私のベトナム、そしてアジア

ベトナムから始まり、多くのアジアの人々に触れた私の記録・・・

【放射性がれき受け入れ】 横浜市長室 抗議の市民が押し掛け緊迫

2012-03-31 18:55:00 | Weblog
 横浜市では昨年10月に築年数の浅いマンションの屋上から原発事故由来のストロンチウムが検出された他、汚泥に高濃度の放射性物質が含まれていたことなどが明らかになっている。こうした下地が市民を直接行動に駆り立てたのだ。   市長への抗議行動の後、市民たちは横浜市資源循環局と交渉を持った。ある母親が質問した。「行政はセシウムばかりを発表する。猛毒ストロンチウムやコバルトも出てるのに。これはどうなるんですか?」  資源循環局の答えがふるっていた。「私たちは判断できる立場にはありません。国が決めることですから」。あまりの無責任ぶりに筆者は怒鳴りつけたい気持ちで一杯になった。  「瓦礫の広域処理」をめぐって国はウソをついていた。ほとんどの瓦礫の仮置き場は市街地にはない。復興の妨げとならないのである。全国の自治体に瓦礫を引き取らせる根拠はなくなったのだ。 . . . 本文を読む

牛海英さん(2003年の事故当時26才) 夫も友だちも失い、もう死のうと思いました。

2012-03-31 01:45:54 | Weblog
 2003年8月4日、私はいつもの通り、自分が経営する廃品回収の店に働きに出ました。  朝9時ごろ、5つのドラム缶が、廃品回収所に送られてきました。  ドラム缶の高さは1メートルほどで、5つのドラム缶を1列に並べていました。持ってこられたとき、かなりの刺激臭が漂っていました。このドラム缶は鉄と銅の2種類の金属があり、銅と鉄のそれぞれの値段が違いますので、現場で解体して、それぞれの重量をはかりました。  ドラム缶の上に小さい口、ふたがありましたが、開けると中からブーッと気体、液体が噴出しました。この臭いがものすごい刺激臭で、たとえていえばワサビをものすごい量食べたときを想像して下さい。頭の皮がしびれるほどの刺激が広がりました。それから肺に入ると、肺も辛くてたまらなくなりました。  すぐ私がタオルを水につけて口と鼻をふさぎました。このドラム缶を持ってきた李さんという人に、これは何なのか、毒ではないのかと聞きましたが、毒ではないとの答えでした。 . . . 本文を読む

『チチハル毒ガス被害』控訴審が結審(東京高裁)JAN JAN Blog

2012-03-31 01:31:22 | Weblog
 日本軍は戦後中国各地に毒ガスを遺棄した。チチハルで2003年その毒ガスで被害を受けた人たち47人が、日本政府に賠償を求めた裁判の控訴審が3月23日東京高裁101法廷で開かれ結審した。98席の傍聴席は支援者や感心のある市民で埋まった。1審は日本軍が遺棄した毒ガスにより被害を受けた事実を認めながら、事前の予防・予測は困難であったと被害補償を認めなかった。 東京高裁へ入廷する弁護士、支援者  裁判は冒頭に来日した原告の一人である牛海英さんが原告を代表して意見陳述をした。廃品回収業を営んでいた牛さんは03年8月、買い取ったドラムに毒ガスは入っているとは知らず、そのその解体作業で被害を受けた。退院後も集中力や体力も奪われ、全ての財産と子供を夫に預け着替えも待たず布団1組を車に乗せて行き場のないまま家を出ざるを得なかったと訴えた。  幸い再婚することが出来たが健康状態は今も変わらず、被害者の殆どが仕事や家族、財産や人生さえも失っている現状を訴えた。そして、健康と幸せを返して下さい、2度と同じ悲劇を繰り返さない下さい。日本政府は危険を放置し何もしなかったことは明らかであり、哀れみや同情ではなくその責任をきちんと国の責任を認める判決をお願いしますと結んだ。 . . . 本文を読む

大学入学試験で何を問うべきかについて問う  シム チュンキャット  2012年3月28日

2012-03-29 12:07:01 | Weblog
しかも日本の大学入試センター試験は全問マークシート方式の選択問題ですから、受 験者の「考える力」と「学ぶ力」を測るということはより至難の業となりましょう。 シンガポールでは、多肢選択による試験の出題は中学校でもほんの一部でしかありま せん。特に『数学』については、正解だけを求めさせる問題なんてほとんどありませ ん。なぜなら、『数学』では正解よりもそこにたどり着く思考回路が重んじられてい るからです。たとえ最後の最後に回答が間違っていても、そこまでの思考ステップが ちゃんと数式として書かれていればそれなりの点数がもらえます。おっちょこちょい でケアレスミスが多かった僕もそれでかなり救われました。逆に、回答が合っていて も思考ステップが間違っていればゼロ点になるのです。そこで評価される力は、日本 の大学入試センター試験のとは次元を異にするものであることがわかりますね。『英 語』にしても然りです。近年でこそリスニング・テストも大学入試センター試験に導 入されましたが、まだまだ受け身です。一番不思議なのが、『英語』の試験問題には 英単語の発音やアクセントを紙面で問う問題もあるということです。イギリス英語と アメリカ英語とでは、発音もアクセントも変わるというのに、です。このような問題 を解くために恐らく受験者たちの中には、英単語ごとにそれぞれの発音やアクセント を教科書通りにひたすら覚える人が多いのでしょうね。普段ろくに英語を使って話し たりもしないというのに、です。何か虚しくないですか。 . . . 本文を読む

メルケル首相“脱原発”の裏側  2012年3月24日  TBS 報道特集

2012-03-29 03:23:04 | Weblog
市民の批判力の落差を現している写真を繰り返しになりますがもう一度挙げておきます。 マリアンネさんたちの資料館にあるゴアレーベンの闘争の古い写真です。農民のトラクターの看板にあるのは「原子力経済;親父は金持ち、息子は貧乏、孫は早死に」との予言です。日本は市民の批判力の貧困のため、これがフクシマで現実になってしまいました。 この苦く厳しい現実に打ち克つためには、直ちに原発を全廃し原子力経済から抜け出すことしかありません。それが実現できないようでは、日本は間違いなく放射能汚染で亡びます。世界にとっても深刻な取り返しのつかない危機をもたらすことになります。 . . . 本文を読む

瓦礫受け入れの是非  徳島県と小出裕章氏の場合

2012-03-28 01:18:16 | Weblog
 放射性物質については、封じ込め、拡散させないことが原則であり、その観点から、東日本大震災前は、IAEAの国際的な基準に基づき、放射性セシウム濃度が1kgあたり100ベクレルを超える場合は、特別な管理下に置かれ、低レベル放射性廃棄物処分場に封じ込めてきました。(クリアランス制度)  ところが、国においては、東日本大震災後、当初、福島県内限定の基準として出された8,000ベクレル(従来の基準の80倍)を、その十分な説明も根拠の明示もないまま、広域処理の基準にも転用いたしました。 (したがって、現在、原子力発電所の事業所内から出た廃棄物は、100ベクレルを超えれば、低レベル放射性廃棄物処分場で厳格に管理されているのに、事業所の外では、8000ベクレルまで、東京都をはじめとする東日本では埋立処分されております。) . . . 本文を読む

ARD(ドイツ公共放送)メディアテーク  - フクシマをめぐる日本の沈黙、嘘、隠蔽

2012-03-28 00:56:43 | Weblog
日本に大地震と津波が起きてからまもなく一年。 これが福島第一原発事故を引き起こし 日本の神話をいくつか壊すこととなりました。 原発が安全だという神話や 技術でなにごとも統治できるという神話です。 今日本では、政府や電気会社は、新しい神話を浸透させようとしているようです。 すべてコントロール下にあり、事故は収束したという神話です。 共同の忘却が求められているわけです。 そして54基もある原発からの 部分的撤退が決定されたものの最高60年まで 稼動期間延長が認可されて実質的に骨抜きにされています。 でも反対運動が起きています。 . . . 本文を読む

保安院長自ら圧力 安全委に「寝た子起こすな」 東京新聞 YOKYO WEB 2012年3月17日

2012-03-24 12:21:34 | Weblog
 経済産業省原子力安全・保安院が二〇〇六年、原発事故に備えた防災重点区域の拡大を検討していた原子力安全委員会に反対意見を送り、断念に追い込んだ問題で、当時の広瀬研吉院長が同年五月、安全委員との昼食会で「なぜ寝た子を起こすのか」と、安全委側に検討を中止するよう直接圧力をかけていたことが十六日、分かった。   昼食会に出席していた安全委の久住静代委員が証言した。原発の安全を守るはずの保安院のトップ自らが、防災対策の強化にストップをかけたことは、保安院の機能不全をあらためて浮き彫りにした。広瀬氏は本紙の取材に「覚えていない。分からない」と答えた。 . . . 本文を読む

横浜で元日本兵の「証言集会」開催  2012年 3月 15日  janjanblog芹沢昇雄

2012-03-23 22:48:50 | Weblog
 横浜市の市民活動センターで3月10日、元日本兵の証言を聴く【今しか聞けない!神奈川証言集会『私の戦争体験と若者たちに遺したいこと』】(主催:「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」神奈川支部)が開かれ約70人が参加した。集会は司会に続き松山英司・神奈川支部長の挨拶で始まった。  証言者の坂倉清さん(91歳)は1920年、千葉の小作農家に生まれ40年に招集を受け、45年8月の敗戦まで中国山東省泰山で従軍した。敗戦後シベリアに5年間抑留され強制労働に従事、更にその後50年に中国に引き渡され【撫順戦犯管理所】に6年間収容され、56年の特別軍事法廷で「起訴免除」とされ16年ぶりに帰国した。  当日の聴き手役の高柳美智子さんは同会埼玉支部会員で、元中高校教師を経て現在”人間と性”教育究所長として活躍中、坂倉さんとの共著『あなたは三光作戦を知っていますか』他著書多数。  最初に高柳さんが戦時中に「日本は神国、天皇は神様」と教えられながら、戦後、学校で教師の指示で自ら教科書を「黒塗り」させられて体験とそのショクを話した。しかし、当時、質問や疑問を口に出来る環境ではなく、子供ながらにも大人への大きな不審を抱き、それが原点で、「決してこのような教師にはなるまい」と誓ったという。  坂倉さんの話に移り当時は社会全体が貧しく大人たちは『こんな不景気では戦争でもしなくてはしょうがない』と話をしていた。中国には資源もあり貧乏を救うのは戦争と信じ、坂倉さんは軍人を目指した。身体が小さく軍隊は無理と言われたが、当時、その基準が引き下げられ甲種合格した。  軍隊に入った坂倉さんは6ヶ月の初年兵訓練の中で刺突訓練の強制に立ち会った。弾薬庫の前に穴を掘りその前に縛り上げた中国人捕虜を座らせ実際の的にして突いた(実敵刺突)。最初の人は剣が抜けず、中国人の身体に足をかけ剣を抜き、次々に突き刺し最後は人の形でなくなった。その日の夜はお腹は減っているのに殆どの兵隊が食事を摂れなかったという。 . . . 本文を読む

ベトナムスタディーツアーに参加して  2012年3月3日  ベトナム子ども基金通信第55号

2012-03-22 03:42:27 | Weblog
 毎年スタディーツアーのお知らせを見ても、出かける気 持ちにはなりませんでした。 足長おじさんで居たいと思っていました。支援先と会って名乗り出ることは格好悪いと言うか、木っ端恥ずかしいというか、里親という言葉の響きにも馴染めずに居ました。 会って、向こうの方々に余分な負担を負わせてしまうのではないかという、今思えば謙遜めいて、いやらしい感じを抱いていました。  通信を読んでいた夏、旅行好きな次女に何気なく「ベトナムツアーがあるよ。」と言うと、「行きたい!」と即答され、娘にとって良いかなと決めました。後は黒羽さんに負んぶに抱っこのまま、準備が進みました。 . . . 本文を読む

子どもの勉強のため=自分の生きがい  ファム・タン・シュン  会報 2012年3月3日号

2012-03-21 05:56:15 | Weblog
 私は、ボランティアをしている皆さまに同行させていただいたおかげで、いろいろなところを見ることができました。孤児院や田舎の学校、盲学校などです。子どもたちは親がいなかったり、障害を持っていたり、さまざまな事情でその施設で勉強したり、暮らしたりしています。しかし、みんなが夢を持って、自立するために、頑張って勉強していることに感動しまし た。  ホーチミン市から、南の海のほう、約136km離れたところはチャビン省です。中心地から海に向かって、30kmのところにそのような施設のひとつがあります。「愛のクラス」というボランティア教室です。教室といっても、そこの先生のご自宅の中です。その先生はサゥ先生という女性で独身です。この「愛のクラス」は1950年から開始されたそうです。当時はサゥ先生の母親が教えていました。おかあさんが亡くなってからも、このクラスを続けてきました。  学んでいるのは、貧しくてお金がない子どもたち、あるいは親がいない子どもたちです が、勉強する意欲は決して普通の子どもたちに負けないと、先生はお考えです。どうしてやめないのですかと聞くと、「子どもたちがかわいそうなので、字を教えてあげていた母の意向を受け継ぎたい」という答えが返ってきました。 . . . 本文を読む

心からありがとうございました !  ミン・ホアン・チュン  会報2012年3月3日号

2012-03-20 00:26:22 | Weblog
 最初に、簡単に私の自己紹介させていただきます。私の名前はミンです。現在、ハノイのソフトウエア開発会社で開発者として働いています。 私は2003年からベトナム子ども基金の奨学金で8年間支援していただきました。そして 昨年6月、ハノイ工科大学を卒業しました。 最初奨学金をもらっていた頃、私はチュー・バン・アン 高校の10年生(高校1年)でした。そのとき家族は、祖母、父、母と私の4人でした。奨学金は1ヶ月1,000円(= 120,000ドン)でした。私がそれを母にあげると母は喜び、「よく勉強しなさい」と私に言いました。私もうれしかったです。でも本当は、高校生のときにはそのお金がどのくらい多いのか、あるいは 少ないのか、あまり考えませんでした。  2006年9月、私はハノイ工科大学に入学しました。IT学科で、HEDSPI (IT高等教育人材育成プログラム) に入りました。HEDSPIはベトナムと日本が協力したプログラムで、 日本語の話せるIT技術者育成を目標としており、私はITも日本語も教えてもらいました。それで今私は日本語が少し使えます。 大学生になったとき、学費は自分で払いました。大学の学費は毎月180,000ドン=666円で、 奨学金で学費を払うことができました。私はハノイの実家に住んでいますから、生活費がまったくかからず、時々昼ごはんは家族と食べ、お金を使いませんでした。学生時代、農村や山村からハノイ市まで通学してくる友達もたくさんいました。家族と一緒に住んでいた私は、他の学生より生活が楽でした。 . . . 本文を読む

「日本は最高の親友」 洪水で被災したタイの人々が日本からの激励に感激  パンドラの憂鬱 

2012-03-18 11:48:59 | Weblog
タイ76県の内58県が浸水被害に遭い、 日本企業にも大きな被害を与えたタイ洪水。 昨年12月23日に政府によって終息宣言がなされましたが、 死者は8百人以上、被害総額は8千億円以上(2兆円以上との試算もあり)と、 甚大な人的・経済的被害を残していきました。 そんな時期に、東日本大震災の被災地、石巻から発信された一本の動画。 震災の被害に遭った時に助けの手を差し伸べてくれたタイの方々に、 感謝と励ましの言葉を送るために製作されたようです。 . . . 本文を読む

台湾人「日台は永遠に親友!」 日本の感謝CMに台湾人が感動   パンドラの憂鬱

2012-03-18 11:23:47 | Weblog
3月11日から台湾の主要テレビ局で放映が始まった、 台湾からの多大な支援に対する感謝を示す日本のCM。 放映予定は一週間で、街頭スクリーンや地下鉄などでも流されるそうです。 それではさっそく、動画とその反応をご覧下さい。 関連記事:【海外の反応】 台湾まで泳いで「感謝」を届けた日本人たち 日本311大震災一週年 元氣篇 (完整版) ※台湾語のコメントは、翻訳機で英語に変換し、それを更に日本語に訳してます。   「白」を「黒」にするような翻訳ミスはないと思いますが、   それを踏まえた上でお読みください。    . . . 本文を読む

「日本がもっと好きになった」 被災地からの「ありがとう」にベトナム人が感動  パンドラの憂鬱 

2012-03-18 10:51:06 | Weblog
動画の映像は今年の2月5日に撮影されたもので、 『宮城県石巻地区(石巻•東松島•女川)小中高500人の吹奏楽部員が集い、 被災地を支えてくれた世界中の人たちに感謝の気持ちを伝えるため 「ありがとうの大合奏」を行』ったものだそうです。 動画には世界58ヶ国の「ありがとう」が登場するものの、 寄せられた450近いコメントの内、そのほぼ全てがベトナムから。 動画の投稿日は3月8日ですが、コメントは昨日から急激に増えているので、 大手サイト等で紹介されたのかもしれませんね。 ベトナムのみにスポットを当てた映像ではまったくありません。 ですが、一瞬だけ映し出される自国の「Cảm ơn(ありがとう)」の文字に、 埋もれるように顔をのぞかせるベトナムの国旗に感動して、 みなさんコメントを残してくれているんです。 それでは動画とその反応をご覧下さい。 . . . 本文を読む