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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-08-26 07:35:26 | Weblog
 
 日記@BlogRanking

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

  広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)
西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行
被害地への旅
商業港 寧波(ニンポー)

【胡賢忠(フーシェンジョン)の陳述書から昨日の続き:】
 何日もしない内に、今度は活発で可愛い盛りの6歳の弟・胡慶貢の命が奪い去られたのです。私は弟の死が信じられませんでした。それから幾日もしないで、父の胡世桂も姉と弟同様に大腿部が腫れ、ペストの症状で苦しみ出しました。やがて、真っ白い帽子と服に、白い長靴をはいた防疫隊の人が家にやって来て、父を重症者だけを収容する甲部隔離病院に担架で運んで行きました。私は父が死なないようにと祈っていました。しかし、間もなく母が泣きながら「お父さんは死んでしまった。これからどうやって生きていこうか」と泣き崩れました。私と母は悲しみと恐ろしさにおののいて、夜も眠れませんでした。母はこのような残酷非情な出来事にただ泣くばかりでした。何日かして、母までが発病しました。頭痛・発熱、そして、脇の下が腫れてかたまりができました。母は、「私は隔離病院に入れられて死んでしまうだろう。この魔物のいるところから抜け出さなければお前も生きていけなくなる。胡家ではお前1人が生き残った。短い間に3人もの肉親を失い、又最後の1人の愛する母を失おうとしている」と涙ながらに私に言いました。
私も涙一杯で「母さん死んじゃ駄目、母さんが死んだら僕はどうなるの」と叫びました。ほどなく母は死にました。後になって近所の人から「お前の父母は寧門の老龍湾に埋葬された」と聞きました。たった1人頼る者もない孤児の私はどうやって生きていけるのだろうかと、悲しみは増すばかりでした。自分だけがどうして感染しなかったのか、天はなぜ私だけをこの地に残したのか、なぜ家族とともに死なせてくれなかったのかと、天を恨みました。孤児になってからの体験は、とても言葉では言い表せないほど悲惨なものでした。

 寧波の原告団代表の何祺綏が、私を開明街に案内してくれた。そこは今も活気あふれる商店街で、さまざまな店が軒を連ねていた。道端に建つ「侵華日軍細菌戦寧波鼠疫区遺止」の黒い御影石の碑だけが、57年前にこの地で起こった出来事を伝えていた。石には「母忘国耻 励志国強」という力強い文字が刻まれている。
 感染死した人々が埋葬された老龍弯(現在は老弯新村と呼ばれている)にも行ってみたが、広い通りに大きなビルが立ち並び、集団墓地という面影はどこにもなかった。
※ペストによって親族を亡くされた方はたくさんいたと思う。それ以外でも、中国やアジア太平洋地域において、日本軍によって、親族を亡くされて孤児となった人はたくさんいるだろう!!もちろん、日本においてもアメリカの無差別な空襲によって同じような境遇になった人はたくさんいた。
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
郁正清(男、72歳)の証言
 16日の午後3時に、売国奴が敵の首領を引き連れて乾河沿の金陵中学に来て、そこは難民が割に集まっている所でしたが、難民に集まらせて訓話を聞かせようとし、その時私もその場にいました。まず売国奴が難民に話し始めました。「兄弟よ、私は姓をといい、名を栄光といって、江西同郷会の代表であり、キリスト教徒たちが私に南京維持会の顧問になって欲しいと言っている。この御方(日本の首領を指差して)は大日本帝国の皇軍が、南京憲兵司令長官に任じられた方であって(背が高く、年の頃は50歳前後で、顔が黒く、鼻の下にちょび髭が少しある)、我々難民の救い主でいらっしゃる(えいっ、救い主ではなくて、難民を虐殺し強姦する魔物なのだ)。あんたたち難民の中で中国兵で逃げ込んで来た者は急いで出て来るがいい。兵だった者はやはり兵となり、士官だった者はやはり士官となる。もしも立って来ない者があるなら、調べ上げた上で容赦しないのだ。あんたたち兵だった者には特徴がある。1」単身の者で両親兄弟妻子がいない;2)衣服が大きさが揃っていない;3)頭が丸坊主の年若い者:この3つが揃っている者は中国兵だったのだ」。そうしたら一群の人たちが出て来て、日本の賊は顔がほころびっぱなしになり、握手したり煙草を勧めたりして、一方に立たせ、煙草を取り出して1人に1本ずつやったりしました。最後には1人衣服が長いのやあとに短いのやで不揃いな人が調べられる番になり、中国兵だと言われたのですが、その時婦人で1人、懐に2、3歳の男の子を抱いたのが、やって来て私の従兄ですと言い、小さな子どももおじちゃんと呼んだので、日本の賊はその人を放ちました。後になって分かったのでは、その人は山東の人で、姓は康といい名は孝元といって、88師527団の小隊長だったのですが、この婦人はその人とは何の知り合いでも無くて、救ってあげたのです。(明日に続く:戦国利が記録)
●731部隊と天皇

 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

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