今年初めてと言うより、久しぶりの新規「城巡り」に感動!?
【歴史】
永正2年(1505)、豊川市北部に勢力を誇っていた一色城主・牧野古白が築城した。翌年、今川氏親が吉田城に入り西三河進出の拠点とした。東三河の多くが今川に従ったが、田原の戸田憲光は松平氏と通じたため、挟まれるのを恐れ氏親は兵を引いた。更に松平長親が攻めてきたため吉田城は落城し牧野古白は戦死した。その後、憲光の次男・戸田金七郎が城主となったが戸田氏と牧野氏で争奪を繰り返した。天文15年(1546)、今川義元が占拠したが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで戦死したのをきっかけに松平元康は東三河へ進出し始め、永禄8年、酒井忠次が吉田城を落とした。天正18年(1590)家康の関東移封に伴い、酒井忠次と子・家次は下総国臼井城へ移り、吉田城へは池田輝政が岐阜城から15万2千石で入った。池田輝政は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、姫路へ移った。江戸時代に入ってからは城主がめまぐるしく変わり、最後は大河内松平家で明治を迎えた。(説明文より)
【歴史】
永正2年(1505)、豊川市北部に勢力を誇っていた一色城主・牧野古白が築城した。翌年、今川氏親が吉田城に入り西三河進出の拠点とした。東三河の多くが今川に従ったが、田原の戸田憲光は松平氏と通じたため、挟まれるのを恐れ氏親は兵を引いた。更に松平長親が攻めてきたため吉田城は落城し牧野古白は戦死した。その後、憲光の次男・戸田金七郎が城主となったが戸田氏と牧野氏で争奪を繰り返した。天文15年(1546)、今川義元が占拠したが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで戦死したのをきっかけに松平元康は東三河へ進出し始め、永禄8年、酒井忠次が吉田城を落とした。天正18年(1590)家康の関東移封に伴い、酒井忠次と子・家次は下総国臼井城へ移り、吉田城へは池田輝政が岐阜城から15万2千石で入った。池田輝政は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、姫路へ移った。江戸時代に入ってからは城主がめまぐるしく変わり、最後は大河内松平家で明治を迎えた。(説明文より)
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