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夏の香り / happy child

2004年07月22日 22時14分16秒 | 現実と虚構のあいだに
 「幸福な子、と書いて、幸子」



 そのころ、サチコは三軒茶屋の、おれは池尻の、木造アパートに住んでいた。

 サチコは、離婚するまで旦那といっしょにやっていたバンド活動をやめて、渋谷のライヴハウスでピアノの弾き語りをしていた。

 大阪から出てきて、髪の毛をブルーに染めたおれは、沿線のここそこのライヴハウスで、自作詩の朗読を行っていた。

 おれたちが、たまたまなにかの縁で、下北沢音楽祭というイベントに出演し、はじめて出会ったときに、おたがいにこころひかれたのは、なにも不思議じゃないことのように思えた。

 家が近かったせいもあって、かんたんすぎるくらい、あっけなく、お互いの家を行き来するようになった。

 おれたちの部屋には、風呂がなかった。 エアコンもなかった。 夏場はおたがいにつらかった。

 けれども、おれたちは、身を寄せ合って生きるほかはないかのように、じっとりと汗をかきながら、肌を重ねていた。

 おれたちの身体は、ぎすぎすに痩せすぎていて、抱き合うと、痛いくらい、きしみをあげた。

 ある日。

 おれが、あまりの暑さに堪えかねて、「エアコン、買っちまおうかな」 とつぶやいたとき、サチコは、ポケットから、小さなスプレイの瓶を出して、おれの鼻先に、シュッとやった。

 グレープフルーツの香りがひろがった。

 サチコは、「気付け香水ってわけじゃないけど。 ちょっとは涼しくなるでしょう」 と言った。

 たしかに、さわやかで、涼やかな香りが、ほんの気持ち暑さを忘れさせてくれるような気がした。

 オレンジでは、甘ったるい。 レモンでは、すっぱすぎる。 いろいろ試してみたけれど、グレープフルーツがいちばん、すっきりするのだという。

 ふたりで銭湯に行った帰り道、グレープフルーツのコロンをシュッとやってもらって、身もこころも洗われたような気持ちになって、ふっと、空を見上げたら、まん丸の月がそこにあった。

 おれは、サチコの手をとって、ぎゅっと握りしめた。 サチコがそれに呼応するかのように、おれの手をぎゅっと握りかえしてくれたとき、おれは、生まれてはじめて、幸福感のようなものに身を貫かれ、その手を、さらに握りかえしても足りないくらい、動揺をかくしきれなかった。



 けれど。 サチコは、もう、ここにはいない。

 旦那と より を戻したのだ。

 アルコール障害の旦那の暴力から逃れるために、死にそうになりながら、やっと別れることができた、と、言っていたのに ... 。

 おれには、女のこころが わからない。

 なぜ、じぶんを傷つけた男のところへ戻ってしまうのか。

 もう、後戻りできないくらい、傷つけられた女は、無意識に、みずからしあわせになろうとすることを拒むのだろうか。

 あるいは、人と幸福を分かち合うことに、不安や戸惑いを覚えるのだろうか。

 「幸子」 のくせに。 あいつ。 どうして ... ?

 たとえ、どんな理由があろうとも、力ずくででも、サチコを守りとおすことのできなかったじぶんの ふがいなさに、かなしいやら、くやしいやら。 涙があふれた。

 おれたちは、いったい、なんのために出会ったのだろう?

 ときに、運命というやつは、残酷なことをもしてくれるのか。

 見上げれば、あのときの同じ、グレープフルーツみたいな月があるのに。





 ビル風の吹き荒れる街中をさまよいながら、狂気的な暑さをしのぐために避難した、地下室の喫茶店では、タバコのけむりと空調の匂いが混ざった冷気が漂い、吐きそうなくらい、不快だった。

 ウィリアム・サマセット・モームの、岩波文庫版 『月と六ペンス』 を読むおれの となりの席では、女が、一心不乱に、携帯電話でなにか入力をしていた。

 氷で薄まった、グレープフルーツ・ジュースを飲みながら。



 BGM:
 Tom Waits ‘Grapefruit Moon’
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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
グレープフルーツの香り (koko)
2004-07-23 13:52:12
こんにちは。ほろ苦いですね。ちなみに三茶にはつぶれそうな母校があります。

そして、名前に幸せをつけると幸せにはなれないというマーフィーの法則みたいなジンクスもあります。



そしてジョン・グッドマンの苗字は良男・・・
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名は体を ... (byrdie)
2004-07-23 15:08:06
koko さん、こんにちは。

ありがとうございます。



グレープフルーツのように、すっぱく、ちょっぴりほろ苦い思い出を、物語ふうにしてみました。

(わたしは、男ではありませんが ... 。 わたしが、「サチコ」 だったりして ... ゴニョゴニョ ... )



名は体を現さない場合が、ときにありますね。



> そしてジョン・グッドマンの苗字は良男・・・



ゲイリー・オールドマンは、「古男」 ... 。





# ちなみに。 三軒茶屋には、ずばり、『グレープフルーツ・ムーン』というライヴハウスがあります ...

返信する
つい最近 (koko)
2004-07-23 15:14:32
byrdieさんこんにちは。

コメントありがとうございます。

いましたね。

ゲイリー・オールドマンの古男



最近会社の近くに出没した模様です。古男が。ハリポタのプロモでしょう・・・
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ええっ?! (byrdie)
2004-07-23 18:30:59
ゲイリー・オールドマンが来日していたのですか?!

うう~ん、じつは、『シド・アンド・ナンシー』 を観てからのファンだったりして ...

(公開当時に観たわけではないのですが)

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をっ? 生下痢・古男を見たい? (わど)
2004-07-24 15:05:25
タクのウテシでよかったら、

8/10あたりに。(モーいいって!)
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わどさん、こんばんは。 (byrdie)
2004-07-24 23:50:15
では、生「優雅な蹴り」 (Grace Kerry ... う~ん、つまらないかも ... ) を、八月十日に ... 。 (なんてね)

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