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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-08-15 12:35:51 | Weblog

日記@BlogRanking

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

 65年前の8月15日、広島、原爆投下から9日が過ぎた。
長崎に原爆が投下され6日が過ぎた!!この間に多くの人々が死んでいる!!
 日本の各都市でも空襲で、焼け野原となり多くの死者を出していた。
また、前日の14日には大阪で空襲があり多くの人が亡くなった!!
 この日やっと日本は戦いをやめた!!敗戦記念日!!
その責任は一体誰にあったのだろうか?
昭和天皇や軍部・政治家ではないのか?

 また、満州ではソ連軍が国境を越えて攻めて来て、主力部隊を欠く張り子の虎の関東軍は抗戦できず、それまで威張っていた日本人は大混乱になり、多くの日本人が広い中国を逃げまどい、ある者は両親と生き別れて中国の養父母に育てられたり、着の身着のままで何とか日本に帰国した者、八路軍や国民党軍の兵士になった者、あるいは、開拓団で集団自決した村、発狂した者、1人で自決した者、もちろんソ連軍によって殺された者、捕虜になった者、過酷な状況に置かれ、その後も運命に翻弄された!! 想像しただけでも、恐ろしい光景が浮かぶ!
  一方731部隊にはいち早く撤退が命じられた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、マルタは1人残らず殺害され、松花江(しょうかこう)に捨てられ、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収した。
 撤収に当たっては、特別列車が用意され、また幹部は飛行機を使ってである!!満州に取り残された他の人たちと比べて、この特別扱いは何だ!!如何にひどいことをしていたかを隠すために!!
  広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国で、アジア太平洋で行った残虐行為の多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)
西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行
実戦の被害地
1940(昭和15)年 浙贛(せっかん)鉄道沿線都市

パイロット松本正一証言
 また、ペストノミを散布しようとして、箱の後ろの扉がうまく開かず、なかでノミが渦を巻いた状態で、筧橋の飛行場に引き返して来たことがあった。ところが飛行場の草むらで箱の扉が開いてしまい、大量のペストノミが出てきてしまった。このときは大慌てで消毒薬をまいたがうまくいかず、結局飛行機ごと燃やしてしまったという。
松本正一の話によると、奈良部隊では隊員は偽名を使うように命じられていたという。松本は「桂」という名前を使い、増田班長は「赤城」、同期の桜永は「大江」と呼ばれていた。石井四郎が「東郷一」という偽名を使っていたのは知られている。奈良部隊には制服もなく、代わりに襟章を渡された。松本は中尉の、桜永は大尉、荻原隊員は少佐の襟章を付けていた。髪をのばしたり、ジャンパーを着たり、服装は自由で、将校クラブである階行舎を宿舎にしていた。松本の家で見せられた南京時代の写真には、中国服を着た同僚と白いワイシャツ姿でくつろいだ様子の、若き日の松本が写っていた。街に出る時に、細菌戦という「極秘任務」を帯びたパイロットであることを悟られないようにするための、カモフラージュであろうか。
※名前を変え、服装にも気をつけて、細菌戦という「極秘任務」を遂行していた!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
毛徳林(男)の証言
 車が城西の双塘礼拝堂と学校(今の19中学)に着いて、門から入るや、全地一面の難民で男あり女あり老いたのも幼いのもみんないました。身動きできずに地に横たわったいるのもいれば、涙にむせんで声が出ないのも、苦しくうめいて止まないのもいました。生活の面では、飲める水が一口も無く、その他はもう言うに及ばずの状態でした。1人私の知っているのがいて、私に言うには、老いたのも若いのも鼓楼の難民区に行くのが間に合わなかったのでした。およそ家に留まっていた人は、全部銃殺されてしまい、この礼拝堂に来るしかなく、運を天に任せて、明日またどうなることやら今日は分からなく・・・・・みんな涙を流して分かれました。
 車が下関(シャーカン)の聖公会の教会堂と学校に行きました。私たちが挹江門を出る時、城門に死体がいっぱい2メートルほどの高さにうずたかくなっているのが見えました。真ん中に出入りする道が一筋残っていて、門は既に閉じるわけにはいかなくなっていました。下関から戻って来ると、三牌楼の前の鉄道部の筋向いにある大きな溝に、死体が縦横に重なり合っていました。東西の歩道にも散発的に死体がありました。それらの死体は、ある者は軍人で、ある者は50歳台の市民で、青少年のもありました。男も女もいました。(明日に続く:高興祖が記録) 
●731部隊と天皇

  欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

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敗戦記念日に思う!!

2010-08-15 11:19:08 | Weblog

日記@BlogRanking
8月15日
敗戦記念日
日本は1931年中国を侵略してから15年たってやっと戦争の負けを認めた!!
やっとこの日、戦争が終わったのだ!!
日本の残虐行為によって大変な目に会っていたアジアの国々はこれでやっと解放された!!

一方、日本本土では
長崎の原爆投下から6日目である。
兵士は疲弊し、国民も焦土と化した地で、何とか生きていた!!
戦争の最高責任者天皇はポツダム宣言の受諾に当たって、国体護持にこだわり続け、敗戦を遅らせた!!
 その結果米軍の空襲や原爆による被害者、ソ連の参戦による被害者を続出し、大変な事となってしまった!!

 今改めて、昭和天皇の戦争責任を問う!!

敗戦直前・直後、日本政府・軍部・宮内省は、軍の極秘文書を焼却し始め、証拠隠滅を徹底的に図り、日本の加害責任を闇に葬り去ろうとした。もちろん今でも、証拠を公開せず、隠そうとしている!!

復員した兵士たちにも、箝口令が敷かれ、加害行為を他者に言うことは禁じられ、戦友会などが圧力をかけた!!

政府には、あらゆる戦争資料の情報開示を求める!!

 その結果、日本は未だにあの戦争がどんな戦争だったのか、共通の認識ができないままでいる。

A級戦犯を祀ってある靖国神社に参拝し、あたかもあの戦争が正当防衛の戦争であったかのような発言をする政治家が何と多いことか?

又、国・文科省は、教科書を通じて、加害行為はできるだけ少なく見せ、被害者意識を植え付けようとしているかのようだ!!

15日の敗戦記念日!!改めて日本が起こした戦争の加害行為を反省する日でもある!!
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