核・戦争のない世界!!

2024-05-26 07:49:41 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。

 

 
南京大虐殺 

 
南京大虐殺(マギーフィルム)
パネー号撃沈




 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

731部隊 

731部隊展



 原爆    
 
今も傷む背中の傷 目をそらさないで聞いて 原爆を背負って(1)


166㌢、47㌔。長い間、私はこの体重を維持してきました。「もっと食べなさい」と言う人もいます。でもこれ以上太ると背中の膜が引っ張られて裂ける。酒を飲めば、血管が膨張して背中が痛みます。被爆して1年9カ月間、ずっとうつぶせで過ごしたため、左胸の肉は床ずれで腐り、肋骨(ろっこつ)の間から心臓の動きが見えます。思い切り息を吸うと胸も背中も痛み、大きい声が出せない。私にとって、生きることは苦しみに耐えることにほかなりませんでした。
 最初の核戦争を生身で体験した私たちは、核兵器の恐ろしさを知っています。長崎原爆の死者は45年末までで推計7万3884人。多くの人が黒焦げになり、水を求めて亡くなった。生き残った者も後遺症で次々に死に、今も原爆の放射線は被爆者の体をむしばんでいます。この悪魔の兵器が、世界にはまだ1万7千発も存在しているのです。
 これからお話しするのは、原爆を背負って生きてきた私の半生。核兵器廃絶と援護の充実を求めてきた被爆者の闘いの歴史でもあります。あの日から半世紀以上がたち、過去の苦しみは忘れられつつあるように見えます。私はその忘却を恐れます。忘却が原爆肯定に流れていくことを恐れます。どうか目をそらさず、私の話に耳を傾けてください。


 
 
 

日航123便の怪(1985年8月12日)


 

     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
  
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より

 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報5号(23巻、1939年)
人事異動報告
(昭和14.5.2 現在)
発令月日      辞令             官職       氏名
3.31   伝染病研究所業務を嘱託す                 間瀬忠世
4.7     依願伝染病研究所に於ける血清学
          研究業務嘱託を解く                    田中芳雄
4.11   伝染病研究所業務を嘱託す                 岩崎龍郎
4.14   伝染病研究所業務を嘱託す   諏訪紀夫、伊東四郎、村田良介、峰岸重知、
                    松本稔、
中村達夫、今野亀之助、山田修造、
                    久津見専、岩田昌一、
木村恭三、富樫実、
                    田中太郎
〃    任傷兵保護院調査官叙高等官7等      薬剤手      毛利勝利
4.15   依願免本官               薬剤手      奥宮康雄
4.17   伝染病研究所業務を嘱託す                 奥宮康雄
4.21   依願免本官               技手       井田清
4.24   伝染病研究所業務を嘱託す                 松本虎太郎
4.28   伝染病研究所業務嘱託を解く                大島皇吉
5.1    伝染病研究所業務を嘱託す                  片倉仁子
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 戦略について見ると、皇道派はソ連を日本の主たる敵と考えていた。彼らは物量に対し軍人精神、国民精神を強調したが、それは日露戦争後、陸軍の教義となったものである。対する統制派は軍の近代化と、ナチスドイツから借用した言葉である「国防国家」の建設に優先順位を置いていた。統制派は、近代戦が国家の総力を結集することを要件とする社会総体の衝突に至ったことを認識していた。米ソ双方に対ける戦争は陸海軍の科学技術の向上、産業の近代化、日本国全体の精神的な動員を必要とした。
満州事変の拡大に応じ、その目的ではなく主に手段をめぐってゆるやかに結束したふたつのグループの間での抗争は激化し、それは1930年代を通じて日本政治の一貫した特徴となったのである。
 
 
 

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