私のベトナム、そしてアジア

ベトナムから始まり、多くのアジアの人々に触れた私の記録・・・

 3年前、チェルノブイリの日のために書いたある映画エッセイ   池田香代子 2011年05月26日

2011-05-31 07:44:52 | Weblog
物語の舞台は、ドイツの田舎町。高校の授業中、突如としてサイレンが鳴り響く。ABC兵器にかかわる緊急警報だ。ABC兵器とは、核兵器、生物兵器、化学兵器のことだ。ドイツはいったいどこからABC兵器で攻撃されると怯えているのだろう。その疑問は、原作が書かれた時期を知れば氷解する。それは1987年、いまだ冷戦体制にあって、旧西ドイツ全土にはアメリカ製のミサイルが、まるでハリネズミの針のようにおびただしく配備されていた。旧東ドイツしかり。米ソの核の応酬が始まれば、まず東西ドイツが、それぞれ相手からいっせいに発射される核ミサイルによって、両大国の身代わりとして差し違え、滅亡すると、広く信じられていた。   そしてまた1987年は、旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所4号炉がメルトダウンしたのち爆発し、旧西ドイツにも達する広い範囲に放射性降下物がふりそそいだ1986年の翌年だ。旧西ドイツでは、若い人びとが子どもを産まないことにするなど、パニックは深甚だった。   物語では、警報は核戦争の勃発ではなく、原発事故を知らせるものだった。原発事故とABC兵器攻撃の警報が同じだったということは、当時、原発事故は核攻撃と同列にとらえられていたということだ。たしかに、いったん事故が起これば、原発は即座に自国の市民を無差別に攻撃する「敵」へと変身する。 . . . 本文を読む

福島現状報告:これは、歴然とした国家犯罪では!  2011年5月4日

2011-05-29 00:31:02 | Weblog
長年、反原発の運動をしてきたMさんところには、言いたいことが言えない状況で、多くの人が相談や今の心境を語りにきます。小学校の女性教員の方から聞いた話は、とてもショックだったので、少しその話を紹介します。彼女は、原発から20kmの少し外に自宅があり、原発の爆発のとき、地震で壊れてしまったサッシの窓を修繕するために屋外にいて被曝してしまったそうです。彼女には、もう症状がでていて、水で顔を洗うと、チクチク、ヒリヒリと皮膚が痛み、物凄くだるいそうです。弟さんは、もう下痢が始まっていて、病院に通っているそうです。私は、原発の被曝で殺されるのかと思うと、死んでもでも死に切れない。彼女の勤める学校では、ある教員が、被曝を恐れて休職して、非難すると申し出たところ、同僚の教員からお前だけに逃げるのかと、罵詈雑言を浴びせられ、一言も発せず、学校を離れたあと、いなくなった彼の机を蹴っ飛ばす同僚もいたそうです。学校の中でも、一人や二人しかこの事態をおかしいと思っている人がおらず、ほとんどは、文科省や教育委員会の説明を鵜呑みにしていて、おかしいのではないかという人を、考えすぎと軽く片付けられてしまって、なかなか話もできず、一人悩んでいるそうです。また福島では、長崎大学の山下教授が、放射能は怖くないという講演をいたるところでやっていて、そのためそれまでマスクを付けていた子供たちまで、マスクをはずしてしまうようになってしまったと嘆いていました。またどこの家庭でも、避難するべきか否かを巡って家庭内でも口論が絶えず、家族がばらばらになっているということでした。福島の人たちは、本当に大変な状況に追いやられていると思い、言葉もでませんでした。夜には、奥さんが妊娠中のカップルと、2歳の女の子のいるご夫婦が訪れ、避難したい意志表示をしてくれたので、とりあえず、北杜市に疎開しませんかと誘いました。それで、近日中にこちらに来ることになりました。彼らがこちらに来られたら、皆さん、どうか彼らを支えてあげてください。どうぞよろしくお願いします。 . . . 本文を読む

原発事故調査委のトップは、事故後に「原発を使うべき」と主張した人物という驚き   2011年5月24か

2011-05-27 02:36:03 | Weblog
▼ 原発事故調査委のトップは、事故後に    「原発を使うべき」と主張した人物という驚き  ※原発事故調設置、委員長に「失敗学」の畑村氏(読売新聞) - goo ニュース http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/politics/20110524-567-OYT1T00256.html . . . 本文を読む

チェルノブイリ・百万人の犠牲者  シャーマン医師へのインタビュー 2011年3月5日

2011-05-26 02:47:32 | Weblog
スタジオには この本を監修した ジャネット・シェルマン博士をお迎えしました アレクシー・ヤブロコフ博士 バシリー・ネステレンコ博士 アレクシー・ネステレンコ博士との 共著です ベラルーシ出身の人方です ようこそジャネット チェルノブイリ事故の死者は 100万人ということですが 死因は何でしょう? 癌 心臓病 脳障害 甲状腺ガンなど 様々でした 胎児のうちに死亡したり 先天性障害も含まれます 98万5千という死者数を どのように特定しましたか? 公開されているデータから割り出しました チェルノブイリ事故後 国際原子力機関(IAEA)から 色々なことが聞こえてきますが 本来は原子力を規制するはずの でも奨励している IAEAはチェルノブイリの死者数を4千人程と サイトで公表していますね ジャネットさんが本に書いた数字と 大きく異なるのはなぜでしょう? AEAが発表した「チェルノブイリフォーラム」という調査書は 350の論文に基づき 英語の文献が対象でした ヤブロコフ博士とネステレンコ博士らは 5千以上の論文を基にしています 実際に現場にいた人達の聞き取りもしていますし 医師 科学者 獣医師 保健師など 実際に看護し 死んでゆくのを看取ってきた 現場の人方です この本では 世界保健機構(WHO)でさえ チェルノブイリの真実を語っていないと批判していますね . . . 本文を読む

マギッド・イヴゲニ 「私の地震体験記」SGRAかわらばん365号(2011年5月11日)

2011-05-22 07:05:37 | Weblog
私は茨城県つくば市に住んでいます。2011年3 月 11 日(金)は、朝から千葉県習志 野市の幕張ゼミハウスに、チューターとして、日本人の後輩に英語の発表の仕方を教 えるアルバイトに行きました。昼食を終えて、先生、3人の留学生チューター、20人 の日本人学生と一緒に、ブルガリア人の有名な先生の発表を聞いていた時、午後 2 時 46 分にマグニチュード 9.0 の地震が起きました。最初はあまり強くない地震だ と思い、教室の2重のドアと窓を開けて、発表を続けようとしました。しかし、だん だん地震が強くなったので、皆で外に避難しました。その時点では、窓がひとつ壊れ ただけだったので、まだ何も心配することはありませんでした。 . . . 本文を読む

李 彦銘 「原発危機への対処をどう見るか  SGRAかわらばん363号(2011年4月27日)

2011-05-21 10:59:35 | Weblog
3月11日の大震災から一か月、余震がまだまだ続くなか、放射能が引き起こした不安 は必ずしも減少していないが、長期化するに伴いそれほどパニックになることでもな いようになってきた。もちろんこれは、東京に住む私の体験に基づいた話であり、各 地で状況は異なるであろう。 しかし、一か月前は違っていた。フランスをはじめ、アメリカやイギリス、シンガ ポールなど、多くの国の政府は日本政府が発表した半径20キロよりはるかに広範な範 囲を設定し、自国民に避難や退避の勧告を出していた。さらに、大使館や新聞社など が主要機関を関西に移転させたり人員を帰国させたりする動きも顕在化し、あたかも 東京は危ない、パニックはすでに起こっているという印象を与えた。三連休の間に東 京在住の人々も西へと避難し、大規模なパニックが起こるのではないかと私は心配し た。しかし実際にはそれ以上の事態は発生せず、「日本人はパニックにならなかっ た」ように見えた。外国人から見れば不思議であった。 . . . 本文を読む

林 泉忠「放射能恐慌とメディアの責任」/ 日本震災支援香港チャリティコンサート

2011-05-20 09:14:48 | Weblog
SGRAかわらばん360号(2011年4月8日) M9.0の大地震によって引き起こされた福島第一原発の放射能漏れ問題がもう二週間以 上続いている。その間、香港を含む多くの国や地域は居留民を相次いで日本から退避 させ、東京の空港は一時大混雑に陥った。航空券も地震前の4倍の20数万円に跳ね上 がった。日本は香港の観光客にとって最も人気のある国の一つであった。毎年3月下 旬から4月の桜開花の季節になると日本ツアーがピークを迎える。しかし、今年は香 港の幾つもの大手旅行社がまだ出発していない日本ツアーをすべてキャンセルしただ けでなく、被災地から遠く離れた沖縄や北海道のツアーを含む4月末までのすべての 日本ツアーの受付けを中止した。東京で行われる予定の多くの国際的なビジネス活動 も中止か延期となっている。筆者が3月21日に搭乗したワシントン発東京行きのボー イング777の機内には、乗客が半数しかなく、そのうちの大部分は日本人であった。 福島原発事故がもたらした「パニック」の中には、一時的に巷の噂になった塩買いだ め騒動もあった。 . . . 本文を読む

『野宿労働者の原発被曝労働の実態』  2011年4月15日

2011-05-18 12:21:52 | Weblog
『野宿労働者の原発被曝労働の実態』を匿名有志の方がテキスト化してくださいました。OCRの作業をしてくださった方、ほんとにどうもありがとうございました。 以下は、約15年ほど前に出した、原発での被曝労働を体験した野宿の仲間の話をまとめたパンフレットの一部をテキスト化したものです。寄せ場の日雇い労働者や、野宿の仲間たちの中には、原発での労働で被曝し体をボロボロに壊している人達がいます。私たちが原発の問題を考えるとき、これら最末端で働く(働かざるを得ない)人々の視点は不可欠であると考えます。以下、パンフレットの被曝労働の部分の抜粋です。 . . . 本文を読む

洪ユン伸「ある外国人研究者の『知識人としての自己責任論』―東日本大震災に 思う」

2011-05-17 06:08:28 | Weblog
SGRAかわらばん359号(2011年4月6日) 多くの外国人研究者が休みである故に国へ戻ったが、災害の際、日本人の研究者の海 外行きが急増している事実を私は知ってしまった。そうした情報が次々と耳に入って きたのは、私が外国人研究者であり、緊張感なしに海外に行くことを告げられる相手 であったためであり、私の「偏見」だと何処かで信じたい。が、一部であるにしろ私 の周りにそういった動きがあったことは事実だ。北海道、韓国、ヨーロッパ、アメリ カ、現地調査や休暇を目的に出かけた人々が、震災中、一人東京に残された私の安否 を懸念して電話をかけてきた。沖縄の友人が「あんたはしょっちゅう沖縄に来るの に、今こないでどうするの」と電話をかけてくる。沖縄の国際通りは日本人の観光客 でにぎわっていると言われ、研究者のグループも多いことを知らされた。名の知られ た有名大学の先生が家族連れで中国に向かったと聞く。日本には戻らないつもりで中 国へ旅立ったという。放射能への危機感が高まりつつあった時期であった。日本人の 研究者である。自らの旅日程を知らせ、「あなたは国へ戻らないのか」という言葉が いつのまにか決まり文句のようになった。怒りさえ感じてしまう。一体、何だろう か。 こういう状況のなか、私の感情はあるラジオ番組でエスカレートしていった。朝5時 まで被災地の人々を少しでも勇気づけようとスタートした番組であった。ドラえも ん、古い演歌、ポップなどが、被災地に送る多くのエールと共に日の出の時刻まで流 れ続けた。そして、ある高校生がエールを送ってきた。 「僕は、受験生です。こんな時に受験勉強などしている自分がとても情けないと思い ます。僕はこのままでよいのでしょうか。本当にごめんなさい」 こういう内容だった。思わず泣いてしまった。彼に向って「良いのです。一生懸命勉 強して、この世にきっと役に立つ人間になってください」と答える被災地の人からの メッセージも読み上げられ、多くの音楽が流れていった。しかし、いったん流れ始め た涙は、なかなか抑えることが出来なかった。受験勉強を恥じる彼らが大学に入った 時、私、私たちは、一体、何を教えられるのだろうか。涙が止まらなかった。私は 「情けなさ」のため、日本に留まったとしか、自分の選択を説明することが出来ない のである。 . . . 本文を読む

李 軍「揺れるもの、揺るぎないもの」 SGRAかわらばん356号(2011年3月28日

2011-05-14 08:27:07 | Weblog
例年3月下旬になると、桜の開花前線のニュースや卒業式の鮮やかな袴姿が春の到来 を告げる。しかし、今年はM9.0という日本国内観測史上最大の東北関東大震災に見舞 われた。東日本では、津波に飲み込まれた後の無残な瓦礫、福島第一原子力発電所の 爆発によって出てきた灰色の煙、寒さにじっと耐えている避難所の被災者…真冬の暗 い色に染められていた。 大地震が発生した3月11日から十日間が過ぎて、ヤフーのHPのバック・カラーが暗い 色から徐々に明るくなってきているが、この大震災を体験した人々の心はいつ春らし く明るくなるのであろうか。地震、津波、原発事故、これらの災害は尊い命を奪い、 人間の身体、心を傷つけ、多くの家屋や建物を破壊しただけではなく、普段目立たな い人間の本性をも容赦なく曝け出していた。もちろん、どんなことがあっても揺るぎ ない敬服すべき良い部分も見せてくれた。 . . . 本文を読む

シム チュン キャット  「すみません、ちょっとわから ないのですが...」  2011年3月23日

2011-05-13 00:00:52 | Weblog
SGRAかわらばん354号(2011年3月23日) もう「へえ~」どころの騒ぎじゃありませんね。「おお~!」というか、「おおおお ~!」ですね。3月11日に起きた千年に一度の巨大地震、それによって引き起こされ た巨大津波、また被災規模の大きさ、そして何よりも被災された皆様の無念さ、苦痛 と悲しみの深さを考えると、どんな言葉も無力で意味を成さない感じがします。国に いる家族や友人からの心配の電話やメールに対する、「僕は無事です」「東京は大丈 夫です」「帰る必要はありません」などの返事さえも、避難所の人々が置かれている 過酷な状況を思うと、なぜか軽く聞こえ、心配してくれる相手の気持ちをわかってい ながらも、心の中に「東京はいいだろう!東京は!」と叫びたくなる無礼な自分がい ます。そして、今はエッセイなんか書いている場合でもないかもしれません。「えっ せい」という響きがこんなにも軽量だったのかと思ってしまうほどです。でも、こん なときだからこそふっと思い出したのが、「有事のときにこそ普段のように無事に生 活することが大事」という、その昔僕が国家公務員をやっていた頃にイスラエル人の 災難対策指導官に教わった言葉です。(なぜ天災のほとんどないシンガポールで災難 対策が必要なのかはまた後日に。)ということなので、平常心やこれまでの生活リズ ムを取り戻すためにも、反感を買うかもしれないということを承知のうえで、いつも のように自分らしくエッセイを書かせていただきたいと思います。テーマは恐怖のあ の日以降、僕が「ちょっとわからないのですが...」とつい首を傾げてしまったと いう小さなことについてです。 . . . 本文を読む

ヴィグル・マティアス「日本に居る私から見たフランスの報道とフランス政府の福 島原発事故の危機管理」

2011-05-12 00:29:42 | Weblog
SGRAかわらばん355号(2011年3月25日) 3 月 11 日(金)午後 2 時 46 分、私は人生で初めてマグニチュード 9.0 を記録す る地震を体験しました。その時、私は家で勉強していましたが、激しく揺れたのでビ ルが崩れ落ちないように祈りながら、机の下に避難しました。幸いにも棚から本が落 ちた以外には何も被害はなく、地震に負けない優れた日本の建築技術に本当に感心し ました。その後、今回の地震はどうも普通ではないと思いながら、すぐに嫁に連絡し てみましたが、電話がつながらなかったのでとても不安でした。1時間半後、職場の 周りの公園に避難していた彼女の無事を確認しようやく安心できました。また、日本 の大震災は必ずすぐにフランスの朝のニュースに出ると思ったので、両親に連絡して 安心させました。両親と話しながら、テレビで東北地方の町が津波で水没する恐ろし い映像を見ました。 . . . 本文を読む

ベトナムの原子力発電  ベトナム ホーチミン市の日常生活  2011年5月10日

2011-05-11 08:33:55 | Weblog
地元住民からすれば、この10~20年でトラックやバスが 通れる道路が整備され、電気が供給され、農水産物が新たに 創出されて日々の生活には質素ながら、とても満足していて、 原発建設による移転には本心反対しているのです。 しかし、ここはベトナム。地域住民は国を指導する共産党の指示 に対して表立った反対や抵抗は出来ませんが、建設場所の選定 も含めて受注している日本(実質的には東京電力)は、幸せに 暮らしている地域住民の生活を侵害する権利はありません。 . . . 本文を読む