Run, BLOG, Run

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終わらない手紙 / D.o.a.L.

2005年01月27日 21時54分14秒 | about him
 ええと。 わが友人 (というか彼) の話でもしましょうか。

 昨年十一月のブログ休止直後、彼が、わが家に転がり込んできた、という話、私、しましたかしら?

 このブログ (のようなもの) を割と読んでくだすっているかたは わかるのかもしれませんが、私の付き合っている人は、とっても貧乏 ... 。 自慢するようなことではありませんが。

 自由奔放に生きている人で、「仕事 (お金) のための生活」 よりも、「生活のための仕事 (お金)」 という考え方をしているのか、いわゆる日雇い労働者をしていて。 好きなことをして、とりあえずの生活が出来ていればいいや、と、将来に備えた蓄えなどして来なかったところ、寒い冬の訪れとともに 大きく体調を崩し、仕事に行けなくなってしまいました。 なんの保証もない生活をしているので、仕事をしなければ、もちろん収入がゼロになってしまいます。 当然のごとく生活苦に陥り、わが家へ避難しに来た、ということなのですけれど。

 かたや私は、一応は保証されたサラリイマンとして、それなりの暮らしをしていて。 それなりに蓄えもあって。 住まいは、以前は同居人がいたため ちょうどあまっている部屋があるので、とくに問題はなく。

 女の一人暮らしは、なにかとこわかったりするので、むしろ大歓迎とばかりに。

 あたたかな部屋と手づくり料理のおかげ ... かどうかは わかりませんが、とりあえず仕事に行けるくらいまでには回復できました。

 そうして、二人仲良く暮らしていたのです、が、今月から、彼の仕事が夜のシフトに変更となりました。 いわゆる夜勤というもの。

 夜通し働いて、朝 帰宅して、シャワーを浴びて、寝て。 夕方に起き出し、午後七時くらいに出かけます。 そして、また夜通し働いて、朝 帰ってきて、シャワーを浴びて、寝て。 夕方に起き出し ... 。

 いっしょに住んでいながら、顔を合わせられるのは、朝のほんのわずかな時間のみになってしまいました。

 あたたかいベッドで朝寝の夢にまどろむ私の隣りに、そっともぐりこんでくる彼の身体は、水を打ったように冷たくて。 とても、せつない気持ちになります。 そうして、私は、ひとり天井を見上げて、彼が寝息をたてるのをじっと待って。 彼を起こさぬよう、そうっと寝室を抜けて、そうっと支度をして、こっそりと会社に出かけていきます。

 なんだか、ワケアリな関係みたいですねえ ... 。







 彼が朝、帰ってきたときにあたたまるようなものを。 と思って、煮物だとか おでん だとか、そんなものをこしらえておくことにしました。 温めるだけになっていれば、きっと彼も食べてくれるだろう、と。

 帰宅してみると、食卓には、きれいに平らげた空(から)の鍋と、チラシの裏に書かれた 置き手紙が。

 私への感謝と、私への気遣いと、お天気のこととか、なんやかや。

 なんてことない、数行の手紙でしたが、それは、読んだだけで、とてもしあわせな気持ちになれるものでした。

 そういえば、ブログ (一時) 復活第一弾として上げた記事 「幸福なフォント」 にいただいたコメントで、『Three frogs which smile.』 のあくあさんが、「好きな人の書いた文字が幸福フォント?」 とおっしゃられていました。 いかにも書き殴ったようなオトコの字、という感じの彼の文字。 けれども、これこそが、「幸福フォント」 なのかしら、なんて思ってしまった次第。





 そうそう。

 彼の書いた字を見たのは、付き合いはじめて間もないころでした。 私たちの出逢いの場所、お互いに出入りしていた音楽関係の場所、に置いてある落書き帳 ―― よく、民宿やらペンションのようなところに行くと置いてある雑記ノートのようなもの ―― に書かかれた彼の日記を見たとき。

 その場所に来たら、必ずのように日記をつけていた彼。 人当たりがよくて人気者の彼は、そこへやって来たら、必ずみんなと わいわいやっているのですけれど、ふっと気がつくと、ひとりの世界にふけるように、すみっこで日記を綴っている姿を何度か見かけました。 みんなと話もしたいけれど、書き留めておきたい出来事や想い、というものがあるのだろうか。 なんて思ったりしながら、ひとり、せっせと日記を綴る後ろ姿を、いとしく見つめたものでした。

 そして私は、あるとき、その落書き帳を開いてみました。 彼がいったい、どんなことを書いているのかと。

 何人かの書き込みがありました。 ああ、○○さんらしい文章だわ、とか、このドラえもんの絵、似てないわ、などと思ったりしながら、ページをめくっていき、ある書き込みを見た瞬間、これだ、というものにぶつかりました。

 彼は、じぶんの書き込みに署名をしていないのですけれども。

 字の感じ。 文章の感じ。 書いている内容。 それらで、これは彼が書いたものにまちがいない、と確信できるような。

 手書きの文字という媒体で はじめて知る、彼の、なにげないつぶやき。

 「コイビトの日記」 を覗き見する 妙などきどき感から、とめどもなく、ぱらりぱらりとページをめくっていきました。

 あ、わたしのことが書いてある! ―― まだ、私たちが付き合うまえの書き込みにどきどきしたり。

 ああ、そういえば、あのころ、あんなことがあったっけ。 こんなこともあったっけ。 なんて。

 いろんなことを思い出したりしながら、私は、「幸福フォント」 を味わい尽くしました。

 誰に宛てたわけでもない、そのメッセージを。






 このブログも、もしかすると、ダレデモナイ ダレカ に宛てた 手紙だろうか?

 もし、何年か経って (このブログが残っているとして)、 このブログを彼に見せたら、どんなふうに思うのだろう?

 手書きの文字、ではないけれど、彼は、どきどきするだろうか。 幸福な気持ちになってくれるだろうか。 それとも、怒るかしら。 こんなに勝手にじぶんのことを書かれて。





 夜勤に行くまえに走り書きしたと思われる彼の置き手紙に、私は、返事を書きました。 彼に倣って、チラシの裏に。

 新たに買って来た食材のこと、電子レンジでの温め方、どこにお醤油があるか、とか、卵がもうすぐで賞味期限が切れるので早めに食べるように、とか、なんやかや。

 すると、また翌日も、チラシの裏に置き手紙が。

 なかなか体調が完全に回復しないじぶんへの、苛立ちとか焦りとか、そんなこんな。

 私は、また返事を書きました。

 とにかく、しっかり栄養を摂って、充分休むこと。 そうしていれば、きっと、じきに春が来る、と。

 すると、また翌日も手紙が。 そこには、私への感謝の気持ちが書き連ねてありました。

 私は、やはり、返事を書きます。

 ―― そうして毎日、手紙のやり取りをするようになった私たち。

 携帯電話でメールすれば済むことなのですけれど、なんとなく手紙のやり取りはつづいています。

 チラシの裏の、メモ書きみたいなもの。 殴り書きされた、ただの紙っきれ。

 けれど、それが、すれちがいの日々を送る私たちをつないでくれる、唯一のもののような気がして、手紙を途切れさせまいと、私たちは、チラシの裏にペンを走らせているのです。

 手で書く紙。 を、私は、今夜も綴るのです。 ひとり、ぼんやりと、幸福な気持ちで。










 BGM:
 ・Police ‘孤独のメッセージ / Message in a Bottle’
 Sting が在籍していた、三つ巴 (スリー・ピース) バンドの第二作アルバム、“白いレガッタ / Reggatta De Blanc” より。

 この、「孤独のメッセージ」 という邦題は、なかなか粋ですね。



 ・Johnny Thunders ‘恋人の日記 / Diary of a Lover’
 Johnny Thunders というと、“So Alone” や Heartbreakers 名義の “L.A.M.F.” あたりが有名かもしれないが、個人的に名盤だと思っている、“Hurt Me” という弾き語りアルバムに収録されている。

 恋人の日記を読んで、‘She's live in my world’ と 会えないさみしさをまぎらわせるかのように じぶんに言い聞かせている部分に、せつなく、共感を覚える。



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運命の手 / Hand of Fate

2005年01月24日 22時11分05秒 | 現実と虚構のあいだに
 short story:



 お正月に、実家へ帰省したときの話でもしようかしら。

 父が還暦を迎えたため、家族でお祝いの食事会するというので、時間をつくって駆けつけたのだけれど。

 わが父は、(世代的にか) 若かりころに貧しかったせいか、現在はその反動ででもあるかのように、食事に対して 口うるさい。 そして、ベタな、ちょっと高級品が好きである。

 兄たちは、近場でゆっくり、お鮨(すし)でも。 と考えていたようなのだが、主役である父が、蟹(かに)がいい、しかも、どこそこの蟹がいい、などと言うので、ちょっと遠出して、父ご指名の店で蟹三昧してきた。 どこからどう見ても家族であることに間違いのない、同じような顔をした総勢十名ほどの猛者どもが、一心に蟹を貪る姿 …… それはそれは壮絶であったことだろう。

 しかし、実をいうと、私は、蟹があまり好きではない。 いや、嫌いではないけれど。 なんというか、食べるときに手が汚れるのが、いやなのである。 だから、葡萄とか蜜柑とか、手で食べる果物もあまり好きではない。 なにか加工してあれば食べるのだけれども。 もっとも、手で食べるものすべてが嫌い、というのではなくて、「手に汁がつく」、「手がべたつく」、「手が汚れる」、ということに異常に反応してしまうのだ。 潔癖症などということばでは片づけられないような、なにか拘り(こだわり)でもあるのだろうか? 小さなころに トラウマ体験にでも遭ったのだろうか? ―― まあ、そんなこんなで、食事会のとき、私はひとりで、蟹刺しを肴にちびりちびりとお酒を呑んだりなどしていた。 目のまえに たんまりと盛られた殻つきのボイル蟹の山を 手付かずのままに。

 食事をしながら、兄たちと話をしていて、父の会社の従業員である吉田さん ―― 通称 「ヨッちゃん」 ―― が、昨年暮れに、会社を辞めた、というか、辞めさせられたのを知った。

 (私の父は、会社を経営している。 どうってことはない、小さな会社だが)

 吉田さんというのは、本名ではない。 彼は中国人だから、本当の名まえは、もちろん中国名だ。 彼を従業員として受け入れるときに、とある理由で 父が付けて差し上げたのだ。

 吉田さんは真面目で、よく働いてくださっていたそうだ。

 明るくて、ユーモアのある彼は、兄たち、とくに長兄とは懇意であったそうだが。

 昨年末、とある理由で あっというまに連れ去られてしまったのだ。

 ついさっきまで、すぐそこにいた人が、もう、遠い見知らぬ空の下にいる、というのは奇妙な気持ちがする。

 仕方のないことなのかもしれないけれど。

 そういえば、Michael Moore (マイケル・ムーア) のドキュメンタリー・フィルム、『アホでマヌケなアメリカ白人』 (“Awful Truth”) で、不法就労外国人が強制送還されるエピソードがあった。 送還される前夜の別れの様子が、なんだか ものがなしかった。 ―― ふと、そんなことを、思い出してしまった。

 吉田さんは、いったいどんな思いで、日本を離れたのだろう。

 なにかのきっかけ、なにかの縁から、ひと時 関わることになった私たち。 そして、運命の手によって引き裂かれた私たち。 私の父は、私の兄たちは、私は、吉田さんに、どんな思い出を残すことができたのだろうか ―― 。



 かくいう私は、吉田さんとは一度しか話をしたことがない。

 そのとき彼は、とても貧しくて、食べるものにも困っている状態だったため、とにかくお金が欲しかったのか、父の工場での作業で、一番過酷な仕事をみずからすすんでやっていたそうだ。

 私は、昨年、実家に帰ったときに、たまたま吉田さんと初対面したのだが、あまりにもほっそりとした姿におどろきつつ、「身体をこわしたら、元も子もないので、働きすぎは良くないですよ」 と、まあ、当たり前のことを言ったりした。

 吉田さんは、笑いながら、「モシ、カラダをこわしたら、そのときはそのときだヨ」 と言った。 とにかく、働いても働いても、ぜんぜん暮らし向きが良くならないのだそうだ。 父がお給料を渋っているのだろうか? なにか借金があったり、お国に送金などしているのだろうか? などと考えてしまった。

「モウ、いざとなったら、ユービンギンコウするしかないヨ」 と、吉田さんは言った。

 郵便銀行? いったいなんだろう?

「ユービンギンコウ、ユービンギンコウ ヨ!」 と、いきり立ってみせているが、郵便貯金をしたいのかしら? 銀行預金したいのかしら? それともなにか新しい業種をはじめたいのかしらと、ぜんぜん意味がわからなかった。 私がぽかん、としていると、吉田さんは、

「ジョーダン、ジョーダン」 と言って、笑っていた。

 私も、意味がわからないながらも、笑って返した。

 吉田さんは、急に、真面目な顔をして、

「アナタの手は、とってもキレイデスネ」 と言った。

 私は、ひざの上に乗せていた手を、なぜかあわてて引っ込めつつも、「そうですか?」 と返した。 手に対する 「拘り」 から、いつも手を清潔にして、手入れを怠らずにいるからか、手だけはよく褒められる。

「手を見れば、そのヒトがわかりマス、アナタは苦労をしたことがナイ」 と言う。

 精神的なものはどうか知らぬが、肉体的な苦労はあまりしたことはないので、その通りだろう、と思った。 私は、はにかんでみせた。 吉田さんは、

「ワタシにはイモウトがイマスが、そんなにキレイな手はしてナイ」 と、ポツリと言った。

 なんだか申し訳ないような気持ちになった。 いまどきの日本人の女性はみな、苦労など知らずに、のほほんと暮らしていると思われているのかしら。 などと。

 そういう吉田さんの手を見てみると。 ほっそりしているのに、ごつごつしていて。 爪がぼろぼろで、指先はささくれて。 ところどころ傷があって。 とても痛ましかった。 手を見れば、その人のことがわかる。 だとするなら、いったいこの人は、どんな人なのだろう? どんな人生を歩んできたのだろう? そう考えると、むねがちくりとした。

「こんな手じゃあ、ニホンジンのオンナノコ、ダレともデイトできないヨ」 私の視線に気がついたのか、吉田さんはじぶんの手を突き出してみせて、また笑った。 さみしい笑顔。

 ああ、わたし、手を引っ込めておいて良かった。 万が一、ほんのちょっとでも、あの手でふれられたりしたなら、私は、せつなさに泣いてしまっていたかもしれない ―― などと考えたりした。



 ―― 兄たちが、吉田さんの思い出を語り合っているのを聞きながら、私は、そんなことを思い出していた。

 ふと、長兄が、

「せや、ヨッちゃん、よく、郵便銀行しなきゃ、郵便銀行しなきゃって言ってたやろ」 と言い出した。

 ああ。 そう言えば、郵便銀行ってなんだったのだろう。

「それ、ほんとンところ、『銀行強盗』 って言いたかったらしいンだよ!」

「どこでまちがえたんじゃ」 ―― 三番目の兄。

「ヨッちゃんらしいやな。 おれ、ずっと、郵便銀行ってなんやろうなあって思ってたから、それがわかったときは、おっかしくておっかしくて、たまらンかった」

「しっかし、ヨッちゃんにゃあ、銀行強盗はできねえじゃろう。 だいたい、『郵便銀行』って言ってる時点で、失敗するに決まっとるわ」

「ちがいねえ」

 兄たちは、さびしく、笑い合った。

 私も 「郵便銀行」 に笑ってみせようと思ったのだけれど、変な空咳が出てきただけだった。

 正しい言い方をも知らぬような人が、ほんの冗談にも、異国の地で、そんなことをしなければ生きておれぬと考えてしまうほどの貧しさ、困窮、というのは、どういうものなのだろうか、と考えて、目のまえが暗くなるような思い。

 こんな私の、仕事がキツイだの、朝起きるのがツライだの、好きな人に会えなくてサミシイだのコシシイだの、やけになってお酒を呑みすぎてクルシイだの、毎日がツマラナイだの、手が汚れるのがイヤだの……、それがいったい、なんだというのだろう。 幸福すぎる、幸福すぎるのだ、私は。

 ずぶ濡れになると、人は、ちょっとした雨は気にならなくなるらしい。

 私は、いつもヌクヌクしているから、ちょっとかなしいだの、せつないだの、そんなことにくよくよして、冷たいだの、気持ち悪いだの、くだらないことを気に病んでしまう。 ああ、不幸なる幸福者か。 幸福なる不幸者か。



 ―― 私は、だまって、目のまえに たんまりと盛られた殻つきのボイル蟹の山に手を伸ばした。 そして、いっしょうけんめい味わいながら、冷えた蟹肉を噛みしめた。 吉田さんの、傷だらけの手を思い出しながら。 ずぶ濡れの笑顔を思い出しながら。










 BGM:
 Grant Green ‘抱きしめたい / I Want to Hold Your Hand’

 ご存知、The Beatles のカヴァー。 「手」 となると、記事タイトルにした Rolling Stones の ‘Hand of Fate’ とともに、まっさきに頭に浮かぶ曲。

 この曲は、ほかに The Supremes,Sparks などがカヴァーしている。

 しかし、(もう何度も何度も何度もどこかで言われていると思うけれど、) なぜ、邦題は 「抱きしめたい」 なんでしょうね。

 「握りしめたい」 とか 「おまえの手を握りたい」 では、曲タイトルにふさわしくないのかしら ... 。


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BlogPeople の怪

2005年01月20日 17時27分09秒 | goo ブログ / blog
 ええと。 どうでもいいこと、なのかもしれないのですが。

 現在、blog 更新休止中に書き溜めていた記事をポツリポツリとアップ中で。 BlogPeople にちゃんと更新 ping が飛んでいるのか、やや不安だったので、この blog も BlogPeople のリンクリストに登録してみました。

 今日、会社に来てから、いつものように なにげなく BlogPeople のリンクリストを開いてみたところ、わが家に更新マークが。


BlogPeople リンクリスト
BlogPeople のリンクリスト 画面キャプチャー。
おほほ。 π氏さん と しなたまさんに挟まれていますね。
ポップアップで表示されている「更新日」がココの更新日。



 更新時間を見てみると、午前七時。

 ―― チョト待テクダサイ。

 わたくし、その時間はスヤスヤと寝ておりました。

 blog はおろか、PC すらもさわっていないのに。

 いったい、どうして、勝手に更新 ping が飛んでしまうのでしょう。

 念のため(?)、『goo ブログ』 の 「人の検索」 をチェックしてみたのですけれど。

 「人の検索」 をすると、blog の最終更新日が出るようになっているので。

 (ちなみに、趣味:beer で出てきます :) )


人の検索 結果
『goo ブログ』 の 「人の検索」 結果。
会社では、ブラウザの設定で 画像は表示しないようにしています。
(仕事中に blog しているのが ばれないように)



 検索結果を見てみると。 最終更新日時、昨日の二十二時半。

 う~ん、おかしい。 なんだか、キモチワルイ。 BlogPeople の誤動作なのかしら? それとも。

 一応、考えてみたのは、以下 ... 。



 1) PC の電源を落とすのを忘れたので、PC が勝手に ping を送ってくれた。

  余計なこと、せんでよろしい。

  かつて私が、blog 更新に熱を入れていたときの情でも乗り移ったのでしょうか。 ああ、こわい、こわい。


 2) PC の電源を落とすのを忘れたので、小人が勝手に ping を送ってくれた。

  小人めー!


 3) 夢遊病者のように起き上がって、じぶんで ping を送った。

  あああ。 夢のなかでも、blog しているのか!


 4) 夢のなかから念で ping を送った。

  貞子か!





 ほかのかたには、こういった不思議な現象、起こったこと、ありませんか???





 ちなみに。 わたくし、先日、見たんです。

 かつて、『goo ブログ』 において、とてつもない pv 数を誇っておられた ある blog. 現在は、閉鎖されてしまったのか、閲覧することはできませんが。

 なんとなく、リンクリストから外すのを忘れていて、そのままにしていました。

 その、もはや存在していない、かの blog に、更新マークがついているのを、見たのです。

 うむむむ。 どうしてでしょうね ... 。 BlogPeople, 謎です!



 (ping 送信ツールの誤作動とかなんでしょうか)

 (ま、世のなかは、不思議なことに満ち溢れているので、いっか!)










 BGM:
 CARNATION ‘Karamawaru Sekai’
 (カーネーション 「からまわる世界」)


 昨年 発売された結成二十周年アルバムより。 直枝氏の絶妙なポップ・センスと、哀愁を漂わせた、男くさいヴォーカルが好きなのです。 男性にしか うたえない歌でしょうか。

 (ほんとうは、邦楽には うといのですけれど、一時復活後、なんとなく邦楽ばかりを選曲するワタシ ... )

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正しい『ブログ』の作り方(後編)

2005年01月19日 21時03分37秒 | goo ブログ / blog
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 「ブログ」 と 「日記サイト」 の違い



 この文章を書くにあたって、そもそも “blog” って いったいなんだろう? と、いまさらながら考えた。

 IT用語辞典 e-Words および、Wikipedia にて、ほぼ同内容の回答が得られた。

 以下、e-Words から抜粋して、引用。



一般的には、単なる日記サイト(著者の行動記録)ではなく、ネットで見つけた面白いニュース記事やWebサイトへのリンクを張り、そこに自分の評論を書き加えた記事が時系列に配置されているWebサイトのこととされているが、厳密な定義はない。

(中略)

Web日記は独自の進化を遂げ、それまでの個人サイトでもない、紙の日記でもない新しいメディアとして台頭した。そうした新しい形式の日記風サイトを指す言葉として「Web」と「Log」(日誌)を一語に綴った「weblog」という言葉が誕生した。



 なるほど。 web + log というのは、周知のことであるが、log というのは、「日記」 というより、「日誌」 という意味であったっけ。



Weblogでは個人の行動の記録は重視されず(一切載せないわけではない)、ネット上で独自に見つけた面白いもの、変なもの、スクープなどを紹介し、そこにリンクを張って論評を掲載するという形式が主流。



 「個人の行動記録」 や 「日記」 は、本来は 主流ではなかったのだ。

 そういえば。 はじめて、weblog らしきものを見たときの印象は、カレンダーがあったり記事が時系列に並んでいたり、カテゴリー分けがなされていたり、記事単位にリンクが張られていたりして、容易に目的の日付や、興味のある話題、読みたい記事へ、ハイパーリンク移動できるのが 新しいな、と思ったのが第一。 もうひとつは、各記事にコメントがつけられること。 これも大きかった。 (trackback 機能については、そのときは、なんじゃらほい、と思っていたのか、まったく印象に残っていない ... )

 そして、淡々とした 「個人のつぶやき」 ではなく、情報/意見 発信型のメディアでなければならないのかと思っていたのだ。

 (それゆえ、この blog,当初は、ニュースに対して言及する記事が多かった。 しかし、情報量や質の高さ、速さなどの点で、すでに多くあったニュース blog に かなうわけがないので、ニュースや情報を厳選して、じぶんなりのコメントや批評を付けて記事にする、という やり方を目指していた)

 途中から、ニュースを追いかける気力・体力・時間がなくなったり、「こうあるべき」 というような考え方など吹き飛ばしてしまうような、自由な表現活動を行っている 他の blog に影響され、現在では、じぶんの好きなことを書くようになった。 日記ふうのもの、日々の想い、創作文、などなど。

 また、わりと有名な日記サイトとか、テキスト系サイト ―― というのだろうか? コラム中心のサイトという意味であるが ―― のいくつかが、blog に移行しているのを知ったのも大きかったかもしれない。

 e-Words によると、「日記サイト」 オーナーのなかには、weblog とは区別して考えている人もいるようであるが ... 。



日本にも似たような形式のサイトが数多くあり、「個人ニュースサイト」または単に「日記サイト」などと呼ばれているが、これはアメリカで産まれたWeblogを導入したものではなく、独自に発生・進化してきたものである。日本の一部のネットコミュニティでは、アメリカでWeblogが注目される以前から個人ニュースサイトが定着していたこともあり、「Weblog」と呼ばれることを嫌うサイトオーナーもいる。



 やはり、「web 日記」 と blog は ちがうものなのだろうか ... などと考えながら、さらに調べてみたところ、興味深いコンテンツを発見した。

 pc world というサイトのなかのコラムのひとつのようなのだが。

 「blogとは」「03.12.14更新 一部変更&加筆」 となっている) のなかの一章、「なぜ、日本でblogが流行らないのか」 である。

 2003年12月の時点では、まだ、blog は流行ってはいなかったのだろう。 ちらほらと話題にはなっても。 そして、この筆者のかたは、今後も流行らないだろう、と思っていらっしゃったのか。

 以下、ちょっと長めの引用 ... 。



(前略)

blogは「発信型」のものだ。日記では自己記録の役割が強いが、blogは発信、何か意見を公に発表する、それによって構築環境によっては読者の意見を求めるというのが主だ。だから物事に関して自分の意見を述べる(賛同、批判等)ことが必要になってくる。文才があったり、おもしろいようなひきつけるような文章が書ける人の日記ならいいが、ただ、1日の出来事を述べただけの日記ならあまり興味を示してもらえないかもしれない。「自分の意見を積極的に配信する」というのは、日本人にとってあまり得意なことではないと言われている。昔から言われている一般論なので今現在がどうなのかはわからないが、少なくとも欧米人に比べると苦手な人が多いのではないだろうか。だから日記で済ませられる場合が多い。



 日本人が、積極的に意見を発することが得意でない、というのは、ちょっと、わかるような気はする。 文化のちがいか。

 もともと日本では、「小さい頃の絵日記など」 のように、「文化的にも日記を書くという習慣が植え付けられている」 という。

 日本独特の 「日記サイト」 がすでに根付いてしまっていること、また、もともと 「blog に興味を向けたのがかなり専門色が強い方々なので、かなり濃い内容のblogがわりと多いのも事実」 ゆえ 「一般の人がblog世界に入ることを躊躇してしまう」 ことが、「日本で blog が流行らない理由」 ではないか、と述べられている。

 ふむふむ。 なるほど。 やはり、「日記」 と 「blog」 は 別物と考えている人が多かった、ということだろうか。

 この説から、それでは、なぜいま、「日本で blog が流行っているのか」 を考えると、blog を日記サイトの替わりにする人が増えたからなのではないか、と推察してみたのだが。

 「日記サイト」 のみならず、これまでの web サイト (ホームページ) の替わりとする人が。 写真、絵、料理のレシピ、つぶやき、メモ、備忘録、詩、小説、創作/表現活動の宣伝、etc ... の公開の場とする人が。 また、これまで web ページを開設したことはないけれど、簡単に、気軽に、web 上にじぶんのページが持てるので、はじめてみたという人も。

 上記のサイトで言及されていたような、「blog世界に入ることを躊躇して」 いた人たちが、次々と blog 界へ踏み込まれたのではないか。

 (なんかえらそうだ ... 。 もちろん、私もその一人に含まれる)

 blog の全体像を把握しているわけではないので、かなり乱暴な大雑把論かもしれないが。

 この大雑把論をさらに飛躍させると、もしかすると、本来の “blog” とはちがった、日本独自の “ブログ” が形成されているのではないかと思うのだが ... 。

 そう。 “blog” と “ブログ” はまったく別物なのではないかしら、と。

 現在 爆発的な広がりをつづけている “ブログ” は、かつての “blog” ではなく、“web サイト(ホームページ)” でもない、まったく新しいメディアなのではないか。

 『goo ブログ』 が かつて 『goo BLOG』 と表記していたのを現在のように変えたのは、昨年の九月くらいだったろうか。 英字からカタカナ表記に変えることに なにか意味があるのだろうか、などと思ったものだが、ひょっとすると、深くて大きな意味があったのかも ... ?

 前編でもふれたが、この、新しいメディア。 まだまだ、「こうあるべき」 というものは、定まらないものなのかもしれない。

 だからこそ、いまのうちに、思いっきり使い倒すべきなのだろうか。

 「正しい 『ブログ』 の作り方 (使い方)」 は、これから、徐々に徐々に、形作られていくのかもしれない。





 ( ... てなオチで、どうでしょう??? がくがくぶるぶる ... )










 BGM:
 Roughy Toughy ‘Kokoro no Kaihou-ku’
 (ラフィータフィー 「心の解放区」)


 忌野清志郎氏を中心に結成されたロックバンド、ラフィータフィーの作品。 ラフィータフィーは、99年、Fuji Rock Festival に出演した。

 「ラフィータフィー」 の意味は、rough で tough な、ということではないか、と勝手に思っているのだが ... 。
 (上記の英字の綴りは、私の勝手な当て字です。 ほんとうは、Ruffy Tuffy ? )

 完成され切っている blog よりも、荒削り (rough) ながらも、打たれ強い (tough) blog に、こころ惹かれるのである。

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正しい『ブログ』の作り方(前編)

2005年01月19日 17時26分24秒 | goo ブログ / blog
 「新しいメディア」



 世に言う、ブログ (blog) というものが生まれて、どれくらいだろう?

 四年とか五年くらいだろうか。

 日本で広まりはじめてからは、まだ二年か三年くらいとか?

 じぶんが、たまたま早い時期から知っていたせいか、blog ということば、かなり以前から馴染みがあるのだが、現在では、いったいどれくらいの認知度があるのだろう? などと考えたりする。

 一年ほど前の Slashdot Japan の記事 によると、その時点での調査結果としては、“Blogなんて知らない”女性が9割 だったそうだが ... 。

 (「『ブログ』 ってなに? 『ブクロ』 なら知ってるけど」 のコメントを一年前に見て、笑ってしまった私である ... )

 しかし、この一年で急速に blog が広まった、という感があるのは、実際にじぶんがこの一年のあいだに blog (のようなもの) を開設し、記事更新にいそしんでいたせいだけではない、と思っているのだが ... 。



 『goo ブログ』 がサーヴィスをはじめたのが、昨年三月。 私がこの ID を取ったのが、三月二十六日で、 翌二十七日から記事を書きはじめた。

 そのときの、『goo ブログ』 開設数は、二千とか三千だった。

 当時の 『goo ブログ』 は、たしか、テンプレートが十五枚くらい(?)で、かなりシンプルなデザインのものしかなかった。

 アップロードできる画像のサイズ (高さと幅) に制限もあった。
 (制限値以上の場合、自動的に制限最大値に縮小されてしまう)

 記事の最大文字数が四千文字、記事タイトルが十五文字まで、とか、Recent Commnet (最新のコメント)、Recent Trackback (最新のトラックバック) の表示がなかったり、とか、機能的にいろいろ制限が多かった。

 (そうそう、絵文字機能もなかった)

 ちょっとずつ、ユーザーの希望、要望を取り入れて、改善されてきている ( ... のか?)。

 手さぐりで、一歩ずつ、一歩ずつ、“blogosphere (ブログ界)” が作り上げられていく感じなのだろうか。

 割と早い時期から 『goo ブログ』 で blog を開設していたせいか、そういったところに、なぜか、なんともいえない、いとおしさのようなものを感じてしまう。 使い勝手の悪さを、なんとか補おうと、ない知恵を絞ったり、手作業でいろいろ工夫したりしていたせいかもしれない。

 そんな、日々の結晶ともいえる、この blog. すでに更新をやめて、二ヶ月以上経っている。 なにか有用な情報があるわけでもなし、明確なコンセプトがあるわけでもなし、約束の記事も書けない状態では、このあたりで決断すべきではないか、と思うものの、なかなか閉鎖できないでいる。

 ―― いや。 私は、いつまでもこの blog を放置している、その言い訳を書くつもりではなかったのだが。

 なにを書きたかったのか、というと。

 blog なんて。

 まだまだ、歴史の浅いものなのだろうか、ということなのだ。

 日本において、“blog” というものが急速に一般的になって、たかだか一、二年。

 使い方一つで、どうとでも変化しうるような、まだまだ新しいメディアなのではないか、と。

 そして、まだまだ手さぐりで、右往左往している状態なのではないか、と。

 だから、どれが正しい blog で、どれが正しくない blog かなんて、まだまだ、だれにもなんにも決められないのでは、なんて思ったりする。

 古い web の常識に囚われていると、おどろくようなことがたくさんあって、blog 更新に情熱を注いでいたかつての約半年間は、ほんとうに刺激的な日々だった。

 こんなことって、できるんだ。 こんなこと書いても、いいんだ。 こんなことしても、いいんだ。 ... なんて思いながら、どんどん blog の渦に巻き込まれていってしまった。

 これから、“blog” がどのように変化し、どのように成長し、どのように形成されていくのか。 今後は、ちょっとはなれた岸から、傍観するのかもしれない。

 そして、本来の “blog” とは かけはなれたような、こんな私の blog なんて ... と思うこともあるけれど、こんな blog でも、見てくださるかたがいるのなら、残しておいてもいいのだろうか ... ? などと考えるのである。 ―― これが、(いまのところ) この blog (のようなもの) を閉鎖しない理由なのだ。








 * 記事タイトルは、眼鏡牛さんの blog 「正しい『三十路』の作り方」 へのオマージュ(?!)です。
  (眼鏡牛さん、勝手にすみません!)

  ちなみに、眼鏡牛さんは、本日お誕生日! おめでとうございます。

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幸福を知らせるノック / Closing Time

2005年01月17日 12時05分38秒 | 現実と虚構のあいだに
short story:


 きょうも、また、一日が終わった。 長い一日が。

 おれは、ひとり、カウンターに凭(もた)れかかりながら、客にはぜったいに出さない とっておきのヴァイスを飲(や)っていた。

 重い腰を上げて、ふう、と ひと息をつきながらカウンターに入ると、かけっぱなしになっていたレコード ―― 客からリクエストされた Led Zeppelin のライヴ・アルバム、『狂熱のライヴ』 ―― を仕舞って、「いつものやつ」 に針をのせた。



    Tom Waits “Closing Time” (1973年)



 一曲目 ‘Ol' 55’ の軽やかなピアノのイントロにひきずられるように、一日の疲れが どっと身体にのしかかってきて、おれは、カウンターによろめきこんだ。

 そして、カウンターに顔をうずめながら、だれもいやしないのに、弁解めいたことをつぶやいた。 いや、ね、Led Zeppelin が だめだってわけじゃあないんだ。 Zeppelin も好きだよ。 ただ、いまは、「狂熱」 よりも、Tom の声がほしいんだ。 と。

 Tom の歌声は、おれの身に、そっと沁み込んでくる。 おれのまわりを囲んで、おれをすっぽりと包んで、やさしく撫でさすって呉れるような、そんな気がするのだ。

 午前三時。 だれもいない、閉店後の室内の薄明かりに ひとりまどろむおれは、Tom の歌声に守られていた。

 こわいものはなにもない。 なんの心配もない。 ―― そんなふうに思うと、のどの奥から、ふいに、涸れたつぶやきがあふれ出てきた。



   おれは しがない、バーのマスター。

   金もなければ、女もいない。

   おれは しがない、バーのマスター。

   この店だけが、おれの持ち物。

   それでいいのさ。

   それでいいのさ。



 あまりにもくだらなくて、自嘲すらも もったいない気がした。 どうやら酒が足りないようだ。 ―― おれは、二本目のヴァイスを取り出した。

 そこへ、店の戸を、コツ、コツ、コツ、と叩く音がした。 いったい、だれだろう? こんな時間に。

 見ると、ほんの少し開いた戸の隙間から、女の白い顔が出てきた。 店の客だ。 数時間まえまで カウンターで呑んでいた、ちょっとかわいい、女の子。 ちょっと? いいや、ホントは、すごく、かわいいのだ。

「あれ? どうしたの?」 とたずねると、その子は、

「辻さん! ごめんね、わたし、ケイタイ、置いてっちゃったみたいなんだけど。 なかった?!」 と、泣きそうな顔で訊いてきた。

 見渡してみると、カウンターの下に、メタリック・ブルーのカタマリが転がっているのが、すぐにわかった。

「ああ、あった! 良かったあ」

 彼女は、ほっとした様子で携帯電話を拾いあげると、コートの袖で、さすってみせた。 あたたかそうな、見るからに仕立ての良さそうなコート。 彼女の白い顔がくっきりと浮くような、深くて上品な、黒。

 そんなにいとおしいケイタイなのかね。 ―― なんて思いながら、おれは、その様子を見ていた。

 しかし、女の子のくせに、メタリック・ブルーってのも、変わってるよな。 まあ、こんなさびれたバーにひとりで呑みに来ている時点で、カワッタ女の子なのかもな。

 だいたい、彼女みたいな女の子が、なぜ、おれのところに来るのか。 彼女ならば、きっと、どこぞのこじゃれたバーのほうが似合っているような気がするけれど。 ―― そんなことを考えながら、じっと彼女を見つめていたせいか、彼女は、ちょっと照れたように、

「なに呑んでるの?」 と、おれのヴァイスのグラスに目を遣った。

 はっとして、おれは、眼差しをほどいた。 「ン? これ? ドイツの白ビール」

「ふうん、そんなの、お店のメニューにあった?」 なんて、すかさず彼女が訊いてくるので、おれは、ちょっと笑ってみせた。 彼女が、さぐるようにおれの眼をのぞき込むので、しょうがなくおれは、カウンターに入り、とっておきのヴァイスを取り出して、彼女に投げた。

 彼女は、しっかり受け取ると、「わあい」 と無邪気によろこんで栓を開けた。 そして、ぐいっとのどに押し込むと、「おいしい! 冬に合う感じ」 と声を上げた。 彼女は、かわいい顔をして、いい呑みっぷりをするのだ。

 あーあ、ホントは、グラスに入れたほうが うまいのに。 ―― なんて思いながらも、グラスを渡すタイミングを計れず、

「だろ?」 と、調子を合わせてみた。

「お店に置けばいいのに」

「おれは、ホントに好きなもンは、人には教えてやンないんだ」

 彼女は笑った。 彼女の、憂いを含んだようなソプラノ ―― Laura Nyro みたいな ―― が、薄暗い店のなかで心地よく転がった。 むかし、おれの家で飼っていた ねこの首輪の鈴音みたいだ、と思った。

 外の空気が冷たかったせいなのか、頬が染まっていて、彼女は、いつもより幼く見えた。 彼女は、ヴァイスの瓶を握りしめて、ちょっと首をかしげた。 白い顔に浮かぶ思案の表情。 おれがいつもカウンター越しに胸をときめかせる、あの、つややかな貌(かお)。

 考えてみると、こうしてゆっくり彼女と向かい合うのは、はじめてだった。 ひとりで呑みに来ていても、彼女は人気があって、野郎の客たちの絶好の話し相手になっていたから。

 思わぬ幸福なひととき。 たまには、いいこともあるもんだ。

 彼女は、すぐに帰ろうと思っていたのだけど、せっかくビールをもらったから、もう少しゆっくりしていくわ ―― とでも言いたいかのように、変な勢いをつけて、カウンターに腰を下ろした。

 “Closing Time” の A 面が終わったので、おれは、レコードをひっくり返した。

「これ、だあれ?」 ―― 彼女は、おもむろに、音楽のことを訊いてきた。

「トム・ウェイツっていうオヤジ。 このころはまだオヤジじゃないけどな」

「なんていうタイトル?」

「『クロージング・タイム』」

「『閉じている時間』?」

「ウーン、『閉店時間』ってことじゃネエカ? バーの閉店時間。 ジャケット見てみな。 そんな感じするだろ?」

「うん、そうね。 すてきね」 と言って、レコード・ジャケットにたたずむ Tom の姿 ―― 薄明かりのなかで、ピアノに凭れかかり、煙草を燻(くゆ)らす ―― に見入った。

「ああ、なんだか、これ、ほんとうに落ち着くね」

 彼女は、沈黙を避けるように ことばをつないだ。 酒のことを言っているのか、音楽のことを言っているのか、わからないけれど、きっと、音楽のことを言っているのだろう、と思った。 そんな彼女が、なんとなく、かわいらしく思えた。

 彼女は、ほんとうは、こんな時間に、こんなところに、いるような子じゃないんだ ―― そう思うと、おれの のどの奥から、一日の疲れを溜め込んだ しわがれた声がしぼり出てきた。 ―― ああ、彼女の声と、なんて ちがいなんだ。 美女と野獣か。

「だろ? アルバムのタイトルどおり、こうして店が終わったあとに聴きたくなるンだよね」

「お店が終わったあとにしか、聴かないの?」

「言ったろう? おれは、ホントに好きなもンは、人にゃ教えてやらないって。 みんながいるときには、かけないよ」

「いじわるね」

「ウン。 いや、ホントはさ、じぶんがものすごく好きなレコードって、つい聴き入っちゃうから、ひとりのときに聴きたいンだよね」

「ああ、そうね。 わたしもそうかも知れない。 ほんとうに好きな曲は、ひとりでじっくり聴きたくなるな」

「そうだろう?」 ―― こんなおれのたわ言に同調してくれる彼女のやさしさがうれしくて、おれはつづけた。

「おれはさ、『いやし系』 なんてことば、大嫌いだけど、この世のなかに、もし、人のココロをいやせる音楽ってもンがあるなら、このアルバムがそうかも知れない、なんて思っててさ。 一曲目のイントロ聴いただけで、ホロリとくるよ。 それくらい大好きだから、もう、客なんかほったらかしで聴き入っちまう」 ―― 調子に乗って、さらに音楽おたくぶりを発揮してしまう有り様だった。

 彼女を見遣ると、彼女は退屈そうな様子も見せずに、

「そんなに好きなのね。 ごめんなさいね、邪魔しちゃって」 と、あのブルージーなソプラノで包んで呉れた。 それは、古いピアノの、高いほうの音が さざなみを打つときのように、おれのむねを揺らした。

「いや、いいンだよ。 ナッチャンだから、特別」 ―― われ知らず本音が出てしまい、あわてて それをゴマ化すように、音楽の話に引き戻した。

「ナッチャンさ、イーグルスって知ってる? そう、『ホテル・カリフォルニア』 の。 あいつらがさ、トム・ウェイツの曲、カヴァーしてるンだよ。 このアルバムの一曲目。 ホント、いい曲だよ。 いや、ほかにも、いい曲いっぱいあるけどさ。 ナッチャンも、きっと好きだと思うよ。 酒呑みなら、きっと、沁みるよ。 トム・ウェイツ自身がのんべえだから。 のんべえのキモチを歌わせたら、ホントにすごいよ。 ナッチャンも のんべえだろ?」

「いやだ、わたし、そんなにのんべえじゃないもの」

 彼女は、クチビルを尖らせた。 ―― なんてかわいい口なのだろう!

「いいや、のんべえだね」 わざと、からかうように意地悪く言ってみた。 小学生か、おれは?

「もう、ひどい」

「もっと呑むかい? ヴァイス」

「ヴァイスなら、もらう!」

「やっぱり、のんべだ」

「のんべえじゃないもん」

 こんな真夜中にキャッキャとふざけて。 おれたちゃ、いったい、なんなんだ? まるで、すごく、イイ感じみたいじゃないか。 ―― ふいに我に返って、気恥ずかしくなった。 彼女は、こんな時間に、こんなところで、こんなおれと、ふざけ合うような、そんな女の子じゃないんだ。

 このままこうして、彼女と、朝まで語り合えたら、どんなにかステキだろう。 けれども、それは、ほんのひとときの、夢でしかありえない。 たのしい時間は、もう終わりだ。

 おれは、顔を引きしめて、「あのサア、やっぱり、もう、帰ンなよ」 と、歯をきしませながら、ゆっくり、言った。 言いたくもないことばを言わなきゃならないってのは、なんてみじめなのだろう。

 急におれがそんなことを言うものだから、彼女は、ほんの少し まゆを寄せてみせた。

 おれが、弁解するようにあわてて、「いや、もう遅いし。 明日も仕事だろ?」 と言うと、彼女は、そうね、と言って、立ち上がった。

 むねがズキン、と痛んだ。

「送っていこか?」 ―― 彼女のうしろ姿に問いかけた。

 彼女は、ちょっと振り返って、しずかに微笑んでみせた。 「辻さんって、やさしいのね。 でも、だいじょうぶ。 ひとりで帰れるから」

 そう言って、しずかにドアのほうへと吸い込まれていった。

 ああ、そうだ。 彼女は、おれなんかが、家まで送っていいような子じゃないんだ。 彼女は、ひとりで、戻らなくちゃいけないんだ、彼女自身の世界に。 サヨナラ。 オヤスミ。 また今度。 キミのうしろ姿を、ずっと見送るよ。

 ドアのところでふいに、彼女は、つと振り返った。 そして、

「辻さんは」 ―― いったんことばを切って、「辻さんは、わたしに、ヒミツを教えてくれたでしょう? 辻さんの、ほんとうに好きなもの。 だから、わたしも、わたしのヒミツを教えてあげる」 と、言い出した。 のどに詰まった小骨をするりと取り出すみたいに。

 まるで、蒼い花がひらくときのような、一瞬を感じた。 一瞬? 永遠?

「ええ? いいヨ! そんな、たいしたもンじゃないから!」 おれは、あわてて じぶんのむねのふるえを隠した。

 けれど、のどから小骨を取り出してしまった彼女は、引き下がらなかった。 「だって、人のヒミツを知るのって、重いでしょ? ヒミツをひとつ知るには、ヒミツがひとつ必要だ、なあんていう詩もあるんだから。 だから、わたしのヒミツを教えて、ひとつ、軽くならなきゃ」

 ―― おれは、うなづくしかなかった。

 蒼い花は、ゆっくりと頭をもたげた。 やっぱり、ほんの少しためらっているらしい。 けれども、一度ひらいてしまった花は、もう、引き返せないのだ。

 彼女は、にらむように、ぎゅっとおれを見つめた。

 いったい、なんだ? もう、この店には来ない、とか、結婚するの、とか? アタシ、ホントは、オトコなの、とか? ―― どうしよう。 どうしようもねえか。

 ああ。 このまま、なあんにも知らずにいたほうが、しあわせなのかもナア。 時間よ、止まれ。 時間よ、止まれ。

 彼女は、そんなおれのこころなぞ、知ってか知らずか、容赦なくつづけた。 まったく、女ってやつは。

「ほんとうはね」

 ―― ああ、やっぱり、オトコなのか? ばかなことを。 思いっきり眼を閉じて、その瞬間を待った。

「ほんとうは、わたし、ケイタイ、忘れていったんじゃないの」

 ―― 想像していたようなことばからあまりにもかけ離れていたせいか、意識を遠くにやっていたからか、なにを言っているのか、よくわからなかった。 でも、オトコじゃなきゃ、なんだっていい。 彼女が、彼女であるなら、それだけで、いいのだ。

「ほんとうはね、わざと、置いていったの」

 へえ。 わざとねえ。 で? ―― おれは、なにも言えず、ただ笑ってみせた。

「だから、わざとなの。 で、わざと、いま、取りに来たの。 お客さんがだれもいなくなってから。 だって、お店にいるときは、辻さんとゆっくり話ができないでしょう?」

 ふうん。 そっか、そっか。 よかった、よかった。 オトコじゃないんだ、女なんだ。 ホントによかった。

「なに、ニコニコしてるの? ちゃんと意味、わかってる?」 ―― 彼女は、もう、蒼い花ではなかった。 ついさっきまでのように頬を赤くして、無邪気な、怒ったような顔をしてみせた。

 そりゃあ、そうだ! こんなにかわいい子が、オトコのわけがない。

「ウーン、イミ? わかンない。 でも、よかった、よかった」

「なにがいいの? んもう、辻さんって、ほんとうに鈍感なのね」 と、彼女は、また、クチビルを尖らせたが、おれがへらへらしていたので、あきらめたようにため息をついた。

「わたしが今度お店に来るときまでに、意味、ちゃんと考えておいてよ、ね」

 そう言って、彼女は、ふわりと去っていった。

 おれは、彼女の残していった、なんともいえない、あたたかな余韻にひたりながら、ひとり佇んだ。

 意味? いったい、どんなイミがあるっていうんだ? 女ってのは、なんでああやって、妙な謎かけをするんだろう。 おれが鈍感すぎるだけなのか? ―― Tom Waits の歌声にまみれながら、ウンウンうなってみたけれど。

 ようやく意味がわかり、〈そうだったのか、こんなおれを?〉 という うれしい気持ちと、〈いやそんな馬鹿な、こんなおれだもの〉 とじぶんを制する気持ちで、むねがいっぱいになったのは、ちょうど、レコードが “Closing Time” の最後の曲を奏でるときだった。

 “Closing Time” ―― 不思議な、四十五分 五十五秒 の物語。

 おれは、カウンターに残されたヴァイスの瓶を見遣って、大きく伸びをした。 そのまま、バンザイをしたくなった。

 おれは、店の戸を締め、階段を一気に駆け下りた。 三段飛び、四段飛びして降りたい気持ちを抑えつつ。

 そうして、いつもの帰り途を足早に歩きながら、考えたのは、幸福などというものは、待っているときには、来やしない、ということだった。

 幸福は、思ってもみないときに、すぐそこのドアから、やって来るものなのかも知れない、と。

 待って、待って、待ちくたびれて、もう、いいやって、あきらめたころに、ふいに。

 そうしていつも、おれたちを、あっと言わせるのだ。

 幸福を知らせるノックが、三回、鳴って。





―― TO THE WAITING FEW.
















 BGM:
 Tony Orlando & Dawn ‘ノックは三回 / Knock Three Times’

 (「なつメロ」 として括られている、トニー・オーランド & ドーンの 1971 年のヒット曲。 私は、まだ生まれていないときのものだけれど。 どことなく、なつかしさに、こころをくすぐられる曲である)

 (※ 裏 BGM としては、小沢健二さんの 「ドアをノックするのは誰だ」 をおすすめいたします :) )


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幸福なフォント

2005年01月17日 11時23分45秒 | 想在
 ひさしぶりに。

 なにか、書いてみようか、と思った。

 でも。

 いったい、なにを書いたらいいのだろう?

 書きたいことがありすぎて書けないのか。

 それとも。

 書きたいことがなさすぎて書けないのか。

 どちらなのかさえも、わからない。

 とりあえず。

 ちょっと、身体を慣らすために、くっだらないことでも書いてみようか。

 そう。 今日、メール・チェックなぞしていたら、空目したのだ。



   「このメールは、等幅フォントでお読みください」



 が、

 なぜか、



   「このメールは、幸福フォントでお読みください」



 に見えてしまった。

 幸福フォントって。 いったい、どんなフォントだろう?

 見ただけで、幸福になれるようなフォント?

 救いようのないかなしみに打ちひしがれているときでも、たとえようのない苦しみに息をころしているときでも、読んだ途端、幸福な気持ちが、白い花のように浮かんでくるような、そんなフォント?

 たとえば。 どんな悪文でも、どんな駄文でも、非の打ちどころのない美文麗文に仕立て上げられるような、そんなフォント?



 ―― そんなフォント、あったらいいのにねえ ... 。



 (いや、ないほうが、いいのか)

 (だって、そんなフォントがあったら、詩というものが、生まれなくなるのかも)










 ともあれ。 Happy New Year ! (遅っ)










 BGM:
 Eiichi Ohtaki ‘Koufuku na Ketsumatsu’
 (大滝 詠一 「幸福な結末」)


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