『731~フクシマまで』(2024.12.18)
『いのちの岐路に立つ 核を抱きしめたニッポン国』
731部隊を語る!!
戦争反対!!脱原発!!
核兵器禁止条約 3回目の締約国会議 政治宣言を採択して閉幕
東京大空襲 10日で80年 犠牲者の名前記したタペストリー公開
“米がウクライナに和平案”報道 ロシア大統領府 評価の考え
【詳細】ロシア ウクライナに軍事侵攻(4月21日の動き)
ガザで救急車攻撃15人死亡“ハマスの車両と誤認”イスラエル軍
イスラエル ネタニヤフ首相の強硬姿勢に市民など反発広がる
イスラエル 地元世論調査で停戦支持約7割に 兵役拒否も広がる
フランシスコ教皇死去 ローマ教皇庁 2019年訪日 核廃絶訴え
フランシスコ教皇 “ガザ地区やウクライナでの平和実現を”
インドネシア大統領 ガザ地区の約1000人 一時受け入れ表明
“イスラエルへの抗議活動”にトランプ政権が圧力 広がる波紋
脱原発!!
東京電力 柏崎刈羽原発6号機 原子炉に核燃料入れる方針固める
女川原発2号機 運転差し止め訴訟 住民側訴え退ける 仙台高裁
志賀原発 “活断層連動”範囲 長さ1.8倍に見直しへ 北陸電力
「原発必要ない」 女川原発再稼働に反対し東北電力本店などで抗議活動
第115回八王子アクション
2025.4.9 核兵器禁止条約に日本は署名・批准を!!(八王子・ドンキホーテ前)
「日本人は戦時中、ひどいことをさんざんしました。民間人をたくさん殺しました。日本人はこのことを忘れてはいけません」
平頂山事件92年 歴史を学び合い、不再戦を誓う集会!!
平頂山事件92年 歴史を学び合い、不再戦を誓う集会!!
731部隊展
2024 11 16平頂山集会
2024 11 16平頂山集会 纐纈講演
2024 11 16平頂山集会 パネルディスカッション
平頂山事件92年「歴史を学び合い、不再戦を誓う」集会 アンケート集計
(集会をどこで知ったか)(記入者年代)
3、友人・知人から、 70代
・纐纈講演
現在退職後も社会科講師として中学生に教えています。教師自身も大学時代には知らなかった歴史を その後学びながら生徒に当たってきたと思います。自ら教科書以外のことを学ぶ姿勢がなければ、政府の戦前回帰や歴史修正主義に流されると実感します!「新しい戦前」となっているこのイミが長年歴史を教えながらわかるようになりました。「敗戦」に私もこだわります。またどうして当時の国民が戦争に流れたか、立ち止まって考えられる生徒になって欲しいと思います。戦争史を私自身が学ぶことが平和教育に必要と再確認しました。今は亡くなった実母(1929年生)の戦争にまつわる話は当時のそして戦後の日本人の中国人への意識 情報操作の結果がわかります。だからこそ歴史認識の差が私と母とのケンカのもとになったなと思います。一方中国への認識のギャップは埋まらないものの、韓国(朝鮮人)への差別感は韓流ブームでつまり文化の力で母の認識が好ましいものになったのが劇的でした 。また生徒に中国が敗戦国日本に賠償金を要求しなかったことを伝えると生徒の「すごい」と感嘆の声が上がります。
・パネルディスカッション
平頂山事件で中国人と朝鮮人の分断があったのは初めて知りました。また計画性もわかりました。
・今後の学習会
いつも思うのですが退職前の先生方が忙しくこういった歴史を学ぶ場に来れない多忙化も戦前の状況に似ているのが苦しいです。
作品によせて
1945年8月6日のソ連が参戦した時、私は12才だった。旧満州国の奉天市(現瀋陽市)に住んでいた日本人の女性と小学生以下子どもは、戦火から避難するためにリュック1つを背負って南下する列車に乗った。8月15日の敗戦の知らせによって在満のすべての日本人は日僑(他国に住む日本人)として扱われ、この日を境に私の流民の旅が始まった。
疎開地から奉天市に戻ったものの支配関係は全く逆転し、異民族から受ける迫害は想像を超えるものであった。自分の命や財産は勿論のこと、人間そのものの尊厳さえ奪われた極限の状況での体験は、私の人生観を決定づけた大きな要因であることに間違いない。
居住地を離れてから日本への帰還船 (私には流民船)に乗るまでの約2ヶ月の出来事はまさに難民生活そのものであり“衣"は着のみ着のまま、“食"はこうりゃん、“住"は倉庫などであった。
本籍地の北海道には墓地と何軒かの親類があっても、生活の基盤はなく、その後落ち着く場所を求めて転々と移動し、やっと定住したのは敗戦から15年を経過した1960年であった。
16、「山越え」
佐世保港は米軍の軍港になり、山を越えた土地に収容所があるので、病人と女性と子ども以外は徒歩で山越えをした。
1946年8月
少年Mの記憶ー「満州」からの帰還ーDVD上映会には70余名の来場者があった。
9・29アミダステーション(八王子)
近藤滿さんの紙芝居をDVDに、近藤仁子さんの話 <少年Mの記憶ー「満州」からの帰還> DVD完成上映会(五井信治)
上映途中、肩のけがで入院中の近藤仁子さんが、主治医の許可(1時間以内)を得て、会場にお越しになりました。 近藤仁子さんは、滿さんの「満州」での生い立ちからそこでの生活、「満州」から帰還する際に、生まれたばかりの赤ん坊(姉の子)を家族全員で、無事に日本に帰還できるように気を付けたことや、日本に帰還してからも安住の地を求めての苦労を語ってくれま した。滿さんは高校の美術の先生になり、その画風はヨーロッパの古城や中近東の城跡のような荒涼としたものを好み、日本の湿潤な緑を嫌っていたのは、「満州」での体験が大きく影響しているのではないかということ。2001年のアメリカの 9.11 事件後、アメリカがアフガン侵攻をしたことに、滿さんは、ショックを受け、毎日、新聞に出る写真を、絵に描き、タイトルは、「大義は誰も幸せにしない」(戦いは誰も幸せにしない)としました。それを見た画廊の方から、「これをこのままにしておかないで、個展を」と。個展をきっかけに、大きな絵も描き、その最後の絵には、ハトがいっぱい飛んでいる中に、人物がいる絵でした。仁子さんは滿さんは平和を望んでいるんだな、こういう世の中を望んでいるんだな、と思ったそうです。
2024.9.29 少年Mの記憶ー「満州」からの帰還 感想
1、この集会を何で知りましたか? 近藤仁子さんから
(感想)戦争を知らない私、私の両親は、戦争の話をほとんどしてくれませんでした。DVDを見てとても良かったです。かかわって下さった皆様、ありがとうございました。
*DVD購入ご希望の方は、nobu.goi@gmail.com(五井)までお問い合わせください。
1972年9月29日 日中共同声明調印!!
7、日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。
8、日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
9、日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
1972年9月29日に北京で
日本国内閣総理大臣 田中角栄(署名)
日本国外務大臣 大平正芳(署名)
中華人民共和国国務院総理 周恩来(署名)
中華人民共和国 外交部長 姫鵬飛(署名)
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