反省を知らない日本人がアジアを「開発」することは
日本のほとんどの人々に、わずか40年ほど前の歴史の認識も足りないのです。日本に来る前に、心の中の憎しみや恨みの気持ちを抑えるために、私はたくさんの時間をかけました。そのことによって、ひどいことをした日本人の子孫たちに再び友だちになる勇気を与えることを願っていました。しかし、留学した私の前に現れた日本人は、償いの気持ちなど全く持たず、勝手に歴史を消していました。そのように、勝手に戦争責任を逃れている日本人を見て、侵略された国の人間として「なさけない」気持ちがないわけがありません。いつの日か、日本の友だちを祖母の前に連れて行けることを期待していた私は、今、そのような夢が実現する日をとても遠く感じています。私の国の年輩の人々が「すべての日本人は悪人だ」と死ぬまで思い続けていることについても、あまり言う言葉がなくなりました。
また、反省することを知らない人々と同じ世の中に住むことも段々こわく感じています。日本人が自分たちの侵略をわからないままに生きていることは、実はアジアの諸国を不安の日々に置いているのです。戦争中、日本人は私の祖父母や両親の時代の人々に苦難を強いてきました。どうして私の時代になっても、まるで悪魔がこの世に存在しているように、私たちを安らかにしてくれないのでしょうか。
アジアの現実に対する認識も、歴史に対する反省もないのに、特にこの2、3年のように、日本人がアジアの諸国に企業進出をしたり、旅行をしたりしてもいいのですか。日本人の表の話からすると、「アジアを開発している」ようですが、現実には、日本人はアジアの国々を次から次へと土足で踏みにじり、再侵略をしているように見えます。そして「円」という武器で、アジアの人々を支配しているのではありませんか。
一度もその地の人々の気持ちを考えずに、自分の利益のために工場を建て、そしてそれらの工場が多くの公害を発生させて、アジアの人々の命を危険にさらしています。このようなやりかたは、かつての侵略戦争の時に銃と刀でアジアの人々を殺したこととどこが違うのでしょうか。また日本人は自分たちが休暇を楽しみ、時間をつぶすために、金で人々の土地を奪い、ゴルフ場や別荘やリゾートを築いています。これはアジアの国々を自分の領土にすることと同じではありませんか。日本の新聞がこれらのやり方を「開発」というオシャレな言葉で表現しているのを見て、私は日本人のずるさを一層深く思い知りました。
外国人労働者の「不法」は恥ですか?
日本における「外国人労働者問題」最近随分話題になっています。私は日本に留学生として滞在してきましたので、この問題についてそれほど詳しくはありません。しかし、何人かの友人が当事者ですから、ある程度わかっています。私が知っている範囲でも、彼らは日本社会に言いたいことがたくさんあります。この機会に、私は彼らのことについて、日本人と日本社会に一言だけでも伝えたいと思います。
この数年間にどうして外国人労働者が日本に増えてきたのでしょう。単純労働者の不足は日本企業が長い間直面していた難題でした。そして世界経済の不均衡のために円が高くなり、アジア諸国の人々に出稼ぎ意欲を燃え立たせました。それらの企業は、最初観光ビザで来日させ、オーバーステイの形で外国人労働者を導入していました。最近では、日本語学校のビザを使って入ってくる人が多くなりました。彼らが日本語学校生としてビザを取れるのは、双方にブローカーがいるからです。日本人のブローカーたちは経済条件が日本より低い国の人々の弱味と法の不整備を利用しながら、ずっと金を儲けてきました。そして教育能力のない日本語学校が雨後の竹の子のように一度に建てられました。そのことは、本当に勉強したいと思っている留学生には随分迷惑をかけました。
「外国人労働者の『不法』は人間の恥ですか?」これが、私がその数人の労働者と知り合った時に考えたことでした。「日本人は最近、留学生を見ると外国人労働者と考えたがる」と、私の留学生の友だちがあまり気持ちよくなさそうに言っていたからです。日本社会が外国人労働者を変な目で見ることにより、留学生も彼らを恥だと考えるようになったのだと思います。
「労働」のために来日した友人の口から、私が今まで経験したこともなく、想像もできないことを聞き、またよく彼らの生活を見ていると、私のうまれてからの生活は幸せすぎるのではないかと反省させられました。私は中でもラオスとベトナムで生まれた人たちと親しくなりました。国が政治的に不安定であったために、彼らは年少の時にやむを得ず国を出たそうです。このような背景を持った場合、生活に対する価値観も仕方なく単純化されることがあります。貧窮を恐れ、物質生活の安定のためには、どんな「ひどい状況」でも我慢できるようになるようです。
彼らは日本に来た後、ビザが切れたまま残っていました。彼らの仕事は普通の日本人ならやりたくない仕事ばかりです。しかも彼らの話によると、賃金は日本人の基準よりも低い上に、危険な仕事にも保障はありません。ある人は、怪我をしたのに会社からは一銭も貰えないので、自分の3か月分の給料を払って病院に行きました。また大家さんに「不法労働者」の身分を発見されて、寒い夜に追い出された人もいました。こんなひどいことでも、人々に知らせたり、助けを求める方法もなく、彼らはずっと沈黙したまま、日本の中で隠れて暮らしています。
企業は求め、法は認めない
ある時私は彼らに「不法労働者」に対する取締りが厳しくなってきたので、逮捕されるより早く帰国した方がいいのではないか、という意見を表明しました。彼らの一人が私の意見に反発し、怒って言いました。「私たちは日本で一度だって悪いことをしていません。ただ自分の努力で生活しているだけです。何故日本人は私たちのことをそんなに毒のように見るのか?」その気持ちが本当のものであることも、その苦しさも私にはよくわかっています。私は「法」と「情」の板ばさみになってしまいました。彼らが正しいのか正しくないのか、私ははっきりと認識することができません。
しかし私から見ると、彼らは日本経済の流れの犠牲者です。日本の企業は自分の利益のために日本人ではない彼らを働かせていました。その一方で、日本の法は彼らの存在を認めたくないとしていました。ですから、彼らはずっと自分の運命をそのどちらかの側の気持ちで決められ、自分たち自身では何もできませんでした。日本社会の不一致なやり方が人々を苦しめている様子を、この2年間ずっと見てきて、彼らを苦境から救い出す道が何かないのかと、日本の人々に問いたくなりました。
人間は皆同じ心を持っている筈です。自分より弱い立場の人々を踏みつけることができるのは人間の心をもっていない人です。現在の世界は経済の格差が大き過ぎて、強いものは人類の本性を忘れて、弱いものを喰って生きているように見えます。日本は強国だからと言って、他のアジアの国々を占有できると考えて、次か次へとアジアの資源を掘り返している大企業があり、日本に入ってくるアジアの労働者たちを奴隷のように使っている中小企業があります。
私は、人間はどの地域に住んでも、同じ「人間」という名前なのですから、お互いを平等に認め合うのは当然のことだと信じています。
孤独な精神貧乏
6年間は、人生の中ではそんなに短くない年数です。この間に日本円の対米ドルレートは240円から120円になり、年号も「昭和」から「平成」になっています。しかしこの日本という社会は、自分たちが侵略して被害を与えたアジア諸国の気持ちを理解しないままで来ていると、私は感じています。また、経済の豊かさは日本人に裕福な生活をさせているかもしれませんが、現実の世界にあっては、日本と日本人はとても孤独でかわいそうな精神貧乏です。目の前によく知っている日本人が一杯いても、私は彼らのことを友だちと言っていいかどうか、いつも迷っています。本当は共通の過去を持っていたのに、彼らはその過去を知らない顔をしています。だから私の側から見ると、私たちの関係には部分的に空白があります。そこにはついに無形の壁が立ってしまいました。真実のことは言いにくくなってしまい、将来についても話がつながらなくなりました。そんな表面だけの、楽しそうに見えるだけの付き合いなら、私は実際満足できません。従って当然、「友だち」とか「友好」とかいう言葉はなかなか使う場がなかったのです。
「昭和」という時代に起こったことを認識していない現在の若い日本人たちが、そのまま「平成」の時代を暮らしてゆく日本はどうなりますか。平和を望んでいるとしても、「二度と日本に原爆が落とされないように」という程度の理解で十分なのですか。侵略戦争の主役には再びならないという保証はどこにありますか。
互いの黙契を求めて
日本人の中でも、この問題を見抜く人々がいます。ほんの少ししかありませんが、大変嬉しいことです。
先日、私は「丸木美術館」を訪ね、年長の画家丸木位里先生と俊先生の美術作品を拝見しました。私はそこで、二人が描いた「原爆の図」と「南京大虐殺の図」の二画が同時に展示してあることに大変感心しました。位里先生は88歳俊先生は77歳で、この戦争を経験してきた人々です。自分の被害と共に自分の国の恥も見せられるのは大変心の広い方だと、私は尊敬してしまいました。彼らのように真誠を守り、良心的に歴史を見る日本人は今まで少なかったのです。世界を結ぶということをしたいのなら、日本は彼らのような人を増やしたほうがいいと思います。もし私と日本の人々がこの絵の前に立って、われわれの父祖たちがどんな環境にあったか、どんな経験をしたかを考えれば、次の行動をするための互いの黙契はきっとできると思います。それだけが「平和」の道を歩いてゆける方法です。
日本人以外のアジアの人々の中には、日本人に欠けた認識を証言している人は大勢います。私の先輩でシンガポールの歴史学者の蔡史君(チュア・スークン)さんが編集した『新馬華人抗日史料・1937-1945』が1984年シンガポールで出版され、1986年にはそのシンガポール部分が日本語訳されて、『日本軍占領下のシンガポール』として日本でも出版されました。その中に、日本人は「知らない」と言っていますが、日本軍が当時シンガポールでやったことが書いてあります。(注・本誌『アジアの友』1986年8月号参照)また私は直接会ったことはありませんが、丸木美術館発行の画集で、中国の画家、周思聰さんの「王道楽土」を始めとする一連の画を見ました。50年前日本人が中国の東北を侵略した時の中国人民の苦しみが画を通して伝わってきました。私も日本人の若い人々も、これらの文献や作品を大切にするべきだと思います。そのことによって、私たちの間の矛盾も解決してゆくことができそうな気がしています。
地図で見れば、日本もアジアの国々の一つです。アジアは互いに秘密がないようにしましょう。既に起こったことを隠す必要はまったくありません。一日も早く、日本の指導者も一般の人々も、最低限、それらの歴史の事実を認識してほしいです。その上で、アジアのほかの国々の人々と共に、これからの世界をどうやって創ってゆくのかを考えるべきだと思います。
終りに
目が覚めると日本のことをずっと見ていた毎日でした。不安と不満ばかりの日々でした。もし私が日本に対して冷たい態度を取ろうとすれば、留学生時代が終わったら黙って帰っても勿論悪くないのです。しかし、好きであれ嫌いであれ、日本とは6年間の“情”でつながっていることは否定することのできない事実です。そう思えば、軽く「さようなら」を言って日本から去ってゆく気にはなかなかなれません。だから将来後悔のないように、私はこんな別れ方を考えました。重いけれども、日本人のあなた方の頭に置いて欲しいのです。(1989年3月20日)
『アジアの友』第273号掲載(1989年5月10日発行)
日本のほとんどの人々に、わずか40年ほど前の歴史の認識も足りないのです。日本に来る前に、心の中の憎しみや恨みの気持ちを抑えるために、私はたくさんの時間をかけました。そのことによって、ひどいことをした日本人の子孫たちに再び友だちになる勇気を与えることを願っていました。しかし、留学した私の前に現れた日本人は、償いの気持ちなど全く持たず、勝手に歴史を消していました。そのように、勝手に戦争責任を逃れている日本人を見て、侵略された国の人間として「なさけない」気持ちがないわけがありません。いつの日か、日本の友だちを祖母の前に連れて行けることを期待していた私は、今、そのような夢が実現する日をとても遠く感じています。私の国の年輩の人々が「すべての日本人は悪人だ」と死ぬまで思い続けていることについても、あまり言う言葉がなくなりました。
また、反省することを知らない人々と同じ世の中に住むことも段々こわく感じています。日本人が自分たちの侵略をわからないままに生きていることは、実はアジアの諸国を不安の日々に置いているのです。戦争中、日本人は私の祖父母や両親の時代の人々に苦難を強いてきました。どうして私の時代になっても、まるで悪魔がこの世に存在しているように、私たちを安らかにしてくれないのでしょうか。
アジアの現実に対する認識も、歴史に対する反省もないのに、特にこの2、3年のように、日本人がアジアの諸国に企業進出をしたり、旅行をしたりしてもいいのですか。日本人の表の話からすると、「アジアを開発している」ようですが、現実には、日本人はアジアの国々を次から次へと土足で踏みにじり、再侵略をしているように見えます。そして「円」という武器で、アジアの人々を支配しているのではありませんか。
一度もその地の人々の気持ちを考えずに、自分の利益のために工場を建て、そしてそれらの工場が多くの公害を発生させて、アジアの人々の命を危険にさらしています。このようなやりかたは、かつての侵略戦争の時に銃と刀でアジアの人々を殺したこととどこが違うのでしょうか。また日本人は自分たちが休暇を楽しみ、時間をつぶすために、金で人々の土地を奪い、ゴルフ場や別荘やリゾートを築いています。これはアジアの国々を自分の領土にすることと同じではありませんか。日本の新聞がこれらのやり方を「開発」というオシャレな言葉で表現しているのを見て、私は日本人のずるさを一層深く思い知りました。
外国人労働者の「不法」は恥ですか?
日本における「外国人労働者問題」最近随分話題になっています。私は日本に留学生として滞在してきましたので、この問題についてそれほど詳しくはありません。しかし、何人かの友人が当事者ですから、ある程度わかっています。私が知っている範囲でも、彼らは日本社会に言いたいことがたくさんあります。この機会に、私は彼らのことについて、日本人と日本社会に一言だけでも伝えたいと思います。
この数年間にどうして外国人労働者が日本に増えてきたのでしょう。単純労働者の不足は日本企業が長い間直面していた難題でした。そして世界経済の不均衡のために円が高くなり、アジア諸国の人々に出稼ぎ意欲を燃え立たせました。それらの企業は、最初観光ビザで来日させ、オーバーステイの形で外国人労働者を導入していました。最近では、日本語学校のビザを使って入ってくる人が多くなりました。彼らが日本語学校生としてビザを取れるのは、双方にブローカーがいるからです。日本人のブローカーたちは経済条件が日本より低い国の人々の弱味と法の不整備を利用しながら、ずっと金を儲けてきました。そして教育能力のない日本語学校が雨後の竹の子のように一度に建てられました。そのことは、本当に勉強したいと思っている留学生には随分迷惑をかけました。
「外国人労働者の『不法』は人間の恥ですか?」これが、私がその数人の労働者と知り合った時に考えたことでした。「日本人は最近、留学生を見ると外国人労働者と考えたがる」と、私の留学生の友だちがあまり気持ちよくなさそうに言っていたからです。日本社会が外国人労働者を変な目で見ることにより、留学生も彼らを恥だと考えるようになったのだと思います。
「労働」のために来日した友人の口から、私が今まで経験したこともなく、想像もできないことを聞き、またよく彼らの生活を見ていると、私のうまれてからの生活は幸せすぎるのではないかと反省させられました。私は中でもラオスとベトナムで生まれた人たちと親しくなりました。国が政治的に不安定であったために、彼らは年少の時にやむを得ず国を出たそうです。このような背景を持った場合、生活に対する価値観も仕方なく単純化されることがあります。貧窮を恐れ、物質生活の安定のためには、どんな「ひどい状況」でも我慢できるようになるようです。
彼らは日本に来た後、ビザが切れたまま残っていました。彼らの仕事は普通の日本人ならやりたくない仕事ばかりです。しかも彼らの話によると、賃金は日本人の基準よりも低い上に、危険な仕事にも保障はありません。ある人は、怪我をしたのに会社からは一銭も貰えないので、自分の3か月分の給料を払って病院に行きました。また大家さんに「不法労働者」の身分を発見されて、寒い夜に追い出された人もいました。こんなひどいことでも、人々に知らせたり、助けを求める方法もなく、彼らはずっと沈黙したまま、日本の中で隠れて暮らしています。
企業は求め、法は認めない
ある時私は彼らに「不法労働者」に対する取締りが厳しくなってきたので、逮捕されるより早く帰国した方がいいのではないか、という意見を表明しました。彼らの一人が私の意見に反発し、怒って言いました。「私たちは日本で一度だって悪いことをしていません。ただ自分の努力で生活しているだけです。何故日本人は私たちのことをそんなに毒のように見るのか?」その気持ちが本当のものであることも、その苦しさも私にはよくわかっています。私は「法」と「情」の板ばさみになってしまいました。彼らが正しいのか正しくないのか、私ははっきりと認識することができません。
しかし私から見ると、彼らは日本経済の流れの犠牲者です。日本の企業は自分の利益のために日本人ではない彼らを働かせていました。その一方で、日本の法は彼らの存在を認めたくないとしていました。ですから、彼らはずっと自分の運命をそのどちらかの側の気持ちで決められ、自分たち自身では何もできませんでした。日本社会の不一致なやり方が人々を苦しめている様子を、この2年間ずっと見てきて、彼らを苦境から救い出す道が何かないのかと、日本の人々に問いたくなりました。
人間は皆同じ心を持っている筈です。自分より弱い立場の人々を踏みつけることができるのは人間の心をもっていない人です。現在の世界は経済の格差が大き過ぎて、強いものは人類の本性を忘れて、弱いものを喰って生きているように見えます。日本は強国だからと言って、他のアジアの国々を占有できると考えて、次か次へとアジアの資源を掘り返している大企業があり、日本に入ってくるアジアの労働者たちを奴隷のように使っている中小企業があります。
私は、人間はどの地域に住んでも、同じ「人間」という名前なのですから、お互いを平等に認め合うのは当然のことだと信じています。
孤独な精神貧乏
6年間は、人生の中ではそんなに短くない年数です。この間に日本円の対米ドルレートは240円から120円になり、年号も「昭和」から「平成」になっています。しかしこの日本という社会は、自分たちが侵略して被害を与えたアジア諸国の気持ちを理解しないままで来ていると、私は感じています。また、経済の豊かさは日本人に裕福な生活をさせているかもしれませんが、現実の世界にあっては、日本と日本人はとても孤独でかわいそうな精神貧乏です。目の前によく知っている日本人が一杯いても、私は彼らのことを友だちと言っていいかどうか、いつも迷っています。本当は共通の過去を持っていたのに、彼らはその過去を知らない顔をしています。だから私の側から見ると、私たちの関係には部分的に空白があります。そこにはついに無形の壁が立ってしまいました。真実のことは言いにくくなってしまい、将来についても話がつながらなくなりました。そんな表面だけの、楽しそうに見えるだけの付き合いなら、私は実際満足できません。従って当然、「友だち」とか「友好」とかいう言葉はなかなか使う場がなかったのです。
「昭和」という時代に起こったことを認識していない現在の若い日本人たちが、そのまま「平成」の時代を暮らしてゆく日本はどうなりますか。平和を望んでいるとしても、「二度と日本に原爆が落とされないように」という程度の理解で十分なのですか。侵略戦争の主役には再びならないという保証はどこにありますか。
互いの黙契を求めて
日本人の中でも、この問題を見抜く人々がいます。ほんの少ししかありませんが、大変嬉しいことです。
先日、私は「丸木美術館」を訪ね、年長の画家丸木位里先生と俊先生の美術作品を拝見しました。私はそこで、二人が描いた「原爆の図」と「南京大虐殺の図」の二画が同時に展示してあることに大変感心しました。位里先生は88歳俊先生は77歳で、この戦争を経験してきた人々です。自分の被害と共に自分の国の恥も見せられるのは大変心の広い方だと、私は尊敬してしまいました。彼らのように真誠を守り、良心的に歴史を見る日本人は今まで少なかったのです。世界を結ぶということをしたいのなら、日本は彼らのような人を増やしたほうがいいと思います。もし私と日本の人々がこの絵の前に立って、われわれの父祖たちがどんな環境にあったか、どんな経験をしたかを考えれば、次の行動をするための互いの黙契はきっとできると思います。それだけが「平和」の道を歩いてゆける方法です。
日本人以外のアジアの人々の中には、日本人に欠けた認識を証言している人は大勢います。私の先輩でシンガポールの歴史学者の蔡史君(チュア・スークン)さんが編集した『新馬華人抗日史料・1937-1945』が1984年シンガポールで出版され、1986年にはそのシンガポール部分が日本語訳されて、『日本軍占領下のシンガポール』として日本でも出版されました。その中に、日本人は「知らない」と言っていますが、日本軍が当時シンガポールでやったことが書いてあります。(注・本誌『アジアの友』1986年8月号参照)また私は直接会ったことはありませんが、丸木美術館発行の画集で、中国の画家、周思聰さんの「王道楽土」を始めとする一連の画を見ました。50年前日本人が中国の東北を侵略した時の中国人民の苦しみが画を通して伝わってきました。私も日本人の若い人々も、これらの文献や作品を大切にするべきだと思います。そのことによって、私たちの間の矛盾も解決してゆくことができそうな気がしています。
地図で見れば、日本もアジアの国々の一つです。アジアは互いに秘密がないようにしましょう。既に起こったことを隠す必要はまったくありません。一日も早く、日本の指導者も一般の人々も、最低限、それらの歴史の事実を認識してほしいです。その上で、アジアのほかの国々の人々と共に、これからの世界をどうやって創ってゆくのかを考えるべきだと思います。
終りに
目が覚めると日本のことをずっと見ていた毎日でした。不安と不満ばかりの日々でした。もし私が日本に対して冷たい態度を取ろうとすれば、留学生時代が終わったら黙って帰っても勿論悪くないのです。しかし、好きであれ嫌いであれ、日本とは6年間の“情”でつながっていることは否定することのできない事実です。そう思えば、軽く「さようなら」を言って日本から去ってゆく気にはなかなかなれません。だから将来後悔のないように、私はこんな別れ方を考えました。重いけれども、日本人のあなた方の頭に置いて欲しいのです。(1989年3月20日)
『アジアの友』第273号掲載(1989年5月10日発行)
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