不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-09-04 11:04:23 | Weblog

日記@BlogRanking

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)
西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行
被害地への旅
日本軍「ペスト撲滅隊」の正体
 ここに1942年(昭和17)年6月3日付の『朝日新聞』の切り抜きがある。見出しは「尊し・ペスト撲滅隊」とあり、本文より大きい写真には、忍者のような異様な防菌服に身を包んだ3人の「ペスト撲滅隊員」の2人が、担架で生死不明の「敵兵」を運んでいる姿が写っている、防菌服は顔も頭も完全に被う頭巾がついていて、眼には水中眼鏡のようなゴーグルをかけている。写真キャプションは「浙東戦線義烏にて 白澤特派員撮影」とある。
 時期的にはドゥーリットル本土爆撃隊の着陸飛行場を攻撃目標とした、浙贛作戦が始まって間もないころで、1940(昭和15)年10月の衢州ペストノミ攻撃に端を発して、石井四郎率いる「奈良部隊」の思惑通り、ペストが周辺地域に不気味に伝播を続けていた時期でもある。そしてこの年の9月に、義烏は日本軍に占領された。この記事の本文は以下のようになっている。

 今次の浙東作戦で防疫給水班に新しくペスト撲滅隊が組織され挺身第一部隊とともに乗り組んで涙ぐましい活躍を続けていることは既法の通りであるが、大陸このごろの炎暑にもかかわらず全身ゴムの作業服に包んでペスト撲滅に挺身する隊員の辛苦は筆舌につくしがたい、写真は重慶軍に見放されて置去りにされた敵兵にまで神のような救いの手をさしのべる皇軍の貴い姿でこの手あつい看護のもとに瀕死の重床から一命をとりとめて感泣する重慶兵の数も多いとのことである、(句読点原文のまま)

 「瀕死の重床」という漢字の誤用はご愛嬌としても、「敵兵を手厚く看護」して、「救いの手を差し延べる」ことなど、命がある内に敵の情報を取る、というような目的でもなければ、皇軍にはありそうもないことだった。「敵が救いの手を差し延べることなどあり得ない」と教えて、「生きて虜囚の辱めを受ける」ことを禁じたのが皇軍だったからである。「敵の手に落ちれば必ず殺されるのだから、その前に1人でも敵を倒して玉砕して死ね」と、死を強制したのが皇軍だったからである。
※この朝日新聞の記事を読んだ日本の読者はどうだろうか?まさか日本軍が義烏においてペスト菌をまいているとは思わないだろう。自然にペストが発生したので、防疫給水隊が撲滅するために馳せ参じたと考えるだろう。怖いことだ!!日本軍がペストをばら撒き、蔓延させ、また、敵を救うのではなく、その効果を調べるために瀕死の兵士を担架で運び、生きながらに生体解剖して調べたというのが真相だ!!日本の天皇教に洗脳された国民は皇軍の活動を文面通り信じたのであろうか?マスコミの流す戦時下の情報は、国によって厳しく検閲され、本当のことは書くことができなかった!!今現在でも国益に関わることはあまり書けないのではないか?
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
芮葵琴(女、56歳)の証言
 1937年には、私は9歳で、家中で7人、父は染物師でした。その頃家は吉慶路104号のある人の家の薪小屋でした。日本人がもうすぐ攻めて来るという時に、家主の王明倫がよその地へ逃げて行きましたが、行く時に私たちに門番を頼んで行きました。1937年の12月13日の前の日の晩に、我が家は一家で難民区に入りましたが、上海路でした。
 中2日おいたある午後、父と兄とが吉慶路の鴨子塘に見に帰り、戻って来て言うには、2人が門を入ったところに、日本兵が2人闖入して来て、父に炭を欲しがり、父の言葉が分からずに、かめのふたを開けると、日本軍はかめの水を見て、父の頭を一発撃ちましたが、撃ったのが高くて、撃ち殺されはしなかったものの、父は吃驚して地に倒れ、兄は地にひざまずいて懇願しました。日本兵が行ってしまってから、兄と父は急いで難民区に逃げ戻りました。
 2人が吉慶路に戻ると鴨子塘に穴が1つあるのが見え、何十軒もの隣人たちが穴の入口で撃ち殺されていました。家から十何軒か離れている灯篭店では、日本兵がその家の門をパーッと開けて、門番していた一番上のを門の所で突っつき殺しました。難民区へ戻るので莫愁路を通る時、道々どこも日本軍に殺害された死体でした。父は難民区に戻ってから、驚かされた余りに病気になり、何日もしないで死んでしまいました。
 一度姉の芮葵仙がおしっこをしたがり。私が付いて出かけたら、日本兵の巡羅隊とぶつかり、急いで逃げて、竹の堆くなっている所に隠れ恐くて震えどおしでした。(王金栄と呉紅興が記録)
●731部隊と天皇

 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする