日付が変わってしまって申し訳ないが、昨日、四月十三日は、「啄木忌」 ― 歌人であり詩人でもある石川 啄木さんが亡くなった日であった。(一九一二年没、享年二十七歳)
石川 啄木さんの短歌は、好きなものが多いが、とくに好きなのは、歌集の題名となった、
「いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ」
であろうか。
砂に 「いのち」 を見出そうとした啄木氏の心境を思うと、むねにじんとくる。
ほかに、
「かなしくも
頭のなかに崖ありて
日毎に土のくづるるごとし」
「白き蓮 沼に咲くごとく
かなしみが
酔ひのあひだにはつきりと浮く」
「山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり」
などを読むと、並々ならぬ言語感覚に、はっとさせられる。
ほかのサイトでも、ちとふれてしまったことだが、ここにも書いておこう。
石川 啄木という人は、もともと小説家志望であった。 それは、『弓町より』 で、
「私は小説を書きたかった。 否、書くつもりであった。 また実際書いてもみた。 そうしてついに書けなかった。 その時、ちょうど夫婦喧嘩をして妻に敗けた夫が、理由もなく子供を叱ったり虐めたりするような一種の快感を、私は勝手気儘に短歌という一つの詩形を虐使することに発見した。 」
と語られている。
啄木氏にとって、短歌は、「悲しき玩具」 であった ― そして、その 「玩具」 が、啄木氏の名を後世にまで残すことになった ― 。 なんという皮肉であろうか。
しかし、啄木氏に限らず、多くの人が 「悲しき玩具」 を有しているのではないだろうか?
ほんとうになりたかったもの、ほんとうにやりたかったことの代替として、「なにか」 を選択した人は、いったいどれだけいるのだろう?
そもそも、すべてが思いどおりに運んでいるいる人など、いるのだろうか? だれもがなにかしらの「悲しき玩具」 を持っているのではないか ... ?
「代わり」 としての仕事、趣味、遊び、恋、そして、blog を ... 。
けれども、その 「玩具」 を選択したからには、いっしょうけんめい遊んでみせなくては、と思う。
「遊び」 だからといって、手を抜いてちゃあ、だめだよね。
ほら、子どもを相手に相撲をとるとき、子どもだからと手を抜くと、子どもはそれを知って、怒ったり、傷ついたりするでしょ。
どんな 「遊び」 でも、本気で立ち会わなきゃ、失礼だ。 どんなことにも真っ向から立ち向かっていけば、明日には、いいことがあるかもしれない ... なんてね。
さて、最後に、「砂」 つながりで、他サイトでちらほらと見かけた 「ことばの砂時計」 へのリンクでも ... 。
ことばが砂となって落ちていくさま。 不思議な気持ち。
石川 啄木さんの短歌は、好きなものが多いが、とくに好きなのは、歌集の題名となった、
「いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ」
であろうか。
砂に 「いのち」 を見出そうとした啄木氏の心境を思うと、むねにじんとくる。
ほかに、
「かなしくも
頭のなかに崖ありて
日毎に土のくづるるごとし」
「白き蓮 沼に咲くごとく
かなしみが
酔ひのあひだにはつきりと浮く」
「山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり」
などを読むと、並々ならぬ言語感覚に、はっとさせられる。
ほかのサイトでも、ちとふれてしまったことだが、ここにも書いておこう。
石川 啄木という人は、もともと小説家志望であった。 それは、『弓町より』 で、
「私は小説を書きたかった。 否、書くつもりであった。 また実際書いてもみた。 そうしてついに書けなかった。 その時、ちょうど夫婦喧嘩をして妻に敗けた夫が、理由もなく子供を叱ったり虐めたりするような一種の快感を、私は勝手気儘に短歌という一つの詩形を虐使することに発見した。 」
と語られている。
啄木氏にとって、短歌は、「悲しき玩具」 であった ― そして、その 「玩具」 が、啄木氏の名を後世にまで残すことになった ― 。 なんという皮肉であろうか。
しかし、啄木氏に限らず、多くの人が 「悲しき玩具」 を有しているのではないだろうか?
ほんとうになりたかったもの、ほんとうにやりたかったことの代替として、「なにか」 を選択した人は、いったいどれだけいるのだろう?
そもそも、すべてが思いどおりに運んでいるいる人など、いるのだろうか? だれもがなにかしらの「悲しき玩具」 を持っているのではないか ... ?
「代わり」 としての仕事、趣味、遊び、恋、そして、blog を ... 。
けれども、その 「玩具」 を選択したからには、いっしょうけんめい遊んでみせなくては、と思う。
「遊び」 だからといって、手を抜いてちゃあ、だめだよね。
ほら、子どもを相手に相撲をとるとき、子どもだからと手を抜くと、子どもはそれを知って、怒ったり、傷ついたりするでしょ。
どんな 「遊び」 でも、本気で立ち会わなきゃ、失礼だ。 どんなことにも真っ向から立ち向かっていけば、明日には、いいことがあるかもしれない ... なんてね。
さて、最後に、「砂」 つながりで、他サイトでちらほらと見かけた 「ことばの砂時計」 へのリンクでも ... 。
ことばが砂となって落ちていくさま。 不思議な気持ち。
東海の
小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて蟹とたわむる
情景と心象が見える、一番好きな歌です。
「遊びこそ真剣にやるべき」ですよね。
僕のモットーは「仕事は公私混同」です(笑)。
いつもウンチクばっかり書き散らしてスミマセン。
いつもご意見ありがとうございます。
その歌は、
東海 > 小島 > 磯 > 白砂 > われ > 蟹
と、大から少への展開がすばらしい作品ですよね。
ほんとうにすごい才能だと思います。
わたくしめのモットーは「まじめに不まじめしよう ! 」でしょうか ... 。
つい、度が過ぎてしまうことも多々ありますが ...
「まじめに不まじめ 」ってコトバ、僕も使ってます。
やはり似たような匂いを感じたのは間違いではなかったのか(笑)。
啄木、ホントに凄いですよね。
わたくしめも、mookei さんの 「あすなろ」 をお読みして、「あ、わたしも、むかし似たようなことを考えたことがあるぅ。 同じような考えの人がいるんだなあ~」 と、びっくりすると同時に、ちょっとうれしくなりました。
私の 「笑顔」 と 「ため息」 の話は、そのうちなにかの機会にでも、ことばや表現を再構築して、あらためて日の当たる場所に置けたら、と思っています。
楽しみにしています。
一握の砂ボテンより。
# Blog にもコメントにも、お人柄が出ますよね。
すみません、「あすなろ」へリンクを貼っていたのですが、コメントへのリンクは無効となってしまうようですね。
いちおう、URL を直接貼り付けておきます。
http://blog.goo.ne.jp/mookei/e/1c8386f9643968d6335e1ebe7c22bdc3
まだお読みでない方、もしいらしたら、コピー & ペーストしてごらんくださいませ。
自己満ワールドですから(苦笑)。
でも、ありがとうございます。