日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
細菌詩集
731部隊を詠む
とべ しゅん(仮名=ペンネーム)
1644部隊
〈経歴〉
1919年生まれ
1940年 中支那防疫給水部栄1644部隊に配属
1944年 帰国。召集解除
■この証言は『詩人会議』(1995年7月号)所収の文章に、これまで発表された詩と文章を加えてまとめたもの。
日本ビクターから軍隊へ
部隊に入ってからは朝早くから夜寝るまでの厳しい1か月間の軍事訓練があり、2ヶ月目からは部隊から徒歩20分足らずの距離にある千葉陸軍病院に通修して衛生兵としての教育と実習とを受けました。そして3ヶ月の教育を修了して、10月には中支那の部隊へ転職命令が出ました。見送りに来た家族、縁者の人々と東京駅で別れて、東海道線を西下、翌夕方広島に着き、翌々日宇品港から病院船ミズホ丸・9000トン乗船して玄界灘を渡りました。そして上海から揚子江を遡江して南京下関に到着し、中支那防疫給水部、通称多摩部隊(後に栄1644部隊)に向かいました。その部隊が私たち衛生兵の転属先でした。
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ東北
2 華北
4 山西
高梨文雄自筆供述書(1955年)
築館は農民に目隠しをし、衣服を脱がせて地面に仰向けに寝かせるよう命じた。
そして「いいか?手足をしっかり押さえて少しも動かないようにするんだ」と言った。
彼は手術衣を着ないばかりか、マスクもつけず、消毒もしなかったことは言うまでもない。とにかく、手術に必要ないかなる準備もしていなかった。私は築館の求めに従って農民の右足と腕を押さえた。築館は菅井軍曹の手から注射器を受け取り、すぐさま農民の胸に刺した。
農民は皮膚に鳥肌が立ち、手足は冷え切って、血の流れが止まってしまったかのようだった。覆われた両目の下では唇が固く閉じられ、ここに至っても口を開くことを拒んでいるようだった。彼は2日前、第9中隊(前田隊)に捕えられて以来、一言も口をきいていなかった。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか
1 日本軍の 毒ガス戦の特徴
毒ガス戦の特徴―対国民政府軍と対八路軍とでの違い
だが、華北での八路軍との戦闘では、「燼滅」戦の一環としても毒ガス兵器の使用が1940(昭和15)年9月から43(昭和18)年まで行われており、びらん性ガスについては侵攻した住民地に直接撒いて帰ってくるという激烈な使用が確認されている。山西省を中心とする地域には欧米人が少なく険しい山地が多いので使用の事実が発覚しにくく、八路軍の毒ガス検知能力は高くないという判断も合わさってびらん性ガスの使用に踏み切ったと思われるが、使用が激化するのは1940年夏の八路軍による大規模攻勢(「百団大戦」)で日本軍が大打撃を受けてからである。これについては、北支那方面軍の弾薬使用の統計表類を集計した表9(188ページ参照)に示したように、くしゃみ性・嘔吐性ガスについても同じ傾向が確認され、40年度の使用は激増していることが分かる。なお、このようなは華北での激烈な使用の下地には、日本軍が共産主義に対する反感が強い軍隊であったことも影響しているのかもしれない。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第7章 残虐な毒ガス戦
動かしようのない事実
百団大戦における日本軍の公然たる毒ガス放射
日本の侵略に対する反撃として名高い百団大戦は1940年8月20日から12月5日まで続いた。3か月半の間、華北の広大な地域において、八路軍の主力の一部は、各交通沿線及び大小拠点の日本軍に対して積極的な攻撃を行った。当作戦は中国軍が日本軍の後方からしかける初めての大規模な作戦であり、八路軍は兵力約40万を投入、戦闘回数は大小合わせ1824回、日本軍の死傷者2万5800余人、同捕虜1万8600余人、攻略日本拠点2993地点、鉄道の破壊は、470余㎞、道路1500余km、橋、駅、トンネルなど260か所にのぼった。
当作戦において、日本軍は作戦が不利な状況になると毒ガスを用い、その回数は前後11回に及んだ。八路軍側の中毒者は1000余人に達し、129師団の旅団長・陳錫聯、范子俠、旅団政治委員・謝富治、旅団参謀長・曾紹山が皆毒に犯された。
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
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