「はだしのゲン」巡り揺れる広島 教材から削除、販売は急増―原爆忌
今、広島で起きていること・・・久野成章
ところが、2011年からの松井広島市政の発足、3 •11福島原発事故後の第3次反原発運動高揚下、突然、原爆ドーム前に「8,6ヒロシマ大行動実行委員会」(中核派)が登場し、原爆ドーム前の風景は一変しました。
2012年8月6日、平和記念式典に出席した野田首相(民主党政権)に対して、大音量の「野田政権打倒」の声が参列者席(メイン会場)に接近したデモ隊から直撃しました。この時、自民党はこの大音量を問題にしませんでした。
2012年12月に第2次安倍政権が発足し、2013年から安倍首相が出席しました。この時から参列者席(メイン会場) に接近したデモ隊の「安倍帰れ」の大音量に対して、自民党•右翼•極右から「大音量を何とかしろ」という声が上がりました。
以来、10年間、原爆ドーム前は、中核派と極右と右翼と広島市職員と警察官が制圧する異様な場になりました。
ついに2023年8月6日早朝6時に、極右、右翼、中核派の場所取り合いによるもみ合いがあり、広島市が言うところの「衝突事故」(事故から半年以上経った2024 年2月28日に中核派5人を不当逮捕)なるものがありました。
2012年8月6日、平和記念式典に出席した野田首相(民主党政権)に対して、大音量の「野田政権打倒」の声が参列者席(メイン会場)に接近したデモ隊から直撃しました。この時、自民党はこの大音量を問題にしませんでした。
2012年12月に第2次安倍政権が発足し、2013年から安倍首相が出席しました。この時から参列者席(メイン会場) に接近したデモ隊の「安倍帰れ」の大音量に対して、自民党•右翼•極右から「大音量を何とかしろ」という声が上がりました。
以来、10年間、原爆ドーム前は、中核派と極右と右翼と広島市職員と警察官が制圧する異様な場になりました。
ついに2023年8月6日早朝6時に、極右、右翼、中核派の場所取り合いによるもみ合いがあり、広島市が言うところの「衝突事故」(事故から半年以上経った2024 年2月28日に中核派5人を不当逮捕)なるものがありました。
広島市はこの事件を唯一の口実にして、この事件とまったく関係のない市民の表現の自由を圧殺しようとしています。パレスチナ•ガザへのジェノサイドを続けるイスラエルに対し国際司法裁判所が暫定措置を命じ、国際社会の目が厳しくなるなか、広島市は今年の式典にイスラエルを招待しました。これに対する日本中からの抗議の声も封じようとするのであれば、広島市はジェノサイドに加担することになります。とうてい許されません。
長周新聞
記者座談会 語れなかった東京大空襲の真実-首都圏制圧のための大虐殺 130回で25万人殺傷
米軍の皆殺し作戦 殺すに任せた支配機構
財閥やメディアも米軍占領下で地位守る
C もう一つは、人民の側に立つべき共産党の指導部が「アメリカは解放軍」と規定して、旧軍部を批判するが、原爆にしても東京空襲にしてもアメリカの犯罪を問わずに来たことが大きい。都民はアメリカと共産党指導部の両方から抑圧され、ものがいえなくなる関係だ。
※カーチス・ルメイ・・・焦土作戦は東京・大阪・名古屋などの大都市を焼き払った後は、富山市・郡山市などの地方の中小都市も対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上が
らせ、日本側から「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と渾名された。
勲一等旭日大綬章の授与
1964年12月7日に日本に返還されたばかりの入間基地で、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は浦がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査・審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は小泉純也防衛庁長官と椎名悦三郎外務大臣の連名で行われ、防衛庁から佐藤栄作首相・賞勲局へ叙勲が適当であるという説明があった。勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例に基づいたものである。
授与への批判
ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対して批判も大きく、現在でも「勲章は返還するべきである」と唱える者もいる。当時は日本社会党・原水爆禁止団体・被爆者などから国民感情として納得できないという声が上がった。
東京大空襲
死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲。この3月10日の空襲だけで、
罹災者は100万人を超え、死者は9万5千人を超えたといわれる。
なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。
重慶爆撃
日中戦争の最中、中国の国民党政権の臨時首都となっていた重慶市にたいして、日本軍は、無差別爆撃をくり返し、多くの人々を殺傷しました。(中国人民政治協商会議四川省重慶市委員会文史資料研究会編『重慶抗戦紀事』によると、爆撃は1938年2月~43年8月にかけて218回、被害は死傷者2万6千人、焼失家屋1万7千戸。ほかに41年6月5日、
防空壕で数千人から1万人以上が窒息死したといわれる惨劇がある)
この映画では、元731部隊員(レントゲン班)の宮川正(東大教授)は協力している。
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