核・戦争のない世界!!

2024-09-13 11:07:41 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

 
 
南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈
     



 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

      




 原爆    
        


  
 
日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
 
11、12の注目すべき臨床試験
狹心症の外科的療法
Bukarest のDanielopolu敎授(D. m. W.1938)は多年氏の経験を発表し、相当によい成績を見ている。氏は心臓に来る抑制神経の反射を除外せんとする方法でこれを Pressor-Reflex-Ausschaltungと称している。その為には迷走神経の本幹切断と星状神経節とを除去すればよいのである。この目的の為に通常下の手術を為している。
 即ち脊椎神経の Cs-D2の結合枝、迷走神経並びに交感神経枝を切断することを第一次の手術とし、第二次としては頸部交感神経を切断するのである。1個の方法として記載しておきたい。然し氏はこの種の手術を為す前に、必ず内科的処置を尽くし、効果の挙がらない時に実行せよと言うている。即ち最後の方法と見做すべきである。
 
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第8章 昭和維新と統制
夏の間、新聞、ラジオは陸軍、海軍の分離裁判を報道した。これら「純真な国体の信奉者」に対する支援が高まるにつれ、日本や植民地の在郷軍人会は、刑の軽減を請願し7万5000以上の署名を集めた。1933年9月11日、海軍軍法会議は古賀清志ならびに他の3人の犯行者に死刑判決を下したが、のちに禁錮15年に減刑された。クーデタに加わった11人の陸軍将校について、陸軍軍法会議の判決はさらに軽いものとなった。(禁錮4年)。民間の犯行者だけが、大規模で広範な支援組織もなく、通常の法廷で裁かれ無期懲役となった。当時、日本の軍司法機構は、反乱や暗殺の犯人に対し、純真な愛国心から行ったものであると本人が主張すれば、例外なく寛大な取り扱いをした。しかし、ふつうの民間人は、一般の法廷で裁かれ、軽い罪で済むことはほとんどなかった。
 
 
 
 
 

 

 

 




























 






























































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































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