当時の僧侶は、 慣習で、 飲んでおり、
俗人も、当然のこととしていた )、
珍しく、 断酒している、 と言って、
飲まない。
それならばと、 破子を勧めてみると、
斎 ; ( 午前中しか、 食事をしない、
僧の掟 ) 、 と言って、 受け取らない。
全くもって、 今時に、
珍しい清僧であった。
そこで、 上達部 カンダチメ 、
「 それでは、 後で、 必ず参れ。
馴染みになって、 嵯峨の案内を
頼もうではないか 」 、 と言い、
家と名を訊 タズ ねた。
すると、 老僧、 「 この辺の人は、
左府の入道、 と、 申しております 」
、 と言う。
それを聞いた上達部は、 肝をつぶし、
破子も食べずに、逃げ出した。
この老僧、 前 サキ 、 の、 左大臣藤原隆忠
( 当時 71~72歳 )、 氏の、
出家した姿であり、 当時は、
大覚寺 、 と号していた人物であった。
☆ 執権の母・松下禅尼 ;
相模守の、 北条時頼氏への母、
松下禅尼は、 あるときに、
時頼氏を自宅に招いた。
そのおり、禅尼は、 自ら、
障子の破れを切り貼りし、修理していた。
これを見た、 彼女の兄の、 安達義景氏が、
「 自分で直すことないんじゃない?、
器用な男がいるから、
そいつに任せようよ 」
、 と言った所で、 禅尼は、
「 その者だって、 私より、
上手ではないでしょう? 」
、と、返して、 張り替えを続けた。
そこで、 義景氏は、
「 替えるなら、全体を取り換えてしまえば、
楽だし、見栄えもいいのでは? 」
、 と、 重ねて申しあげると、 禅尼は 、
「 いずれ、そうするつもりですが、
今日は、 わざと、こうしているのです。
物は、 壊れたところを修理して使うものだ、
と、若い人に教えようと思っています 」
、と、答えた。
この松下禅尼の教育を受けた息子が、
幕政の安定と執権の権力の強化に奔走した、
北条経時・時頼氏な、兄弟だ。
49: 三浦の犬 ;
1213年、 鎌倉幕府にて、 政所別当を務めた、
重鎮、和田義盛氏が、
北條氏との政争の末に、追い詰められて、
乱を起こす。
世に言う、和田の乱だ。
義盛氏は、 和田一族のみならず、
横山党や波多野氏、に、三浦氏の筆頭格で、
従兄弟で、 友でもあった、
三浦義村氏の、 同心を得て、挙兵するが、
義村氏が、 土壇場で、 華麗に寝返り、
北條義時氏に通じ、 やがて、
和田氏側は、 敗れた。
そんな経緯があっての話なので、
これは、 それより後の話であろう。
ある年の正月に、 年賀の挨拶のために、
多くの御家人達が、
源氏な、 将軍の御所を訪れていた。
そんな中で、 三浦義村氏は、 早くから、
詰所に入り、 上座に座っていた。
ところが、 後からやってきた、
下総の千葉胤綱氏が、 堂々と、
多くの人々を無視すると、義村氏より、
上座に座りこんだのだ。
千葉胤綱氏は、 かなり若く、
この出来事の時は、 十代の後半から、
二十代の前半ほどだった。
年齢からいっても、 官職からいっても、
明らかな非礼を受け、 義村氏は、怒って、
「 下総の犬は、
己の居場所も知らぬか 」
、 と、 言い捨てた。
だが、 言われた胤綱氏は、
平然とした顔で、
「 三浦の犬は、 友を食いますな 」
、と、 返した。
和田の乱での、
義村氏の行為を皮肉ったのだ。
『 古今著聞 チョモン 集 』 、には、
この後のことは、 書かれていないが、
騒動になった、 という話が、
伝わっていないので、 何とか、
その場は、 収まったのであろう。
☆ 1333 一味散々、 な、
1333年に、 鎌倉幕府、 が、
後醍醐天皇軍の、 新田義貞氏の率いた、
軍勢によって、 滅ぼされた後の、
後醍醐帝側、 と、 足利氏側との、
南北朝の争乱が始まる直前に、
花園上皇が、 皇太子( 後の光厳天皇 )、
に、 心得として書き残した書があるが、
その中身を纏めると、 こんなもの。
・ あなたが、 帝となってから、
大規模な戦乱が起こるだろう。
・ しかし、その戦乱に対して、
後醍醐陛下のように、 武力で、
立ち向かうのではなく、
100年後のために、色々な屈辱に耐えて、
ひたすら、 「 真の学問 」、 に励め。
自分の後継者に対して、
「 これからの将来は、 悲惨だが、
ひたすら耐えろ 」、 なんて書く辺り、
本気で、 状況を悲観していたんだな、
と、思いますけど、現実は、
花園上皇の予言どおりに、ことが進む訳で。
かえすがえすも、 後醍醐天皇って、
京都の政界にとっても、鎌倉にとっても、
トラブル・メーカーだったんだな。
55: 2010/10/11 ( 月 ) 21:54:48 >>53 ;
というか、 鎌倉の末期には、 もう、
無視できないほどに、
社会矛盾が広がっていたのは、 間違いなく、
幕府も朝廷も、 有効な手を打てなかった、
のも、 間違いない。
後醍醐陛下以前に、 すでに、
執危 トラブ ; トラブル ;
、は、 全国で勃発していた。
後醍醐陛下は、 その社会矛盾の、
問題性への認識も、対策も持っていた。
これは、あの時代に、後醍醐陛下だけだった、
と、言っていい。
ただ、 色々な条件により、
その実行が、不可能だった。
56:
で、その実行が不可能な現実を、
認識して無かったんだよな。
57:
ジリ貧を避けようとして、ドカ貧になる、
な感じなんじゃないかな> 後醍醐陛下。
とにかく、やらなきゃ、駄目なんだ的な。
まあ、 後醍醐陛下がやらなくても、
誰かが、乱を起こしただろう。
58:
王莽みたいな人だったでしょう。 >
後醍醐陛下。
現実を理念に合せちゃ、いけません。
63:
有名な話だけど、 太平記より ;
暦応元年 ( 1338年 )、 の、
頃のことだそうだ。
この年の、 5月には、 北畠顕家氏、
閏7月には、 新田義貞氏が討死し、
翌年の8月には、 後醍醐帝が崩御。
南朝の勢力が甚だしく衰え、
南北朝の戦乱の終結も遠くない、
人々が、そう思っていた頃だ。
ある雨の日に、 一人の禅僧が、
仁和寺 ニンナジ 、 の、 六本杉で、
雨宿りをしていた。
すると、六本杉の上の方から、 なにやら、
ヒソヒソとした声が、聞こえる。
何事かと見ると、木の梢に人々が集い、
密談をしていた。
その中心は、 護良親王、彼を囲むように、
後醍醐帝の外戚、峰僧正春雅氏、
南都の知教上人、浄土寺の忠円僧正ら、
みなが、 南北朝の動乱の中で、
死んだ人々だ。
彼らが、 苦悶の表情で集合し、
密謀を行っていたのだ。
この謀議の中で、護良親王は、
足利直義氏の子として生まれ出ること、
峰僧正は、 夢窓疎石の同門である、
妙吉氏となって、 直義氏の政道、への、
補佐をすること、 知教氏は、
上杉重能・畠山直宗氏に乗り移り、
高師直・師泰兄弟を亡き者とすること、
逆に、 忠円氏は、 高師直・師泰兄弟の心に、
入れ替わって、 上杉・畠山氏を滅ぼすこと、
「 これによって尊氏・直義兄弟の仲は、
裂かれ、 天下大乱となり、 我等は、
怨念を晴らすことが出来るであろう❗ 」 。
この怪異があって、 およそ、 十年後の、
貞和4年 ( 1348年 ) 、に、
足利直義氏と、 高師直との対立より始まり、
南北朝の動乱をさらに長引かせ、かつ
複雑化させた、
『 観応の擾乱 』、 が起こる。
64:
観応の擾乱の前には、様々な怪異があった、
との記録が、 残されてるよね。
当時の、 世間の不安感や、
オカルティックな空気が、よくわかる。
71:
『 知足院殿鷹狩の事 』 ;
かつては、 弓矢を用い、馬に乗って、
大型の獣を宛てに、狩猟をしていた、
公家員らも、 十世紀以降は、
軍事貴族や、 非軍事貴族でありながら、
武を弄んだ、 一部の公家員らを除き、
狩り、 と言えば、 専ら、
鷹狩を行う様になっていた。
これは、 久安6年 ( 1150年 )、
8月20日、 藤原忠実氏が語った話だ。
「 最近は、 小鷹狩 ;
( 秋に、小鳥を捕える鷹狩 ) 、
が、 盛んであるな。
我も、 幼少の頃は、 大いに楽しんだもので、 中でも、 13~14歳 ( 約 50年前 )、
の頃には、 熱中しておったものだ。
ここから下った、 絵林 、という所で、
飛ばしたこともあったが、 その時は、
鳶が、 二羽で、 飛び上がって来てな。
互い違いに、 鷹が飛んで、 そのまま、
迷って、 下りて来て、
我の笠の上に乗った事があって、
哀れに思ったことよ。
その後の事よ、 『 宇治大納言物語 』
、を、 女房が読んでいるのを聞いたのは。
『 今は昔、 鷹狩を好んでいた男がいて、
ある時、 自身が、 雉 キジ 、 となり、
妻子と共に、 北山の小屋に宿っていたのに、
気づいた。 そのまま、 野辺に出て、
餌をついばんでいた所に、 人が来て、
鷹犬を放ち、自分たちを捕えようとする。
天にあっては、 鷹の爪を免れえず、
地にあっては、 犬の顎から逃れられず。
なんとか、 自分と、 残った一羽の子が、
叢 クサムラ 、 に逃げおおせた、
と思った時、 鷹に襲われて、
夢から覚めた。 男は、 飼っていた、
鷹犬を放つと、 そのまま、 出家した、
と、 語り伝えている 』。
この話を聞いた翌日の朝、
鷹を、 全てを、 空に放ったよ。
その後は、 やっておらん 」。
※ 『 宇治大納言物語 』……>>33の、
鳥羽僧正覚猷の父、 源隆国氏による、
編纂とされる説話集。
『 今昔物語集 』、 との関連性が、
推量されているが、中世に散逸して、
詳細は、不明。
☆ 白河天皇 ; Wikipedia ➕ ;
1053年 7月7日 ;
天喜元年 6月19日 〉-
1129年 7月24日 ;
大治4年 7月7日 ;
・・奔放な女性関係と併せて、
男色も好む傾向があり、 近臣として、
権勢を誇った藤原宗通氏、や、
北面武士の、 藤原盛重氏、と、
平為俊氏は、 いずれも、男色関係における、
愛人の出身、と、 いわれる。
☆ 天下三不如意 ;
『 平家物語 』、の巻一には、
白河法皇が、
「 賀茂河の水、 双六の賽、 山法師、
是ぞ、 わが心にかなわぬもの 」、
と、 嘆いた、 という、 逸話がある。
「 賀茂河の水 」、 とは、 古来から、
氾濫を繰り返す、 暴れ川として、
知られていた賀茂川が、 もたらす、
水害のこと。
「 双六の賽 ( さい ) 」、 とは、
盤双六の二つのサイコロらが出す、
「 賽の目 」、 のこと。
「 山法師 」、 とは、
勝手な理由にかこつけては、
日吉山王社の神輿を担いで、
都に雪崩れ込み、 強訴 ゴウソ 、
を繰り返した、 比叡山は、 延暦寺の、
僧衆 ( 僧兵 )、 のことだ。
法皇が、 この三つだけは、 どうしても、
思うようにならない、と、
愚痴をこぼすぐらいだ、 ということで、
やがて、これが、 「 天下三不如意 」、
として、 広く、 一般にも、
知られるようになった。
今日では、 これを、 白河法皇の権力は、
この三つ以外のものであれば、
何でも思い通りになる、と、 豪語するほど、
絶大なものだった、という、
逆説的な意味に取ることが、多い。
しかし、 「 賀茂河の水 」、は、
「 天災 」、「 双六の賽 」、は、
「 確率 」、 であって、 これらは、
誰が、 何をしようとしてみても、
そもそも、 思い通りになるものではない、
のに対し、
「 山法師 」、 の事は、 名目こそは、
「 神意 」、 による物であっても、
その実は、 「 政治 」、 に、
他ならなかった。
既成の優遇措置を、 朝廷が、
他の寺社にも与えようとしたり、
寄進された荘園を、 国司が、
横領しようとしたりするたびに、
延暦寺は、 山王社の暴れ神輿を盾に、
公卿らな百官を、 力で捻じ伏せていた。
白河帝は、 第70代の帝の、
後冷泉天皇の、 東宮・尊仁親王 ;
( 後三条天皇 )、 の、 第一皇子として、
生まれる。
母は、 茂子女史 、 外祖父の能信氏、
と、 ともに、 幼少の時に死別し、
父の尊仁親王は、 関白の、
藤原頼通に冷遇されていた。
明治元年の、 丁度、 8百年前、な、
治暦 4年 ( 千68年 ) 、に、
父なる帝の即位とともに、
親王宣下を受け、 貞仁親王となり、
延久 3年 ( 1071年 )、 に、
関白の、 藤原師実の養女な、
藤原賢子女史が参入した。
延久4年 ( 1072年)、に、
後三条帝から譲位され、 20歳で即位する。
関白は、 置いたが、 延久5年
( 1073年 )、の、
後三条上皇の病没の後も、
父と同様に、 親政を目指し、
荘園らへの整理などに、 力を入れ、
永保元年 ( 1081年 )、 に、
宇佐神宮の境内の地に、
神宝塔院を建立する、 等し、
摂関家の権勢を弱めることに努める。
また、 摂関家の内部でも、
関白の地位をめぐる藤原教通・信長父子と、
師実との対立があった。
父な、 後三条上皇と、その母である、
陽明門院は、 白河天皇の異母弟な、
実仁親王、更に、 その弟の、
輔仁親王へ、皇位を継がせる意志を持ち、
譲位の時に、 実仁親王を皇太弟と定めた。
白河天皇は、 これに反発したが、
生前の後三条上皇や、 他の、
反摂関家の貴族の意志もあり ;
( 白河天皇は、 関白の養女な、
賢子女史を、 中宮としており、
反摂関政治の立場としては、
好ましい状況ではなかった )、
これを認めざるを得なかった。
しかし、 応徳2年 ( 1085年 )、に、
実仁親王は、 薨去し、これにより、
応徳3年 ( 1086年 ) 11月、に、
白河天皇は、 輔仁親王ではなく、
実子である、 8歳の善仁親王 ;
( 第73代の、 堀河天皇 )、を、
皇太子に立て、 即日に、 譲位した。
堀河天皇の生母で、 白河天皇が寵愛した、
中宮な、 賢子女史は、
実仁親王の薨去の前年に、 若くして、
病没している。
太上天皇となった白河上皇は、
幼帝を後見するために、自ら、政務を執り、
いわゆる、 『 院政 』、 が出現した。
以後も、引き続き、摂政関白は置かれたが、
その実態は、 次第に、
名目上の存在に近いものとなってゆく。
ただし、白河上皇は、 当初から、
強い権力を有していたわけではなかった。
天皇に在位中からの摂関であった、
藤原師実とは、 協調を図っており、
師実も、争いを好まなかったこともあって、
実際の政策の決定への過程において、
親政期、 及び、 院政の初期には、
摂関政治と、大きな違いはなかった ;
( 師実は、 摂政、もしくは、大殿として、
白河上皇の院庁の人事や、
御所の造営にまで、 深く関与していた )。
早々に、退位したのは、 実子の、
善仁親王への譲位が、 目的であり、
善仁親王の母親は、 師実の養女な、
賢子女史であり、 後三条天皇の在位期間を、
例外として、再び、 2代を続けて、
藤原氏員が、 天皇家への外戚となり、
これは、 実際には、
摂関政治への回帰だった、 と言える。
堀河天皇が成人すると、
上皇の政治への介入に反発する、
関白な、藤原師通とともに、
親政を図って、 一時は、 成功していた、
時期もあったが、 幼い帝への後見、
という、 目的を果たしたことや、
後述のように、 出家したこともあって、
白河法皇も、 これを許容していた。
それが、大きく転換したのは、
師通の急逝による、 摂関家の内部の混乱と、
それに続く、 堀河天皇の崩御、
その皇子で、 白河法皇の孫である、
第74代の、 鳥羽天皇の即位が、
契機であった、 と、 考えられている。
摂関政治の機能ほ停止に伴って、
父院である、 白河法皇が、
摂関に替わる、 天皇、への、
補佐機能を行うようになり、 更に、
堀河天皇の崩御に伴う、 幼い帝 ;
( 鳥羽天皇 )、 の、 再出現と、
政治的に未熟な若い摂政 ;
( 藤原忠実 )、 の登場によって、
結果的に、 権力が集中した、
と、 考えられている。
永久元年 ( 1113年 )、 に発生した、
と、される、 永久の変において、
なお、 期待されていた、
輔仁親王を没落に追い込んだ。
政治的な権限を掌握した白河法皇は、
受領階級や、 武家の出身の、
院近臣を用いて、専制的な政治を行った。
特に、 叙位・除目 ジモク 、に、
大きく介入し、人事権を掌握する。
鳥羽天皇の践祚後の、 最初の除目である、
嘉承3年の正月の除目では、
近習の多くを、 実入りの多い、
国の受領に任じた。
藤原宗忠は、 その態度を、
「 今太上天皇の威儀を思ふに、 已に、
人主に同じ。 就中、わが上皇
已に専政主也 」、 と、 評している。
この除目以降、 院の人事への介入は、
「 任人折紙 」( にんじんおりがみ )、
という、 非公式の文書を、
天皇や摂政に渡すことで行われた。
武士は、 院への警護役として創設した、
北面武士などにあてた。
特に、 康和4年 ( 1102年 )、と、
保安元年 ( 1120年、 保安元年の政変 )、
の、 2度にわたって、
藤原忠実の職権を停止したことは、
摂関の権威性の低下ぶりを、
内外に見せ付けることになった。
更に、 実仁親王の立太子を巡る教訓から、
堀河・鳥羽・崇徳陛下、への、
異母兄弟に対しては、
親王宣下も、 臣籍への降下も、認めずに、
出家させて、 皇位継承権を剥奪した ;
( 法親王制度の創設は、 彼らへの、
慰藉の側面もある。 なお、
崇徳陛下への異母弟である、
近衛天皇の誕生は、白河法皇の没後 )。
また、 賢子女史との間の、 第一皇女、な、
媞子内親王へ、 深い鍾愛を注ぎ、
幼い帝の立場を強化する意味合いもあって、
媞子内親王を、 堀河天皇、への、
母に準ずる存在な、 准母 、 とし、
中宮に立后させた。
非配偶の后 ( 尊称 皇后 )、 の、
始めである。
また、 自分の従兄であり、
藤原公実の遺児である、 藤原璋子女史を、
養女として育て、後に、
鳥羽天皇への中宮として、 その子を、
崇徳天皇として即位させた。
崇徳天皇は、 系譜的な外祖父は、
公実氏であるが、 現実の外祖父は、
故人である、 公実氏ではなく、
璋子女史、への、 養父の、
白河法皇であり、法皇も、
天皇への外祖父として、儀式に関与する、
などの役割を果たしている。
熱心に、 仏教を信じ、 嘉保3年
( 1096年 )、 には、 鍾愛する皇女
・媞子内親王の病没を機に、 出家し、
法名を、 融観として、 法皇となった。
また、 法勝寺、 などの、多くの、
寺院や仏像をつくらせたが、 その経済力は、
受領のものを活用し、 成功が、
より、一層と、 横行するようになった。
堀河天皇の崩御の後は、自らの孫である、
第74代の、 鳥羽天皇、更に、 曾孫の、
第75代の、 崇徳天皇と、 3代にわたって、
幼い主を擁し、 43年間にわたり、
院政を敷いた。
天皇の王権を超越した、
政治権力を行使する、 こうした、
「 天皇家の家督 」、 のことを、
後世では、 「 治天の君 」、
と、 呼ぶようになる。
大治4年 7月7日 ( 1129年 7月24日 )、
に、 77歳で崩御した。
80: 『 後藤内軍物語の事 』 ;
白河院の御代。 天喜5年の、 11月の、
合戦において、 源頼義氏に付き従った、
六騎の中にいた、 藤原則明氏、
通称は、 後藤内は、 既に、老齢であったが、
院の御召に従い、往年の合戦を物語る、
大役を仰せ付かっていた。
そこで、 まず、言うには、
「 故頼義朝臣の鎮守府をたちて、
秋田城へつき侍りし時、 薄雪降り侍りしに、
軍のをのこども 」、
と、 ここまで言った時、
院より、お言葉があった。
「 うむ、もう宜 ヨロ しい。
幽玄なる情景が浮かんで参った。 もう、
これ以上は、不要 」 。
そうして、衣を下賜された、
ということだ。
82: しかし、 今も昔も、 合戦話が、
人気だ、 ということは、 分かったが、
まさか、 情景だけで、 衣をくれる、
とは、思わなかっただろうなw。
85: >>82 ; 俺、ご老体が、
長い長い思い出話の、 エンジンをかけた、
のを察して、辟易したから、
「 もうイイよ、もうイイよ、
ご苦労さん、ありがとう 」、
したのか、と、思っちゃったw。
70: 楠木正成氏の話、
籠城戦とかないですか? 、
敵兵に向かって、 糞尿をかけた、
とか、 そんなの ;
81: >>70 ; 正成氏が、
尻を剥き出しにして、
糞しようとしたんだって。
ところが、ぢで、 正成氏の方が、
悲鳴をあげて、 引っ込んで、
鎌倉方の失笑を買ったそうだ。
83: 手術のできない昔 。
進行した痔への治療法は、存在しない。
生き地獄だっただろうな。
87: 痔は、苦しいな、
自然治癒とかも、 当時では、
長引きそうだし。
≒ あるべき、 代謝員ら、への、
あるべき、 度合いら、での、
摂取ら、 が、 必要だが、
当時は、 今の世でのように、
卵ら、 などを、 好き放題に、
食べられる訳では、なかったろうから、
治せないままで、
湊川の戦いに臨んだのかも知れない。
88: >>87 ; ウンコした時に、
痛みを感じる列辺になると、
自然治癒は、 不可能。
切るしかない。
戦前の徴兵検査でも、 痔だと、
不合格になるほどに、 怖ろしい病。
90: 痔で入院したことあるけど、
悪化すると、
ピクリとも、動けなくなるよ。
気が狂って、 おかしくなっても、
不思議じゃない。
☆ 三橋貴明氏❗ ;
国債発行と長期的な国土強靭化計画を❗ ;
2019-10-13 7:49:47
三橋貴明オフィシャルブログ
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『現代貨幣理論入門ー税金の真実ー(前半)』
三橋貴明 AJER2019.9.24
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世界経済の行方 [ 桜R1/10/12 ]」
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多摩川が、氾濫・・・。
『東京、埼玉、神奈川など8都県で
氾濫確認 各地で緊急放流、浸水の恐れ
台風19号の接近に伴う大雨となった12日、
関東や東海、東北地方を中心に
河川の流量が増えたり、
複数のダムで放水されたりして、
水位が急上昇した。
午後9時現在、東京、埼玉、神奈川、
宮城、栃木、福島、長野、静岡の
8都県で氾濫が確認された。
気象庁などによると、午後8時半までに、
多摩川▽荒川▽相模川中流▽
入間川流域▽菊川▽宇多川――など
16の河川が、 氾濫危険水位に到達。
最悪のレベル5に次ぐ、 レベル4にあたる、
「氾濫危険情報」が発出された。
東京や神奈川、埼玉、静岡などで
大規模な浸水被害の恐れが高まった。
午後5時ごろには
静岡県菊川市神尾の牛渕川が氾濫した。
住宅被害は、確認されていない。
同6時40分ごろには、
埼玉県東松山市葛袋の都幾川で
水が堤防を越えた。
国土交通省関東地方整備局が
被害の状況を調べている。
多摩川では、 同3時40分ごろ、
東京都調布市の観測所で
氾濫危険水位に達した。
都によると、奥多摩町の小河内ダムは
大雨で水位が上昇したため、同6時から
下流の多摩川に流す水量を増加した。
また、相模原市緑区の城山ダムでも
午後9時半、神奈川県が緊急放流を始めた。
相模川など、 流域の河川で
水位が急上昇する恐れとなった。(後略)』
多摩川のみならず、千曲川、荒川、
入間川、牛渕川、宇田川、阿武隈川、
吉田川 、 など、
長野県から、 東北地方に至る地域で、
多くの河川が、氾濫❗。
個人的は、やはり、なじみ深い二子玉で
多摩川が溢れたのが、ショックです。
世田谷区の世田谷記念病院では、
1階部分に水が押し寄せ、一時は
胸の高さまで来た。
川崎の溝野口のマンションでは、
マンションの1階に住んでいた方が
「浸水」により、亡くなりました。
自然災害からは、誰も逃れられない。
安全なところなど、どこにもない。
偶々、今回の台風19号では
被災者にならなかったとしても、
次の大震災のときは、
どうなるかは、分からない。
自然災害が多発する、我が国では、
災害発生後の国民の「助け合い」無しでは
生き延びることが、できない。
それにも関わらず、我が国では
グローバリズムによる
「国民の分断」が進み、政府は
「小さな政府」を善として、
国家の店じまいを進めている。
災害列島で、自己責任が蔓延する
という、信じがたい状況で
我々は、生きることを
余儀なくされているのです。
【歴史音声コンテンツ 経世史論】
http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/
※10月1日から、長浜浩明先生の
特別コンテンツ
「日本人はどこから来たのか?」が
視聴可能となりました。
今回の災害を受け、政治では
「一時的」に防災が注目されるでしょうが、
それだけです。恐らく、
「予備費から予算をつける」
で、終り。
建設国債の発行❗ 、 という、
至極真っ当な施策は、誰も言い出さず、
誰も議論せず、
誰も推進しない。
あるいは、防災予算を増やすとして、
「ならば、防衛費を削ろう」
「ならば、社会保障を削ろう」
「ならば、増税。防災増税」
などと、頭の狂ったことを言い出すのが、
日本の政治です。
違う。必要なのは、
「 追加的な予算 」、 であり、
国民の生命や安全を守るために、
「 貨幣 ( = 国債 ) 」、を、
普通に発行しろ❗ 、
という、話なのです。
普通の話が通らないのが、我が国です。
今回の災害にしても、 一か月もすれば、
みんなが、忘れてしまい、
「 防災? 国土強靭化? そんな、
カネねえだろ 」
、と、 相変わらずの、 緊縮脳で、
残酷、残忍なことを語りだすのが
日本の政治家、そして、
反日側な、国民らのスタンダードなのです。
いい加減にしましょう。
日本の政治家に、わずかでも、
「国民のために」、という、
矜持が残っているならば、
普通の政策をしてください。
国民の生命や安全を守るために、
建設国債による補正予算を組むのです。
さらには、長期的な国土強靭化計画と、
「予算」をコミットし、
散々に痛めつけられた、
土木・建設の供給能力を回復する❗。
それ以外に、我々が、
「安全」を手に入れる手段は、
ないのです。
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☆ ガン細胞たちは、
ブドウ糖だけ、 を、
唯一の、主な、栄養分としてあり、
糖質を制限する事を含む、
ビタミン・ケトン療法は、
ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、
ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。
タンパク質たち、と、
ビタミン、たち、に、
ミネラル 、たち、を、 完全以上に、
飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、
一部の人々を除いた、
ほとんどの人々の健康性を成し続ける、
代謝ら、を、
完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、
これら、を、 より、 欠いてしまう事は、
万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、
より、 余計に、 成す事を意味する。
☆ Cancer cells
Only glucose,
As the only main nutrient,
Including restricting carbohydrates,
Vitamin / ketone therapy
Even if
you make cancer cells attack soldiers,
This will reduce
the possible degree of cancer.
With proteins,
Vitamins,
Minerals, more than complete,
Drink and eat, keep taking,
Excluding some people,
Keeps the health of most people,
Metabolism,
It ’s necessary to continue
to do more than perfect,
The more you miss these things,
Cause all kinds of illness,
possible degree,
More than that, it means to do it.
☆ いずれにせよ、
日本人たちは、 より早くに、
日本人たちの足元の、 地下へ、
より、 どこからでも、
より、 速やかに、 落ちついて、
歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、
公共事業らを成す事により、
日本の、 財務省の役人ら、と、
与野党の、 主な政治家らとが、
英米のカネ貸しらの主張する事らを、
そのまま、自らもまた、
オウム返しにして、主張し、
実行もする事において、
日本政府の財政における 、緊縮 、
を、 繰り返し、 成す事を通して、
彼らへの、 主 アルジ の立場にある、
日本の主権者としてある、日本人たちへ、
物価だけではなく、
その労働らへの賃金らの水準へも、
より、 押し下げる向きへ圧力をかける、
要因らの系である、
デフレ不況性 、を、
押し付け続けて来てある、
その、 デフレ不況性 、を、
解消し去ってゆく、 と共に、
日本人たちの防衛性の度合いを、
飛躍的にも高めてゆくべき、
ぎりぎりの状況にも、 ある 。
地上を襲い、 地上をおおい得る、
あり得る、 災害らへ対して、
地上に、 避難所らや、
避難経路らを設定して、
日本の主権者たちを、
それらへ誘導する事は、
人食い虎どもの住む、 密林へ、
わざわざ、 人々を誘導する事に類する、
行為であり、
日本の主権者としてある、
日本人たちの一般 、へ対して、
個々の日本国民においても、
執事なり、 召し使いなりの立場にある、
公務員などの、 者らにおいても、
成す事が、 許されない 、
行為なり、 態度なり、 であり、
日本人たちの一般の、 あり得る、
福利ら、を、 より、 能くも、
最大限にも、 成す事を、 約束して、
日本の社会に、 存在し、 存続する事を、
日本国民たちの一般から、 許されてある、
筋合いにある者としての、 義務 、 に、
違反性を成す、 行為であり、
それが、 作為型では、 無く 、
無知性と痴愚性とにもよる、
不作為型の、 行為なり、 態度なり、
であっても、
それへの責めを負うべき、 筋合いを、
その主らの側に、 成すものである事に、
変わりは、 無い。
和歌ら❗ ;
☆ 胸に乳房が表現された女性、
と、みられる、 人物の刻まれた、土器片❗ ;
奈良県は、 田原本町と天理市にまたがり、
弥生時代の集落跡と墓跡が確認された、
清水風 ( しみずかぜ ) 遺跡で、
胸に乳房が表現された女性とみられる、
人物の刻まれた土器片 ;
( 紀元前1世紀ごろ )、 が、 みつかった。
町教育委員会が、 9日に発表した。
乳房が表現された、 弥生時代の、
絵画土器への発見は、 初めて。
この女性を、 霊的な力を持つシャーマン ;
( 宗教的職能者 ) ;
呪員 ジュイン ; 、
とする、 見方もあり、
農耕祭祀 ( さいし )、 での、
女性の役割を探る、 貴重な資料として、
注目される。
町教委によれば、 土器片は、
最大の幅が、 16 センチ 、
高さ、 が、 12 センチ 、 で、
大形の甕 ( かめ ) ; ミカ ;
、の口から、 胴にかけての、 部分、
と、 みられる。
5~6月に、 約 40平方メートルを調査し、
弥生の中期の川跡から、出土した。
両手を広げ、 手の指は、5本。
顔に、 目と鼻、や、 口、に、 まゆ毛、と、
羽のような袖や、 二つの乳房らも、
表現されている。
絵画土器は、 10日~12月1日、
町内の唐古・鍵考古学ミュージアム ;
( 月曜は、 休館、 祝日の場合は、
翌日に、 休館 )、 で展示される。
問い合わせは、 町教委文化財保存課へ。
( 岡田 匠 記者 )
@ かつては、あった ;
君が代 、の、 二番 ;
( 藤原俊成氏の作詞 ) ;
君が代は 千代とも鎖さじ 天の戸や
出づる月日の 果てし無ければ ;
同じく、 三番 ;
( 源頼政氏の作詞 ) ;
君が代は 千尋の底の さざれ石の
鵜の居る磯と 現わるるまで・・。
・・さざれ石は、 本当に、
くっついて、大きくなる。
☆ 「 かるたの聖地 」、 として、
知られる、 近江神宮 ( 大津市 )、で、
11月3日に、 世界初の、
競技かるた国別対抗団体戦が開かれる。
競技かるたに青春をかける、
女子高生の姿を描いた漫画 ;
「 ちはやふる 」、 の、 働漫 ドマン ;
アニメ ; 、 版が、
海外でも、放映され、
かるた人気が、 国外でも高まる中で、
競技かるたの魅力を世界に発信しようと、
大津市などが企画。
米国やイタリアなどの、
7カ国のチームのほか、に、
日本代表な、 2チームと、
留学生チームの、 計して、
10チームが参加して、腕を競う。
世界一を決める一戦を控え、
外国人な選手らも、 熱のこもった、
練習を繰り広げている。
( 杉森 尚貴 記者 ) ;
「 バンッ❗ 」 。 畳をたたく音が、
張り詰めた空気を切り裂く。
10月の下旬に、 大会の会場な、
近江神宮では、
「 大津あきのた会 」、 に所属する、
かるた愛好家に交じって、
練習に励む、 留学生選手の姿があった。
留学生チームの面葉として出場する、
立命館大の、 大学院の、経営学研究科の、
2年、黄馨永 ( コウ・シンヨン )、さん
; ( 25 )、も、 その1人だ。
台湾の出身で、 7月に、
かるたを始めたばかりだが、
和歌を母国語に訳したメモなどを使い、
研鑽 ( けんさん )、 を積んできた。
「 単に、 文字として、
ひらがなを覚えるのは、 難しいが、
和歌の意味を理解することで、
情景が意目侍できるようになってきた 」、
と、 手応えを感じている。
競技かるたに熱中する女子高生を、
主人公にした漫画な、「 ちはやふる 」、
が、 働漫化され、 海外でも、
配信されたのが、 きっかけとなり、
かるた人気に、火が付いた❗ 。
黄さんも、 漫画を読んで、
かるたの魅力に取りつかれた。
競技かるたで読み上げられるのは、
小倉百人一首の和歌だが、
最初の数音で、 取り札を判断するため、
日本語が堪能ではない外国人でも、
楽しみ得ることも、 普及の背景にある。
大津市によると、 米国、中国、タイでは、
愛好会が立ち上がり、 多くの国で、
選手が増えている。
日本で開催される大会に出場して、
段位を取得する人も増え、
列辺 レベ 、 が上がっている、 という。
競技かるたの海外での普及、での、
第一人者で、10カ国以上で、
かるたを紹介してきた、 米国に在住の、
日本人、な、 ストーン睦美さん
( 56 )、 は、
「 読みあげられる瞬間、
日本の選手が、 聞き取りにくい、 子音を、
すばやく感知して、動き出せるので、
コンマ数秒の駆け引きで、
有利になることもある 」 、
と、 指摘する。
百人一首の巻頭歌を詠んだ、
天智天皇を祭る、 近江神宮は、
かるたの聖地として知られる。
「 ちはやふる 」、 の舞台にもなった、
ことで、 国の内外から、 和阿 ワー ;
ファン ; 、 が、
聖地への巡礼に訪れている。
大津市は、
「 かるたの魅力を知ってもらい、
大津への誘客のきっかけにしたい 」 ;
( 観光振興課 )、 と、 意気込んでいる。
◇
競技かるた 鎌倉時代の歌人、
藤原定家氏が、 京都は、小倉山にある、
知人の山荘の障子に張る、
色紙へ、書きつけるために、 集めた、
100首の和歌らが、 起源とされる。
かるたの形で普及したのは、江戸時代。
読み上げられる、 百人一首の、
上の句と対応した、 下の句の字札を、
いかに速く取るか、を、競う。
素早く、 激しい動きや、
対戦で求められる、 強い精神力と、
体力から、 「 畳の上の格闘技 」、
と、 呼ばれる。
☆ 『 鳥羽僧正、
絵の描き様問答の事 』 ;
鳥羽僧正という人は、比類なき、
絵の名手であったが、その下にも、
絵描きの好きな法師がいて、あまりに、
練習を重ねたものだから、最近は、
僧正にも、劣らないほどの、
絵描きになっていた。
僧正は、 ねたましくなり、 どうにかして、 失点を見つけ出してやろう、
と、 思っていた所で、 法師が、
手元に置いていた自信作の中に、
喧嘩の図があり、 相手に突き刺した、
刀の切っ先が、 拳ごと、
背中へ出ているのを見つけた。
これは、 いい失点と思った僧正、
早速、 法師へ、このことをあげつらう。
「 お前さん、 もう、 絵を描かぬ方が、
よかろう。 人を突いたから、といって、
拳まで、 背中に出るなんてことが、
あるものか。 ありもしないことだ。
こんな、 心ばせなら、
絵を描くべきではない 」。
すると、法師は、反論する。
「 そのことですが、 これは、
絵の故実、 というやつでして 」。
僧正、 相手が言い終わる前に、
文句を言う。
「 自分で決めた、 故実か。
片腹痛いわ 」 。
だが、 法師は、動じない。
「 私一人のものでは、御座いません。
昔の名人の描いた性交の図、
などを見てみますと、 性器の寸法は、
とても実在するものの大きさでは、
御座いません。 なんで、現実に、
あんな物が在る筈が御座いましょう。
ありのままを描いたら、 興ざめである、
からこそ、ああしたのです。
絵そらごと、とは、 絵だけが表現しうる、
もの故に、 言われている言葉です。
事実と異なる描写は、 貴方様の絵にも、
数多く見受けられますが 」 。
この様に、 臆することをなく、
言い放ったものだから、 僧正も、
正論だと感じ、黙ってしまった、 という。
◆m6VSXsNcBYte 2010/10/10 ( 日 ) ; 21:31:46 ;
『 福原大相国禅門のわかがみの事 』 ;
平清盛という人は、 若い頃は、 実に、
立派な評判をとった人であった。
折悪しく、苦々しいことをしでかした、
者がいても、 戯れであろうと思って、
とがめず、お愛想で、
つまらないことを言われても、
笑ってやった。
どんな誤りをし、物をぶちまけ、
呆れる真似をする者がいても、
今更に言っても、 詮の無いことである、
として、 声を荒げる様なことは、なかった。
冬の寒い頃には、 傍に控えている、
者たちを、 己の衣で覆ってやり、
朝早く目が覚めた時には、まだ、
寝ている者たちを起こさずにおき、
好きなだけ、寝させておいてやった。
召使の末端に位置している様な、
者であっても、 その身内がやって来た、
目の前では、 欠かせない人材である様に、
扱われたので、 そんな姿を、
身内に見せることが出来た者たちは、
大いに面目をほどこし、心から喜んだ。
こういう情け深い人であったから、
多くの者達が、心服したのだ。
ここでは、 若い頃の話とされており、
晩年は、 そうではなかったのか、
という話になりそうですが、
当時の因果応報の理から言うと、
善因が善果に、悪因が悪果になる筈なので、
晩年まで、 「 いい人 」、 であった、
ことにしてしまうと、
熱病や一門の滅亡、への、原因が、
より、 つかめなくなる、ので、 あえて、
若い頃は、 としたものでしょう。
この話が本当なら、 基本的な性格は、
変わらなかったのでは。
寝ている家来を起こさずにおく、
という話は、 伊達政宗氏や、
徳川家治氏にも、あります。
36: m6VSXsNcBYte 21:44:15 ;
『 上達部案内を頼む事 』 ;
鎌倉幕府の時代な、 天福 ;
( 1233 ~ 1234年 )の頃、
ある上達部 カンダチメ 、 が、
嵯峨の辺りに、 家を建てようと思い、
出歩いた末に、 大覚寺の池の辺りで、
破子を開いていた。
すると、 そこに、杖にすがった老僧が、
一人で歩いて来たので、これ幸いと、
周囲のことを訊ねてみると、 これが、
驚くほどに、詳しい。
喜んだ上達部は、 酒を勧めてみるが ;
( 当時の僧侶は、 慣習で、 飲んでおり、
俗人も、当然のこととしていた )、
珍しく、 断酒している、 と言って、
飲まない。
それならばと、 破子を勧めてみると、
斎 ; ( 午前中しか、 食事をしない、
僧の掟 ) 、 と言って、 受け取らない。
全くもって、 今時に、
珍しい清僧であった。
そこで、 上達部 カンダチメ 、
「 それでは、 後で、 必ず参れ。
馴染みになって、 嵯峨の案内を
頼もうではないか 」 、 と言い、
家と名を訊 タズ ねた。
すると、 老僧、 「 この辺の人は、
左府の入道、 と、 申しております 」
、 と言う。
それを聞いた上達部は、 肝をつぶし、
破子も食べずに、逃げ出した。
この老僧、 前 サキ 、 の、 左大臣藤原隆忠
( 当時 71~72歳 )、 氏の、
出家した姿であり、 当時は、
大覚寺 、 と号していた人物であった。
☆ 執権の母・松下禅尼 ;
相模守の、 北条時頼氏への母、
松下禅尼は、 あるときに、
時頼氏を自宅に招いた。
そのおり、禅尼は、 自ら、
障子の破れを切り貼りし、修理していた。
これを見た、 彼女の兄の、 安達義景氏が、
「 自分で直すことないんじゃない?、
器用な男がいるから、
そいつに任せようよ 」
、 と言った所で、 禅尼は、
「 その者だって、 私より、
上手ではないでしょう? 」
、と、返して、 張り替えを続けた。
そこで、 義景氏は、
「 替えるなら、全体を取り換えてしまえば、
楽だし、見栄えもいいのでは? 」
、 と、 重ねて申しあげると、 禅尼は 、
「 いずれ、そうするつもりですが、
今日は、 わざと、こうしているのです。
物は、 壊れたところを修理して使うものだ、
と、若い人に教えようと思っています 」
、と、答えた。
この松下禅尼の教育を受けた息子が、
幕政の安定と執権の権力の強化に奔走した、
北条経時・時頼氏な、兄弟だ。
49: 三浦の犬 ;
1213年、 鎌倉幕府にて、 政所別当を務めた、
重鎮、和田義盛氏が、
北條氏との政争の末に、追い詰められて、
乱を起こす。
世に言う、和田の乱だ。
義盛氏は、 和田一族のみならず、
横山党や波多野氏、に、三浦氏の筆頭格で、
従兄弟で、 友でもあった、
三浦義村氏の、 同心を得て、挙兵するが、
義村氏が、 土壇場で、 華麗に寝返り、
北條義時氏に通じ、 やがて、
和田氏側は、 敗れた。
そんな経緯があっての話なので、
これは、 それより後の話であろう。
ある年の正月に、 年賀の挨拶のために、
多くの御家人達が、
源氏な、 将軍の御所を訪れていた。
そんな中で、 三浦義村氏は、 早くから、
詰所に入り、 上座に座っていた。
ところが、 後からやってきた、
下総の千葉胤綱氏が、 堂々と、
多くの人々を無視すると、義村氏より、
上座に座りこんだのだ。
千葉胤綱氏は、 かなり若く、
この出来事の時は、 十代の後半から、
二十代の前半ほどだった。
年齢からいっても、 官職からいっても、
明らかな非礼を受け、 義村氏は、怒って、
「 下総の犬は、
己の居場所も知らぬか 」
、 と、 言い捨てた。
だが、 言われた胤綱氏は、
平然とした顔で、
「 三浦の犬は、 友を食いますな 」
、と、 返した。
和田の乱での、
義村氏の行為を皮肉ったのだ。
『 古今著聞 チョモン 集 』 、には、
この後のことは、 書かれていないが、
騒動になった、 という話が、
伝わっていないので、 何とか、
その場は、 収まったのであろう。
☆ 1333 一味散々、 な、
1333年に、 鎌倉幕府、 が、
後醍醐天皇軍の、 新田義貞氏の率いた、
軍勢によって、 滅ぼされた後の、
後醍醐帝側、 と、 足利氏側との、
南北朝の争乱が始まる直前に、
花園上皇が、 皇太子( 後の光厳天皇 )、
に、 心得として書き残した書があるが、
その中身を纏めると、 こんなもの。
・ あなたが、 帝となってから、
大規模な戦乱が起こるだろう。
・ しかし、その戦乱に対して、
後醍醐陛下のように、 武力で、
立ち向かうのではなく、
100年後のために、色々な屈辱に耐えて、
ひたすら、 「 真の学問 」、 に励め。
自分の後継者に対して、
「 これからの将来は、 悲惨だが、
ひたすら耐えろ 」、 なんて書く辺り、
本気で、 状況を悲観していたんだな、
と、思いますけど、現実は、
花園上皇の予言どおりに、ことが進む訳で。
かえすがえすも、 後醍醐天皇って、
京都の政界にとっても、鎌倉にとっても、
トラブル・メーカーだったんだな。
55: 2010/10/11 ( 月 ) 21:54:48 >>53 ;
というか、 鎌倉の末期には、 もう、
無視できないほどに、
社会矛盾が広がっていたのは、 間違いなく、
幕府も朝廷も、 有効な手を打てなかった、
のも、 間違いない。
後醍醐陛下以前に、 すでに、
執危 トラブ ; トラブル ;
、は、 全国で勃発していた。
後醍醐陛下は、 その社会矛盾の、
問題性への認識も、対策も持っていた。
これは、あの時代に、後醍醐陛下だけだった、
と、言っていい。
ただ、 色々な条件により、
その実行が、不可能だった。
56:
で、その実行が不可能な現実を、
認識して無かったんだよな。
57:
ジリ貧を避けようとして、ドカ貧になる、
な感じなんじゃないかな> 後醍醐陛下。
とにかく、やらなきゃ、駄目なんだ的な。
まあ、 後醍醐陛下がやらなくても、
誰かが、乱を起こしただろう。
58:
王莽みたいな人だったでしょう。 >
後醍醐陛下。
現実を理念に合せちゃ、いけません。
63:
有名な話だけど、 太平記より ;
暦応元年 ( 1338年 )、 の、
頃のことだそうだ。
この年の、 5月には、 北畠顕家氏、
閏7月には、 新田義貞氏が討死し、
翌年の8月には、 後醍醐帝が崩御。
南朝の勢力が甚だしく衰え、
南北朝の戦乱の終結も遠くない、
人々が、そう思っていた頃だ。
ある雨の日に、 一人の禅僧が、
仁和寺 ニンナジ 、 の、 六本杉で、
雨宿りをしていた。
すると、六本杉の上の方から、 なにやら、
ヒソヒソとした声が、聞こえる。
何事かと見ると、木の梢に人々が集い、
密談をしていた。
その中心は、 護良親王、彼を囲むように、
後醍醐帝の外戚、峰僧正春雅氏、
南都の知教上人、浄土寺の忠円僧正ら、
みなが、 南北朝の動乱の中で、
死んだ人々だ。
彼らが、 苦悶の表情で集合し、
密謀を行っていたのだ。
この謀議の中で、護良親王は、
足利直義氏の子として生まれ出ること、
峰僧正は、 夢窓疎石の同門である、
妙吉氏となって、 直義氏の政道、への、
補佐をすること、 知教氏は、
上杉重能・畠山直宗氏に乗り移り、
高師直・師泰兄弟を亡き者とすること、
逆に、 忠円氏は、 高師直・師泰兄弟の心に、
入れ替わって、 上杉・畠山氏を滅ぼすこと、
「 これによって尊氏・直義兄弟の仲は、
裂かれ、 天下大乱となり、 我等は、
怨念を晴らすことが出来るであろう❗ 」 。
この怪異があって、 およそ、 十年後の、
貞和4年 ( 1348年 ) 、に、
足利直義氏と、 高師直との対立より始まり、
南北朝の動乱をさらに長引かせ、かつ
複雑化させた、
『 観応の擾乱 』、 が起こる。
64:
観応の擾乱の前には、様々な怪異があった、
との記録が、 残されてるよね。
当時の、 世間の不安感や、
オカルティックな空気が、よくわかる。
71:
『 知足院殿鷹狩の事 』 ;
かつては、 弓矢を用い、馬に乗って、
大型の獣を宛てに、狩猟をしていた、
公家員らも、 十世紀以降は、
軍事貴族や、 非軍事貴族でありながら、
武を弄んだ、 一部の公家員らを除き、
狩り、 と言えば、 専ら、
鷹狩を行う様になっていた。
これは、 久安6年 ( 1150年 )、
8月20日、 藤原忠実氏が語った話だ。
「 最近は、 小鷹狩 ;
( 秋に、小鳥を捕える鷹狩 ) 、
が、 盛んであるな。
我も、 幼少の頃は、 大いに楽しんだもので、 中でも、 13~14歳 ( 約 50年前 )、
の頃には、 熱中しておったものだ。
ここから下った、 絵林 、という所で、
飛ばしたこともあったが、 その時は、
鳶が、 二羽で、 飛び上がって来てな。
互い違いに、 鷹が飛んで、 そのまま、
迷って、 下りて来て、
我の笠の上に乗った事があって、
哀れに思ったことよ。
その後の事よ、 『 宇治大納言物語 』
、を、 女房が読んでいるのを聞いたのは。
『 今は昔、 鷹狩を好んでいた男がいて、
ある時、 自身が、 雉 キジ 、 となり、
妻子と共に、 北山の小屋に宿っていたのに、
気づいた。 そのまま、 野辺に出て、
餌をついばんでいた所に、 人が来て、
鷹犬を放ち、自分たちを捕えようとする。
天にあっては、 鷹の爪を免れえず、
地にあっては、 犬の顎から逃れられず。
なんとか、 自分と、 残った一羽の子が、
叢 クサムラ 、 に逃げおおせた、
と思った時、 鷹に襲われて、
夢から覚めた。 男は、 飼っていた、
鷹犬を放つと、 そのまま、 出家した、
と、 語り伝えている 』。
この話を聞いた翌日の朝、
鷹を、 全てを、 空に放ったよ。
その後は、 やっておらん 」。
※ 『 宇治大納言物語 』……>>33の、
鳥羽僧正覚猷の父、 源隆国氏による、
編纂とされる説話集。
『 今昔物語集 』、 との関連性が、
推量されているが、中世に散逸して、
詳細は、不明。
☆ 白河天皇 ; Wikipedia ➕ ;
1053年 7月7日 ;
天喜元年 6月19日 〉-
1129年 7月24日 ;
大治4年 7月7日 ;
・・奔放な女性関係と併せて、
男色も好む傾向があり、 近臣として、
権勢を誇った藤原宗通氏、や、
北面武士の、 藤原盛重氏、と、
平為俊氏は、 いずれも、男色関係における、
愛人の出身、と、 いわれる。
☆ 天下三不如意 ;
『 平家物語 』、の巻一には、
白河法皇が、
「 賀茂河の水、 双六の賽、 山法師、
是ぞ、 わが心にかなわぬもの 」、
と、 嘆いた、 という、 逸話がある。
「 賀茂河の水 」、 とは、 古来から、
氾濫を繰り返す、 暴れ川として、
知られていた賀茂川が、 もたらす、
水害のこと。
「 双六の賽 ( さい ) 」、 とは、
盤双六の二つのサイコロらが出す、
「 賽の目 」、 のこと。
「 山法師 」、 とは、
勝手な理由にかこつけては、
日吉山王社の神輿を担いで、
都に雪崩れ込み、 強訴 ゴウソ 、
を繰り返した、 比叡山は、 延暦寺の、
僧衆 ( 僧兵 )、 のことだ。
法皇が、 この三つだけは、 どうしても、
思うようにならない、と、
愚痴をこぼすぐらいだ、 ということで、
やがて、これが、 「 天下三不如意 」、
として、 広く、 一般にも、
知られるようになった。
今日では、 これを、 白河法皇の権力は、
この三つ以外のものであれば、
何でも思い通りになる、と、 豪語するほど、
絶大なものだった、という、
逆説的な意味に取ることが、多い。
しかし、 「 賀茂河の水 」、は、
「 天災 」、「 双六の賽 」、は、
「 確率 」、 であって、 これらは、
誰が、 何をしようとしてみても、
そもそも、 思い通りになるものではない、
のに対し、
「 山法師 」、 の事は、 名目こそは、
「 神意 」、 による物であっても、
その実は、 「 政治 」、 に、
他ならなかった。
既成の優遇措置を、 朝廷が、
他の寺社にも与えようとしたり、
寄進された荘園を、 国司が、
横領しようとしたりするたびに、
延暦寺は、 山王社の暴れ神輿を盾に、
公卿らな百官を、 力で捻じ伏せていた。
白河帝は、 第70代の帝の、
後冷泉天皇の、 東宮・尊仁親王 ;
( 後三条天皇 )、 の、 第一皇子として、
生まれる。
母は、 茂子女史 、 外祖父の能信氏、
と、 ともに、 幼少の時に死別し、
父の尊仁親王は、 関白の、
藤原頼通に冷遇されていた。
明治元年の、 丁度、 8百年前、な、
治暦 4年 ( 千68年 ) 、に、
父なる帝の即位とともに、
親王宣下を受け、 貞仁親王となり、
延久 3年 ( 1071年 )、 に、
関白の、 藤原師実の養女な、
藤原賢子女史が参入した。
延久4年 ( 1072年)、に、
後三条帝から譲位され、 20歳で即位する。
関白は、 置いたが、 延久5年
( 1073年 )、の、
後三条上皇の病没の後も、
父と同様に、 親政を目指し、
荘園らへの整理などに、 力を入れ、
永保元年 ( 1081年 )、 に、
宇佐神宮の境内の地に、
神宝塔院を建立する、 等し、
摂関家の権勢を弱めることに努める。
また、 摂関家の内部でも、
関白の地位をめぐる藤原教通・信長父子と、
師実との対立があった。
父な、 後三条上皇と、その母である、
陽明門院は、 白河天皇の異母弟な、
実仁親王、更に、 その弟の、
輔仁親王へ、皇位を継がせる意志を持ち、
譲位の時に、 実仁親王を皇太弟と定めた。
白河天皇は、 これに反発したが、
生前の後三条上皇や、 他の、
反摂関家の貴族の意志もあり ;
( 白河天皇は、 関白の養女な、
賢子女史を、 中宮としており、
反摂関政治の立場としては、
好ましい状況ではなかった )、
これを認めざるを得なかった。
しかし、 応徳2年 ( 1085年 )、に、
実仁親王は、 薨去し、これにより、
応徳3年 ( 1086年 ) 11月、に、
白河天皇は、 輔仁親王ではなく、
実子である、 8歳の善仁親王 ;
( 第73代の、 堀河天皇 )、を、
皇太子に立て、 即日に、 譲位した。
堀河天皇の生母で、 白河天皇が寵愛した、
中宮な、 賢子女史は、
実仁親王の薨去の前年に、 若くして、
病没している。
太上天皇となった白河上皇は、
幼帝を後見するために、自ら、政務を執り、
いわゆる、 『 院政 』、 が出現した。
以後も、引き続き、摂政関白は置かれたが、
その実態は、 次第に、
名目上の存在に近いものとなってゆく。
ただし、白河上皇は、 当初から、
強い権力を有していたわけではなかった。
天皇に在位中からの摂関であった、
藤原師実とは、 協調を図っており、
師実も、争いを好まなかったこともあって、
実際の政策の決定への過程において、
親政期、 及び、 院政の初期には、
摂関政治と、大きな違いはなかった ;
( 師実は、 摂政、もしくは、大殿として、
白河上皇の院庁の人事や、
御所の造営にまで、 深く関与していた )。
早々に、退位したのは、 実子の、
善仁親王への譲位が、 目的であり、
善仁親王の母親は、 師実の養女な、
賢子女史であり、 後三条天皇の在位期間を、
例外として、再び、 2代を続けて、
藤原氏員が、 天皇家への外戚となり、
これは、 実際には、
摂関政治への回帰だった、 と言える。
堀河天皇が成人すると、
上皇の政治への介入に反発する、
関白な、藤原師通とともに、
親政を図って、 一時は、 成功していた、
時期もあったが、 幼い帝への後見、
という、 目的を果たしたことや、
後述のように、 出家したこともあって、
白河法皇も、 これを許容していた。
それが、大きく転換したのは、
師通の急逝による、 摂関家の内部の混乱と、
それに続く、 堀河天皇の崩御、
その皇子で、 白河法皇の孫である、
第74代の、 鳥羽天皇の即位が、
契機であった、 と、 考えられている。
摂関政治の機能ほ停止に伴って、
父院である、 白河法皇が、
摂関に替わる、 天皇、への、
補佐機能を行うようになり、 更に、
堀河天皇の崩御に伴う、 幼い帝 ;
( 鳥羽天皇 )、 の、 再出現と、
政治的に未熟な若い摂政 ;
( 藤原忠実 )、 の登場によって、
結果的に、 権力が集中した、
と、 考えられている。
永久元年 ( 1113年 )、 に発生した、
と、される、 永久の変において、
なお、 期待されていた、
輔仁親王を没落に追い込んだ。
政治的な権限を掌握した白河法皇は、
受領階級や、 武家の出身の、
院近臣を用いて、専制的な政治を行った。
特に、 叙位・除目 ジモク 、に、
大きく介入し、人事権を掌握する。
鳥羽天皇の践祚後の、 最初の除目である、
嘉承3年の正月の除目では、
近習の多くを、 実入りの多い、
国の受領に任じた。
藤原宗忠は、 その態度を、
「 今太上天皇の威儀を思ふに、 已に、
人主に同じ。 就中、わが上皇
已に専政主也 」、 と、 評している。
この除目以降、 院の人事への介入は、
「 任人折紙 」( にんじんおりがみ )、
という、 非公式の文書を、
天皇や摂政に渡すことで行われた。
武士は、 院への警護役として創設した、
北面武士などにあてた。
特に、 康和4年 ( 1102年 )、と、
保安元年 ( 1120年、 保安元年の政変 )、
の、 2度にわたって、
藤原忠実の職権を停止したことは、
摂関の権威性の低下ぶりを、
内外に見せ付けることになった。
更に、 実仁親王の立太子を巡る教訓から、
堀河・鳥羽・崇徳陛下、への、
異母兄弟に対しては、
親王宣下も、 臣籍への降下も、認めずに、
出家させて、 皇位継承権を剥奪した ;
( 法親王制度の創設は、 彼らへの、
慰藉の側面もある。 なお、
崇徳陛下への異母弟である、
近衛天皇の誕生は、白河法皇の没後 )。
また、 賢子女史との間の、 第一皇女、な、
媞子内親王へ、 深い鍾愛を注ぎ、
幼い帝の立場を強化する意味合いもあって、
媞子内親王を、 堀河天皇、への、
母に準ずる存在な、 准母 、 とし、
中宮に立后させた。
非配偶の后 ( 尊称 皇后 )、 の、
始めである。
また、 自分の従兄であり、
藤原公実の遺児である、 藤原璋子女史を、
養女として育て、後に、
鳥羽天皇への中宮として、 その子を、
崇徳天皇として即位させた。
崇徳天皇は、 系譜的な外祖父は、
公実氏であるが、 現実の外祖父は、
故人である、 公実氏ではなく、
璋子女史、への、 養父の、
白河法皇であり、法皇も、
天皇への外祖父として、儀式に関与する、
などの役割を果たしている。
熱心に、 仏教を信じ、 嘉保3年
( 1096年 )、 には、 鍾愛する皇女
・媞子内親王の病没を機に、 出家し、
法名を、 融観として、 法皇となった。
また、 法勝寺、 などの、多くの、
寺院や仏像をつくらせたが、 その経済力は、
受領のものを活用し、 成功が、
より、一層と、 横行するようになった。
堀河天皇の崩御の後は、自らの孫である、
第74代の、 鳥羽天皇、更に、 曾孫の、
第75代の、 崇徳天皇と、 3代にわたって、
幼い主を擁し、 43年間にわたり、
院政を敷いた。
天皇の王権を超越した、
政治権力を行使する、 こうした、
「 天皇家の家督 」、 のことを、
後世では、 「 治天の君 」、
と、 呼ぶようになる。
大治4年 7月7日 ( 1129年 7月24日 )、
に、 77歳で崩御した。
80: 『 後藤内軍物語の事 』 ;
白河院の御代。 天喜5年の、 11月の、
合戦において、 源頼義氏に付き従った、
六騎の中にいた、 藤原則明氏、
通称は、 後藤内は、 既に、老齢であったが、
院の御召に従い、往年の合戦を物語る、
大役を仰せ付かっていた。
そこで、 まず、言うには、
「 故頼義朝臣の鎮守府をたちて、
秋田城へつき侍りし時、 薄雪降り侍りしに、
軍のをのこども 」、
と、 ここまで言った時、
院より、お言葉があった。
「 うむ、もう宜 ヨロ しい。
幽玄なる情景が浮かんで参った。 もう、
これ以上は、不要 」 。
そうして、衣を下賜された、
ということだ。
82: しかし、 今も昔も、 合戦話が、
人気だ、 ということは、 分かったが、
まさか、 情景だけで、 衣をくれる、
とは、思わなかっただろうなw。
85: >>82 ; 俺、ご老体が、
長い長い思い出話の、 エンジンをかけた、
のを察して、辟易したから、
「 もうイイよ、もうイイよ、
ご苦労さん、ありがとう 」、
したのか、と、思っちゃったw。
70: 楠木正成氏の話、
籠城戦とかないですか? 、
敵兵に向かって、 糞尿をかけた、
とか、 そんなの ;
81: >>70 ; 正成氏が、
尻を剥き出しにして、
糞しようとしたんだって。
ところが、ぢで、 正成氏の方が、
悲鳴をあげて、 引っ込んで、
鎌倉方の失笑を買ったそうだ。
83: 手術のできない昔 。
進行した痔への治療法は、存在しない。
生き地獄だっただろうな。
87: 痔は、苦しいな、
自然治癒とかも、 当時では、
長引きそうだし。
≒ あるべき、 代謝員ら、への、
あるべき、 度合いら、での、
摂取ら、 が、 必要だが、
当時は、 今の世でのように、
卵ら、 などを、 好き放題に、
食べられる訳では、なかったろうから、
治せないままで、
湊川の戦いに臨んだのかも知れない。
88: >>87 ; ウンコした時に、
痛みを感じる列辺になると、
自然治癒は、 不可能。
切るしかない。
戦前の徴兵検査でも、 痔だと、
不合格になるほどに、 怖ろしい病。
90: 痔で入院したことあるけど、
悪化すると、
ピクリとも、動けなくなるよ。
気が狂って、 おかしくなっても、
不思議じゃない。
☆ 三橋貴明氏❗ ;
国債発行と長期的な国土強靭化計画を❗ ;
2019-10-13 7:49:47
三橋貴明オフィシャルブログ
「新世紀のビッグブラザーへ blog」
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等、お仕事のご依頼は、こちらから
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『現代貨幣理論入門ー税金の真実ー(前半)』
三橋貴明 AJER2019.9.24
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主任研究員の島倉原氏が
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三橋TV第149回
【アカデミー賞の裏に隠された情報戦争】
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チャンネル桜「【経済討論】奈落へ?
世界経済の行方 [ 桜R1/10/12 ]」
に出演しました。
多摩川が、氾濫・・・。
『東京、埼玉、神奈川など8都県で
氾濫確認 各地で緊急放流、浸水の恐れ
台風19号の接近に伴う大雨となった12日、
関東や東海、東北地方を中心に
河川の流量が増えたり、
複数のダムで放水されたりして、
水位が急上昇した。
午後9時現在、東京、埼玉、神奈川、
宮城、栃木、福島、長野、静岡の
8都県で氾濫が確認された。
気象庁などによると、午後8時半までに、
多摩川▽荒川▽相模川中流▽
入間川流域▽菊川▽宇多川――など
16の河川が、 氾濫危険水位に到達。
最悪のレベル5に次ぐ、 レベル4にあたる、
「氾濫危険情報」が発出された。
東京や神奈川、埼玉、静岡などで
大規模な浸水被害の恐れが高まった。
午後5時ごろには
静岡県菊川市神尾の牛渕川が氾濫した。
住宅被害は、確認されていない。
同6時40分ごろには、
埼玉県東松山市葛袋の都幾川で
水が堤防を越えた。
国土交通省関東地方整備局が
被害の状況を調べている。
多摩川では、 同3時40分ごろ、
東京都調布市の観測所で
氾濫危険水位に達した。
都によると、奥多摩町の小河内ダムは
大雨で水位が上昇したため、同6時から
下流の多摩川に流す水量を増加した。
また、相模原市緑区の城山ダムでも
午後9時半、神奈川県が緊急放流を始めた。
相模川など、 流域の河川で
水位が急上昇する恐れとなった。(後略)』
多摩川のみならず、千曲川、荒川、
入間川、牛渕川、宇田川、阿武隈川、
吉田川 、 など、
長野県から、 東北地方に至る地域で、
多くの河川が、氾濫❗。
個人的は、やはり、なじみ深い二子玉で
多摩川が溢れたのが、ショックです。
世田谷区の世田谷記念病院では、
1階部分に水が押し寄せ、一時は
胸の高さまで来た。
川崎の溝野口のマンションでは、
マンションの1階に住んでいた方が
「浸水」により、亡くなりました。
自然災害からは、誰も逃れられない。
安全なところなど、どこにもない。
偶々、今回の台風19号では
被災者にならなかったとしても、
次の大震災のときは、
どうなるかは、分からない。
自然災害が多発する、我が国では、
災害発生後の国民の「助け合い」無しでは
生き延びることが、できない。
それにも関わらず、我が国では
グローバリズムによる
「国民の分断」が進み、政府は
「小さな政府」を善として、
国家の店じまいを進めている。
災害列島で、自己責任が蔓延する
という、信じがたい状況で
我々は、生きることを
余儀なくされているのです。
【歴史音声コンテンツ 経世史論】
http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/
※10月1日から、長浜浩明先生の
特別コンテンツ
「日本人はどこから来たのか?」が
視聴可能となりました。
今回の災害を受け、政治では
「一時的」に防災が注目されるでしょうが、
それだけです。恐らく、
「予備費から予算をつける」
で、終り。
建設国債の発行❗ 、 という、
至極真っ当な施策は、誰も言い出さず、
誰も議論せず、
誰も推進しない。
あるいは、防災予算を増やすとして、
「ならば、防衛費を削ろう」
「ならば、社会保障を削ろう」
「ならば、増税。防災増税」
などと、頭の狂ったことを言い出すのが、
日本の政治です。
違う。必要なのは、
「 追加的な予算 」、 であり、
国民の生命や安全を守るために、
「 貨幣 ( = 国債 ) 」、を、
普通に発行しろ❗ 、
という、話なのです。
普通の話が通らないのが、我が国です。
今回の災害にしても、 一か月もすれば、
みんなが、忘れてしまい、
「 防災? 国土強靭化? そんな、
カネねえだろ 」
、と、 相変わらずの、 緊縮脳で、
残酷、残忍なことを語りだすのが
日本の政治家、そして、
反日側な、国民らのスタンダードなのです。
いい加減にしましょう。
日本の政治家に、わずかでも、
「国民のために」、という、
矜持が残っているならば、
普通の政策をしてください。
国民の生命や安全を守るために、
建設国債による補正予算を組むのです。
さらには、長期的な国土強靭化計画と、
「予算」をコミットし、
散々に痛めつけられた、
土木・建設の供給能力を回復する❗。
それ以外に、我々が、
「安全」を手に入れる手段は、
ないのです。
「国債発行と長期的な国土強靭化計画を!」に、ご賛同下さる方は、
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☆ ガン細胞たちは、
ブドウ糖だけ、 を、
唯一の、主な、栄養分としてあり、
糖質を制限する事を含む、
ビタミン・ケトン療法は、
ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、
ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。
タンパク質たち、と、
ビタミン、たち、に、
ミネラル 、たち、を、 完全以上に、
飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、
一部の人々を除いた、
ほとんどの人々の健康性を成し続ける、
代謝ら、を、
完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、
これら、を、 より、 欠いてしまう事は、
万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、
より、 余計に、 成す事を意味する。
☆ Cancer cells
Only glucose,
As the only main nutrient,
Including restricting carbohydrates,
Vitamin / ketone therapy
Even if
you make cancer cells attack soldiers,
This will reduce
the possible degree of cancer.
With proteins,
Vitamins,
Minerals, more than complete,
Drink and eat, keep taking,
Excluding some people,
Keeps the health of most people,
Metabolism,
It ’s necessary to continue
to do more than perfect,
The more you miss these things,
Cause all kinds of illness,
possible degree,
More than that, it means to do it.
☆ いずれにせよ、
日本人たちは、 より早くに、
日本人たちの足元の、 地下へ、
より、 どこからでも、
より、 速やかに、 落ちついて、
歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、
公共事業らを成す事により、
日本の、 財務省の役人ら、と、
与野党の、 主な政治家らとが、
英米のカネ貸しらの主張する事らを、
そのまま、自らもまた、
オウム返しにして、主張し、
実行もする事において、
日本政府の財政における 、緊縮 、
を、 繰り返し、 成す事を通して、
彼らへの、 主 アルジ の立場にある、
日本の主権者としてある、日本人たちへ、
物価だけではなく、
その労働らへの賃金らの水準へも、
より、 押し下げる向きへ圧力をかける、
要因らの系である、
デフレ不況性 、を、
押し付け続けて来てある、
その、 デフレ不況性 、を、
解消し去ってゆく、 と共に、
日本人たちの防衛性の度合いを、
飛躍的にも高めてゆくべき、
ぎりぎりの状況にも、 ある 。
地上を襲い、 地上をおおい得る、
あり得る、 災害らへ対して、
地上に、 避難所らや、
避難経路らを設定して、
日本の主権者たちを、
それらへ誘導する事は、
人食い虎どもの住む、 密林へ、
わざわざ、 人々を誘導する事に類する、
行為であり、
日本の主権者としてある、
日本人たちの一般 、へ対して、
個々の日本国民においても、
執事なり、 召し使いなりの立場にある、
公務員などの、 者らにおいても、
成す事が、 許されない 、
行為なり、 態度なり、 であり、
日本人たちの一般の、 あり得る、
福利ら、を、 より、 能くも、
最大限にも、 成す事を、 約束して、
日本の社会に、 存在し、 存続する事を、
日本国民たちの一般から、 許されてある、
筋合いにある者としての、 義務 、 に、
違反性を成す、 行為であり、
それが、 作為型では、 無く 、
無知性と痴愚性とにもよる、
不作為型の、 行為なり、 態度なり、
であっても、
それへの責めを負うべき、 筋合いを、
その主らの側に、 成すものである事に、
変わりは、 無い。