核・戦争のない世界!!

2024-08-08 09:16:11 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈


 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

          





 原爆    

 
日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
蕎麦摂食と肝硬変その他の病変
氏等は、本年は蕎麦の分析的研究所見を発見している。エ—テル、酒精ベンゾール、アセトン、四塩化炭素等の溶媒を用い、ソクスレッド浸出器によって浸出物を作り、これを玄米に混ぜて上記の動物に与えた。ベンゾール、四塩化炭素抽出物を僅か1か月与えたのみで既に典型的の肝硬変症が起こり、脾腫を伴っていたという。マウスでは酒精柚出物を与えたのに、大豆大の肝細胞腫が多発していた。家兎ではエーテル抽出物を与えたものに、最も強い肝硬変が起こっている。犬に於ても同様に肝臓に著名な変化が現れたということである。興味ある所見と言わなくてはならないと同時にこれ等脂肪溶解性溶媒による浸出物中に存する物質は何であるか。又その種の物質は蕎麦以外のものにないか否かの点であって、五穀を主食とする住民にとっては重大なる問題と申さねばならない。
 
 
 
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変

天皇夫妻の一日は入浴から始まり、次いで、別々になって屋外で運動をすることにしていた。妊娠中の良子皇后の運動は、花壇の手入れをするか、看護婦と1ラウンド、ゴルフをすることだった。正午になると、皇后と昼食をとるため天皇は執務室〔御学問所の2階〕から戻り、そして4時ごろまで公務をこなし、ふたたび皇后とお茶をともにした。6時半ごろに夕食を済ませ、就寝前の9時ごろ、軽食をとってから通常10時には寝室に退いた。皇后は庭いじりをしないときには、満州に駐留する部隊のために下賜品の包帯を巻くことで時間を過ごした。

1932年の夏から秋にかけて、それはふたりの人生でも、とりわけストレスが強い時期となった。天皇は満州の危機への対応に追われ、皇后は男子の世継ぎをもうけることができないことに心を悩ましていた〔皇位の継承権は男系男子にだけ認められていた〕。

 



 

 

 

 

 




























 












































































































































































































































































































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