●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた 『日本が世界征服をたくらんでいた』 ポツダム宣言「受諾し降伏したことに尽きる」 ディビット・バーガミニ 著 松崎 元 訳より 第一章 南京強奪(その1) 日本と中国 裕仁は、自分が中国に何らかの憎しみを抱いているからではなく、祖父および曽祖父から引き継いだ国家的計画(3)による必要において、中国と戦うのであると主張していた。1853年、米国のペリー提督が大砲を突きつけ、西洋諸国との通商と決済を行うため港を開くよう強いて以来、裕仁の曽祖父は、その家臣たちと、ひとつの誓いを立てていた。すなわち、「紅毛の野蛮人」は日本の聖なる国土から追放されなければならず、日本は、さらなる冒涜を防ぐために、緩衝地帯を形成するべく「海外進出」しなければならない、というものであった。 ・・・・ 旧日本軍は明治時代から中国侵略を考えていた? 潜入盗測 『日本が世界征服をたくらんでいた』 ポツダム宣言「受諾し降伏したことに尽きる」 苦境の上海 松井の五師団は、少しづつではるが日本軍占領地を広げ、ひと街区ごと、あるいはひとバリケードごとに中国人の住む西域へと前進を重ねていった。しかし、それは時間を要し、二ヶ月が経た時でも、まだ、上海郊外部での戦いを強いられていた。 その最初から、松井の遅速な前進は裕仁を失望させ、この戦争に松井はもっと個人的献身を果たすべきと考えさせていた。そしてその頃までに、裕仁は、二つの経路を通じ、過去三百年のように、宮中内部から作戦展開を監視していた。そのひとつ、その戦略全体については、彼の妻の大叔父である閑院〔載仁 かんいん ことひと〕宮――陸軍参謀総長――を通じての経路であり、そして第二の、詳細な戦術については、宮中と参謀作戦本部との間を行き来する近衛師団の幹部を通じた経路であった。すべての師団段階の命令は、最終的には裕仁の署名が必要であったが、彼は、充分に展開し終わったものとして彼のもとに報告される以前に、その戦術的な考察を深めることを好んだ。というのは、彼は過去の政策設定過程において、事前に自らの望みを表すことなくなんらかの詳細に反対した場合、後に、自分の部下の面子をつぶし、その人を辞職に追い込むことがあることを間々経験していたからであった。 南京大虐殺:侵華日軍南京大 南京電影制片庁 21分 南京大虐殺 フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」 河村たかし名古屋市長の南京事件否定発言に抗議し撤回を求める なんでこんな教科書が検定に通る? 『新しい歴史教科書』(自由社) まやかし裁判 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? ●日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか? 医の倫理は、向上すると思う!! 中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!! 夏草をふみしめ引込み線を歩いた 視界が不意に三角形に切り取られ やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる 見上げれば天を突く巨大な残骸 ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように 灰色の空の下で泣いている 【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より 日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア 混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮) ・『731部隊 細菌戦の医師を追え(今も続く恐怖の人体実験)』(高杉晋吾著 徳間書店) Ⅶ 自衛隊隊員の人体実験 赤痢予防薬人体実験 昭和42年6月29日朝、野外集団生活中の自衛隊勝田部隊隊員(茨城県)Aが下痢(膿、粘血便)を訴えた。彼は7回も下痢をして、赤痢の疑いで入院させられた。 翌30日、このAの属する隊の28人の全員検便を行なった。Aのほかにさらに2人の赤痢菌保菌者が発見された。 同年8月3日午前から4日午前にかけて隊員1089人中577人が急性食中毒症状を起こした。下痢を訴えた者498人、嘔吐を訴えた者107人、ほとんど全員が腹痛を訴えた。頭痛を訴えた者は389人である。 ●731部隊めぐる日本と米国の密約、ジャーナリストの近藤昭二氏語る 「731部隊はどこまで明らかになったか、この部分はまだ謎」 4月26日近藤昭二講演 001 4月26日近藤昭二講演 002 4月26日近藤昭二講演 003 4月26日近藤昭二講演 004 4月26日近藤昭二講演 005 ●映像でみる731部隊とは (参考)黒い太陽731 終戦50年特別企画 終戦50周年731部隊 知ってるつもり「731部隊と医学者たち」 731細菌部隊と帝銀事件との真相1 ●731に関係する簡単な映像作品を作ってみませんか? ![]() ●敗戦前から敗戦後の流れを想像してみると? ・東京大空襲のみならず、地方の各都市も空爆にあう。また最悪の地上戦沖縄。そして、原爆だ。どうしてご聖断?(敗戦)が遅れたのか?その答えは、国体護持(天皇制存続)のためだ。このために多くの人たちが犠牲になった。731では施設の破壊と同時にマルタと呼ばれる人たちを全て殺して、隊員はいち早く日本へ引き揚げた。(国体を護持するための証拠湮滅) ・アメリカは、戦争中から日本人が天皇を神とあがめている事を知っていた。それを利用して占領統治円滑に進めようとした。日本とアメリカは敗戦前から、交渉を極秘にしていて、日本政府も空襲の事、原爆投下の情報をあらかじめ入手していた。そして広島に原爆が投下されるときに、畑俊六(当時第2総軍司令官)に第2総軍を広島に集めさせ、敗戦後に日本で天皇制打倒の反乱が起きないように壊滅させた。 ・広島に原爆が投下されると、アメリカに心象をよくしようと日本医学者(石川太刀雄丸等、731からも参加)が現地に入り、原爆の被害状況(核兵器の破壊力・人体に対する影響)を調べて181冊の報告書を作成し英文にしてアメリカに敗戦後渡した。(治療はほとんどしない、731の免責をねらう) アメリカは、原爆の被害の実態の公表などの報道を全て統制し、隠し続けた。治療は行わずABCCを発足させて、731関係者なども参加させて、人体に対する放射能の影響を極秘に調べた。「日本は核兵器の非人道的な訴えを国際社会に向かって発言しない」ということも731の免責をする条件の中に入っていたのでは? 平和とは人間の生命を 尊ぶことです。 ![]() (参考)「日本のいちばん醜い日」p524~525 次に藤田尚徳の「侍従長の回想」を引用する。蓮沼侍従武官長の奏上を聞く場面である。 陛下には蓮沼侍従武官長から奏上したが、〔略〕新型爆弾については、特別なおたずねはなかった様子だったが、広島市全域の報に、陛下は深い憂慮の色を浮かべておられた。〔略〕8日朝、東郷外相が決意の色を浮かべて参内してきた。そして御文庫地下壕の御座所に進んだ外相は、原子爆弾に関する米英の放送を詳細に言上すると、陛下は原子爆弾の惨害をよく知っておられ、次のように、一刻も速やかに和平を実現する事が先決問題である点をお示しになった。 天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ヨハンセン(吉田反戦グループの略)・グループはスティムソン陸軍長官の極秘情報をグルーを通じて入手し、その都度天皇に報告していたからである。 では、どうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理を付けられる見通しがたったからである。 東郷茂徳も天皇から“急げ”と告げられ、赤十字との交渉を急いだ。グルーはヨハンセン経由で天皇に8月6日の原爆投下の予定を告げていた。東郷茂徳は8日、天皇に会い、最初に「無事にスイスの件はうまく処理できました。当分資産は凍結されますが、遅くとも3~5年後には凍結を解除してくれるとスティムソンが申しております・・・」と言ったはずである。それから天皇と原爆を“天佑”として終戦工作に入るべく相談したに違いない。(以上、引用) 8月14日から15日には宮城で某宮様が中心となって偽装クーデターを起こさせ、近衛師団長を惨殺し、偽命令を出したが第1総軍がおさえた。そして阿南(あなみ)陸相を自決させ、降伏の段取りをした。(天皇の敗戦の段取り?) マッカーサーの主張などによりアメリカは、秘かに天皇制護持を容認し、日本の占領政策を円滑にいくようにして、731などの戦争犯罪で天皇に戦争責任が及ばないようにした。天皇とマッカーサーの極秘の会談は11回に及んだ。決して公開されることはない密約が多数存在するのでは? アメリカも日本に配慮し、マッカーサーの日本上陸を余裕を持たせた。それまでに日本政府は、天皇の戦争責任に関わる極秘文書を焼却した。 ・1945年8月30日にマッカーサーが厚木飛行場に降り立った時、「ジェネラル石井はどこにいるか?」と言って、部下にその行方を探させた。 ・アメリカ占領軍の上層部は、石井四郎を早くから探し出し懇意にしていた。1945年11月20日行方不明のはずの石井四郎と若松町の石井の家で6名の米軍将校と会食をしている。 ・占領軍上層部は中国の情報や日本人捕虜によって人体実験・細菌戦の情報の大まかな部分はつかんでいたが詳しい情報は得ていなかった。 ・占領軍上層部は、天皇を利用した占領統治を優先するため、天皇の戦争責任が問われる問題は、東京裁判では取り上げなかった。 ・731部隊の事は、細菌兵器開発に後れを取っていたアメリカが、極秘に調査団を送って調査させた。 ・731を調べる調査団が来日したが、サンダース、トンプソンの時は、731部隊員は人体実験の事を極秘命令なので口を割らなかった。 ・1947年1月、ソ連が柄沢の供述から、人体実験の情報を得たので、石井の訊問を要求した。アメリカは、事前に石井から人体実験の情報を聞き出し、ソ連には、アメリカと組み、うまく芝居を打って情報を与えなかった。 ・1947年6月にアメリカは、731部隊の人体実験に関するフェルレポート、12月にヒルレポートを作成した。 ・GHQ法務部のニール・スミスが、「捕虜に対する人体実験及び解剖」という明確な罪状によって、平房の石井部隊、新京の第100部隊や東京の陸軍軍医学校の医師や関係者などを根こそぎBC級戦犯として法廷に持ち込もうとしたが、参謀2部のウィロビーが法務部の調査を中止させた。 ・1948年1月26日「帝銀事件」が起き、捜査が731部隊に及びそうになると、またもやGHQは731部隊の関係者の捜査を中止させた。 ・占領時アメリカは、郵便や報道を厳しく検閲し、日本国内で原爆の事や731部隊の情報が出ると厳しく取り締まった。1950年代に入り「ハバロフスク裁判資料」が出たが、ソ連のシベリア抑留などの戦争犯罪を隠すものだとしてまともに取り上げなかった。 ・戦後731部隊員がアメリカに渡り、A(炭疸菌感染)レポート、G(鼻疽菌感染)レポート、Q(ペスト菌感染)を書き上げ、アメリカの生物兵器開発に協力した。 ・戦後、アメリカ政府・日本政府は731の情報【奉天の捕虜収容所の聞き取り文書やフェルレポートの各論、衛生学校記事(一部開示)、その他】を行方不明として隠して続けている!! ●天皇と731の関係は? ・天皇は生物兵器に関心があった。(『死の工場』シェルダン・H・ハリス著(p229) 1925年9月赤坂御所に生物学研究所設置「昭和天皇」p61ハーバード・ピックス著(講談社) 1925年、ジュネーブ協定締結・・・毒ガスの禁止だけでなく、ポーランド代表の提案を入れ、細菌兵器の使用禁止もうたっている。・・日本とアメリカは批准しなかった。石井四郎、遠藤三郎に細菌戦の重要性を主張!!「医学者たちの組織犯罪」p60 常石敬一著より(朝日新聞社) 天皇の神格化1928(昭和3)年即位の礼(天皇:大元帥27歳)(約1年間かけて行われ、最後は大嘗祭)裕仁は現人神(あらひとがみ)になる。 27歳の若さで現人神?頭の中では大日本帝国の夢が膨らんでいたのであろうか? 昭和3年(1928年) 昭和天皇 即位の大礼 大日本国憲法では 第三條 天皇ハ聖ニシテ侵スヘカラス 第四條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ 第十一條 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス となっている。天皇が神で神聖であり、元首であり、陸海軍に責任を持つことになっている。 ところが戦後補償裁判では「国家無答責」の法理によって、国・天皇の責任が一切追及されない。 何で、戦後も旧憲法が生きているのか? (参考)国家無答責の法理(こっかむとうせきのほうり)とは、国家無答責の原理ともいわれ、大日本帝国憲法のもとでは官吏は天皇に対してのみ責任を負い、公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする法理をいう。 1925年・・・治安維持法制定(国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。) ・1928(昭和3)年、昭和天皇の即位式・・・ほぼ1年かけて現人神・大元帥になった。(27歳) 日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台もこの時期に築かれた。1928年、田中内閣は化学・生物兵器禁止国際議定書〔1925年調印の「窒素生ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」のこと。日本の批准は1970年〕の批准を見送った。翌年には枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎてとても実行できないと言う。・・「昭和天皇」p170ハーバード・ピックス著(講談社) ・1929(昭和4)年、昭和天皇、陸軍軍医学校視察、どのような目的があったのか?(軍医学校の中に1932年に防疫研究室が設置され、33年に規模を拡大。多くの京大や東大の教授達が嘱託として働き、731部隊などにいろいろな指令を出した。)「陸軍軍医学校50年史」より 軍刀には不思議な力がある? ![]() ![]() ・小泉元中将と助教授を結び付ける唯一の“接点”も細菌戦部隊だった。小泉は陸軍省医務局長時代、細菌戦準備を提唱した石井四郎元中将の最もよき理解者の1人であったし、後援者でもあった。小泉元中将の支援なくして日本の細菌戦部隊はありえなかったと言ってもよい。 その細菌戦部隊とかかわり、そこで人体実験を強いられたのが、自殺した助教授である。彼は医学者としては、手を染めてはならない人体実験を繰り返し、その良心の呵責から死を選んだのである。 小泉元中将を、日本の細菌戦を推進し、大きな流れを作った人物と位置づければ、助教授はその流れに巻き込まれ、のみ込まれた1人といえよう。・・・ (『細菌戦部隊と自決した2人の医学者』常石敬一・朝野富三著より) 小泉親彦・・・1932年(昭和7年)、近衛師団軍医部長に就任。1933年、陸軍軍医学校校長。1934年(昭和9年)、陸軍軍医総監(陸軍中将相当官)となり陸軍省医務局長に就任。1937年(昭和12年)、官名が陸軍軍医総監から陸軍軍医中将に改められた。階級としては、軍医中将は軍医として最高位である。1940年(昭和15年)、勲一等旭日大綬章受章。1941年(昭和16年)、第3次近衛内閣で厚生大臣に就任、次の東條英機内閣でも留任した。 1945年(昭和20年)、連合国軍の取り調べを拒否し、割腹自殺を遂げた。 軍医時代の小泉の大きな仕事 1、厚生省設置の推進 2、日本における毒ガス戦の基礎を築く 3、防疫研究室新設に協力し、この近衛師団軍医部長を兼務していた時、近衛師団の土地約5000坪の土地を「譲与」した。(1933年10月、新たな防疫研究室完成) ・厚生省とは国民の健康を増進するために作られたのではなく、強い兵隊を作るために作られたのか? ・毒ガスの人体実験は平房の731部隊の施設で516部隊と合同で行った。 ・陸軍軍医学校と防疫研究室は、地下道でつながり、その地下道には、コンクリート製の水槽があって、ホルマリンの中に死体が、15、6体浮かんでいた。(『証言731石井部隊』郡司陽子著)(731部隊で、生体解剖したものを飛行機で研究室まで運んだのか?) 小泉親彦(こいずみちかひこ) ![]() 1928年~30年 石井ヨーロッパ視察、1933年背陰河(はいいんが)に秘密裏に東郷部隊設置 1933年防疫研究室完成(731部隊の司令塔)、1936年(陸軍軍医学校50周年)遂に防疫機関(731部隊)の新設をみるに至れり。(天皇の軍令に基く) ここで、防疫研究室新設の理由として、欧米各国と比べ「我が国に之が対応施設なく」と述べられている。しかしすでに軍医学校にはこの研究室より規模も大きく、名称も似かよっている「防疫部」が設けられていたのである。対応施設云々こそ、細菌戦研究の研究室である事を、暗に認めたものであろう。この表現でも、一般に公開することを予定した文書においては、ぎりぎりの線であろう。・・・・・・ 「同機関は内地防疫研究室と相呼応して皇軍防疫の中枢・・・・」の部分 満州の部隊は形式上関東軍に所属するが、東京の軍医学校と密接な連絡を取りながら、業務を行う、ということだろう。 (『消えた細菌戦部隊』常石敬一著より) 『陸軍軍医学校50年史』P184 ![]() 防疫研究室『陸軍軍医学校50年史』より ![]() 731部隊全景(『続・悪魔の飽食』森村誠一著) ![]() ・4宮殿下、陸軍軍医学校50周年式典にご臨席・・・731部隊(細菌戦)・毒ガス戦にかける思いも強かったのでは? 閑院宮(かんいんのみや)・・・1931年~40年陸軍参謀総長 梨本宮・・・元帥、敗戦後、神宮祭主であったことから国家神道の主体的な頭目であったとみなされ、皇族としてただ1人A級戦犯容疑者に指定されて、巣鴨プリズンに拘置された。1937年6月、対中戦争への突入を東条と協議するため満州を訪れたのは、他ならぬ梨本であった。この意味では彼は全8年に及ぶ地獄のような戦争の開始者であった。(「天皇の陰謀」(上)p201) 朝香宮・・・1937年(昭和12年)12月2日、上海派遣軍司令官を拝命し、直後の南京攻略戦に参加。南京大虐殺に関与。 東久邇宮(ひがしくにのみや)・・・太平洋戦争時は防衛総司令官・陸軍大将に就く ![]() ・4宮殿下陸軍軍医学校の50周年の式典に臨まれる。 ![]() ![]() 陸軍軍医学校50周年記念行事について 細菌戦の予行演習?731部隊員増田薬剤官同乗。(夜の宴会:「よし、細菌戦で行こう!乾杯!」? ![]() 久邇宮(香淳皇后の父親)・・・生物学戦争についての情報を提供し続けた? ![]() ・永田鉄山・・・石井の特に細菌戦研究についての主張は、陸軍省や参謀本部において次第に支持を集めて行った。彼の意見を支持した人間のうち最も有力な人物が、1931年当時陸軍省軍務局軍事課長(陸軍中佐)で、1934年には実質的に最も力を持っていた局長である軍務局長(陸軍少将)に就任する永田鉄山だった。ちなみに、後に石井部隊が創設されてから、部隊長の石井の部屋には永田鉄山の胸像が飾られていたという。国家総動員を唱えていた。(『消えた細菌戦部隊』常石敬一著) ・1937年(昭和12年)・・国民精神総動員【第一次近衛内閣が1937年(昭和12年)年9月から行った政策・活動の一つで、「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公)を推進した」運動。】「国体の本義」(神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなった。) ・1938年(昭和13年)・・国家総動員法発令【総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。】 ・1941年(昭和16年)・・「臣民の道」7月の第3次近衛内閣時に文部省教学局より刊行された著作である。欧米の個人主義思想を否定し、ただ国体の尊厳を観念として心得るだけでなく、国家奉仕を第一とする「臣民の道」を日常生活の中で実践する在り方を説いている。 戦陣訓発表 (生きて虜囚りょしゅうの辱はずかしめを受けず、死して罪禍ざいかの汚名おめいを残すこと勿なかれ。) 1940年(昭和15年)皇紀2600年?に東京オリンピックを開催する予定だった。 道徳の強化、「日の丸」・「君が代」の強制、秘密保護法で隠す動き、軍事力強化、集団的自衛権を行使可能にする流れは 何か昔の動きと似ていませんか? オリンピックよりも、脱原発、福島・東日本の復興にお金をかけたらいかがですか!! ●731部隊展開催のお願い ![]() 全文は「ノブのノート」で!! |
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