ネパール通信

ネパール人との離婚後の生活をウダウダと書き綴ります。

私の出身大学山岳部の・・・

2005年10月06日 | ネパール
mbヴぇ亜r@l/,k@あ富士子・・・・・時間が無い!
ダサインが来る!
日本から友人が来る!

ブログの更新もしい!
って事で、私の出身大学山岳部では部報を定期的に発行しており、
今回、私も投稿いたしました。
その原稿を4回くらいに分けて発表します!

原稿タイトル「シャングリラに魅せられて」
※かっこいいー!

自転車に乗った現場監督(平4理)

1.ネパールに如何にして絡んだか
私がネパールについて始めて意識したのは、甲南大学卒業1年後の1993年でした。当時、生保系コンピュータ会社に勤務していた私は、一日中コンピュータと対峙する生活に嫌気が差していました。小学校の通信簿では、6年間全学期にわたって「落ち着きが無い」との評価を頂いていた私にとって、「山岳部とは落ち着きの無さ」を自由に表現できる場所であり、コンピュータ会社への就職とは、全身痒いのに緊縛されて掻くに掻けない状態でした。
今思うと、「落ち着きのある小学生」って居たのでしょうか?そんな小学生は気色悪いんですが・・・
そんな、尻に虫が湧いた様な生活を送っているところに、AAVK(関西学生山岳連盟)から海外遠征を出そうと言う話になり、現状から逃げ出したい一心の私は海外遠征話に乗り進めて行きました。
また当時、私の直の指導者の御一人であります先輩がネパールのクスムカングル山を敗退帰国されたのですが、その様子をスライドにて見せて頂いた時には、ネパールと言う国に対しては何も感銘を受けることなく、ヒマラヤに対して「あぁスケールがデカ過ぎやぁ」「空が青いなぁ」「かっこエエなぁ」位の感想でした。
「より高く!より困難を!」がモットーの山岳部が海外遠征と言えばヒマラヤであり、ヒマラヤと言えばネパール。この瞬間からが、私がネパールに憑かれる起源であるのです。

※ この遠征の話については、過去の山嶽寮(部報)掲載報告書を参考に願います。

要約すると、如何にしてネパールへの係わりを持ったかと言うと、日本に適応できなくてたまたまネパールへ行ったと言うことでしょうか?

また、初の海外遠征後には自分の中に何かが芽生え、
「このまま日本で暮らしていくのは
何かが違う!」
「もっと、日本国外を知りたい!」
との思いが募って行く生活を送っていました。
そして、漠然とながらいつかは海外で生活を仕事をしたいとの思いにつながり、何某かの折に触れ海外での生活や仕事に必要な情報を得るためにアンテナを張り巡らせる様になりました。
この時点、第一回目の東アフリカとネパールへの遠征終了後は特に「ネパールへっ!」と言う意識は無く、ネパールも多くの中の一つの選択肢程度の考えでした。
その後、海外で生活するには英語を身につけなければと言うことで、カナダで大工仕事を得て英語環境に身を置いてみたりしながら(カッコよく言えば)機が熟するのを待っていました。
この間、色々な方にお世話になりましたが特に故・乾先輩には多大なるお世話になりました。
ただ、一回目のネパール遠征で主目的であったシングチュリ(約6500m)を落とすことが出来ず、お隣の山タラプチュリ(約5600m)をついでに登ってしまい、これが、2回目、3回目のシングチュリ雪辱遠征につながって行く事になりました。
そして、3回やっても駄目だったシングチュリに意気消沈した私は、現地にて女の子を一回で射止めてしまい意気揚々と帰国するのでした。がっ!
それが現在の妻なのですが、シングチュリよりも難攻不落で現在も登攀中・・・・
あと何ピッチあるのだろう?

そして、妻を娶ってから幾度か海外で働かないかと申し出があったのですが、折り合いがつかず断念。
それでも、海外への思いを絶やす事無く機会を窺っていました。そして2003年に、現在の就職先へ就職。現地合資法人へと赴任できることになりました。

思いを馳せて10余年、思いは通じて願いは叶うものだと実感した瞬間でした。
そして未だ、シングチュリへの思いは失せておりません!
ついでに、エベレストにも登りた~い!


*** つづく ***