核・戦争のない世界!!

2024-09-04 12:08:17 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 
 
 
南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈


 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)




       




 原爆    
        


  
 
日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
9、医科学界に於ける注目すべき事
 
重水、重水素、重酸素等の医学上に於ける意義
これを重水と言うているのである。狭義で単に重水というのは水素が重水のみによってなっているD2O16のものを言うている。これが如何なる意義を生物界に有するであろうか。知らなくてはならない事柄である。化学界に於いては千谷利三氏が特に重酸素の分布について多くの貴重なる研究を発表せられ、堀内壽郞氏は重水、重水素と電極の機構について、決定的創見を発表し、氏の二路説Dual theoryは一般に認められ多くの追試があるという事である。
 
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第8章 昭和維新と統制
 
 しかし、1930年代、陸軍が兵士をもっとも多く徴集していた農村についての民族学的研究は、文部省の最善の努力にもかかわらず、地方住民は相対的に政府の宣伝に影響されていなかったことを示している。彼らにとって天皇制イデオロギーは、独自の地域文化ほどの意義や価値をもたなかったからである。イエやムラの意識がまだ、国家意識より大きかったのである。事実、1937年半ばに日中戦争を開始する段になっても、多くの地方住民は天皇の権威をきわめて表面的に受け入れているにすぎないことがわかった。これを知って、陸軍は兵士が根ざしている基盤、わけてもイエやムラに対して働きかけを行った。1941年1月8日、陸軍大臣が布達した「戦陣訓」は、「恥を知るものは強し、常に郷党家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励してその期待に答ふべし」「生きて虜囚の辱を受けず。死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」と命じた。
 
 
 
 
 
 

 

 

 




























 
















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































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