ネパール通信

ネパール人との離婚後の生活をウダウダと書き綴ります。

別れを決意した瞬間について

2010年05月31日 | ネパール
先ずは私が離婚を判断した決定的な事件があります。
勿論ずーっとずーっと溜め込んできた様々な事柄がありますので、
その決定的な事件だけが問題ではありません。

その事象が発生したのは3年前・・・かなぁ?
私が日本出張から戻ってきて1週間も経たないうちでした。
その日本出張時、実は先妻も日本に居たのです。
我々は同宿する事無く先妻は私の実家から40km程離れた所に身を寄せていました。
その場所とは我々の事をずっと見守り続けてくれてた年配の女性のご自宅です。

この出張時に一度だけ先妻と顔をあわせました。
私が「もう離婚する」と、このおば様に間に入ってもらって話をつけてもらうためにです。

この離婚話の前にも2-3度離婚を持ちました、この一年以内にです。
話し会いになると直ぐに先妻の口から出る
「日本人はネパール人を馬鹿にする」
「お前の家族も同様に最低や(特に妹への攻撃はひどかった)」
「私の見方は家族だけ」
と、わめき散らし話にならないから・・・
そこで、過去2-3回の話会いには先妻の身内を呼び集め、
彼女+家族 vs 日本男児一名
の形をとりました。

まーそれはさて置き・・・・

おば様の取り持ちで最後の踏ん張りを試みた私でした。

ところが、ネパールに戻って一週間以内に大学の先輩がネパールにやって来ました。
もちろん、彼は先妻に対しても手土産を欠かすことはありませんでした(たしか、このときは腕時計)。
で、先輩の相手をしていて夜の9時過ぎに先妻からの電話、
「牛わわぁぁぎゃぁぁぎょぎゅげぐへへへへ(はよ帰って来い)!!!」
と怒鳴り散らすのです。
※もちろん、前日や当日にも前もって先輩の来訪と当日の予定は全て伝えています。

これが不退転の決意をした瞬間です。
ただ蚤の心臓を持つ私はココで家庭内別居、その一年後に完全別居を敢行しました。

「ネパール離婚通信」の始まり始まりぃ~

2010年05月30日 | ネパール
みなさま、長らくの間の沈黙、ごめんなさい。
これには理由があります、まぁお気づきの方は多々いらっしゃるかと思いますが。
実は長らくの別居生活を経て離婚しました。
はい、いま日本に戻っています。

「ネパール通信」を始めたときに「もし更新がなされていない時は嫁と交戦中だ」とお伝えした様な気がします。
まぁこれだけ長い間交戦し続けていたのであります。

今、なぜ書き始めようか思い立ったかと言うとやっぱり少し経緯の整理と、
今後ネパール人の方と結婚を考えている方への啓蒙。
それからネパール人との離婚を考えている方への一助になればと思うからです。

では、今まで何故ここに書かなかったのかというと、
やはり元妻の悪口になってしまうからです。
それは今後の彼女の行動にも影響を及ぼすかも知れないし、
何よりも私の娘(5歳)の母ですから・・・・

でも、もう我慢ならなくなってしまいココに書き記す事にしました。

元妻は私の実家に「お前の息子は強盗の実行犯」であると電話をしてきたのです。
今までも実家の母に「(私)が如何に夫して不適合か、如何に不幸になったか」を度々電話してきていました。
ただ、ココに来て「強盗犯」呼ばわりされてしまっては黙っては居られません。

タダでさえこの離婚で、
娘、土地資産、お金、仕事 等々
を元妻に奪われて来て最後にはネパールの刑務所に連れられる計画があったとは・・・

今からココに記す事は今まで起こった様々な事を思いつくままに表します。
時系列でもないし重要度順でもありません、思いつくままです。

ただ、私も体を張って得たネタの数々です。
関西出身の私としてはお読み頂いた皆様方にも笑い飛ばして頂きたく、
ここに思い出の数々を羞恥心を何とか抑制しつつお見せして行くつもりです。
休み癖がめっきり板についていますが何卒お付き合いください。

では、宜しくお願い致します。

あっ、今、日本で学生しています。
介護福祉士の学校にこの4月から通っています、はい。