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細菌戦の系譜!!

2022-06-13 12:49:42 | Weblog

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第8章 戦後史の中の日本軍毒ガス兵器問題

 

4 毒ガス戦をめぐる歴史資料と国会論戦

 

 

史実に基づいて議論を深める為に
 
以上検討してきたことを総合すると、15年戦争(1931年の満洲事変から45年の敗戦まで)や日本軍の実態についての調査・研究は、関連資料が確認され始めた1950年代末以降から取り組むことが不可能ではなかったが、資料が公開されなかったので史実の解明が進まなかったということがわかる。
 これは、吉田裕氏(一橋大学教授)が指摘するように、「戦争の全体像を俯瞰できる立場にあった旧幕僚将校や戦史室に戦史編纂者として勤務した旧陸海軍将校が、極論すれば、戦後史のある段階まで戦争史の解釈を独占することになった」のである(吉田裕「公文書の焼却と隠匿」)。
 
海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
 
 

 

 

日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
 

碑文

 
ここ旧西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。 そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年敷地704,000m2)の跡地である。往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。
第二次大戦後工業立地に恵まれた跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。 いま大地に大地に深く根差した緑に世界の平和を願い、国土の安隠を祈る。
 
建立  相廠会 及び 協力企業  昭和63年春

 

略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
 

 

第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。

百年の悲劇は、ここから始まった1

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第10章 残酷な人体実験毒ガス実験

 

苦しみ抜いた20年
 
肖慶武
 
何時間もベッドの隅に身をこごめたまま、泣きながら医者に助けを求めたこともあった。現在彼は40を過ぎたが、この事に触れると、図らずも目に涙がにじむ。1975年、北京307病院に入院し、3か月余りの治療を受けた。その退院時の通知書には次のように書かれている。
 ハルピン水運局   カルテ番号  4986
貴局の患者 劉振起は1975年12月17日に入院、1976年3月27日退院した。
最終診断
 イペリットガスによる両手皮膚損傷、その傷痕の形成
退院時の状況
 イペリットガスによる両手皮膚損傷、傷痕の引きつり、手指間の水かきの形成。1975年12月17日入院。2度に分けて、傷痕の縮みを取る手術を施す。術後、傷口の癒着はおおむね良好、退院が可能。
休養に必要な日数、他提案事項
 1、全休半月、2、適度な運動、リハビリ、3、局部の皮膚を保護し、破損を避けること。
    院長 李冬
                     政治委員  田暁
    担当軍医 黄
                      1976年3月27日
 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用

 

 

 
 
●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

 

核時代39年(1984年)5月初版発行

焼け火箸ー拷問の挙句に斬首

佐藤五郎

分隊員 上等兵

(旧部隊名)第59師団第109大隊

高本はまた拷問を受ける中国人のことを聞いた。「おい、あの男は八路か、なんだい」「なんだか知らねえが、班長は容疑者だって汗出してやっていたぞ」「ふうん、班長はよく容疑者だっていうけれども、ところがネタ上がったのか」「ネタか。ネタ上がるどころじゃねえよ、老百姓だって一言も言いやあしねえよ」「そうか、班長はこの前だってそうだったじゃねえか。百姓だが容疑者だかわからねえなあ」。

 
 
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 

 

 

    

 

 

    

 
 
 
 
 
 
 

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