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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-08-07 11:27:15 | Weblog

日記@BlogRanking

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

 65年前の8月7日、広島、原爆投下から1日が過ぎた。
多くの人々が6日に即死し、又多くの人々が被爆に苦しみ、もだえ、息絶え絶えになっていたことだろう?阿鼻叫喚の世界が広がっていただろう?想像しただけでも、恐ろしい光景が浮かぶ!核兵器廃絶と声を大にして叫びたい!!
 しかし、日本軍が中国で、アジア太平洋で行った残虐行為の多くの被害者の方々にも次の詩は言い得て妙である。
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ

●731部隊
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)
西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行
第三章 新しい証言者と新資料の出現
昭和天皇死去・「731部隊展」以降
細菌戦野戦部隊
 だいたい5日ほどたって、発病する頃に戻っていった。村人は腹痛、下痢などの症状で苦しんでいた。「治してやる」「薬をやる」などと言ってだまし、エーテルで麻酔をかけて、そのまま解剖した。解剖して初めてパラチフス菌を使ったということが分かった。ある程度腹を開いたところで、撮影班が撮影を始めた。直径20センチくらいのホルマリン・アンプルを渡された時は、明らかに病変の見える臓器の一部を切り取った。全員が発病していても解剖は1体か2体だけで、後は薬殺して井戸に捨てた。菌に侵されていない子どももいたが、どうしようもないので、死体と一緒に処理した。最後はに火をつけて、秘密がばれないようにした。
 すべて命令通りにやるほかなかった。だいたい1日半くらいで、トラックが迎えにくるので、その間に資料をまとめをやった。トラックで指定された次の憲兵隊司令部へ着くと、次の資料が待っていた。4か所で、子どもも入れて、30人くらいを手にかけたと思う。

 謀略的細菌戦も中止することが、これらの業務日誌のなかで確認されるのは、敗戦直前の7月24日の「大塚備忘録」に記された「ホ号は全面的に中止」という神林医務局長の言葉である。
1945年8月9日のソ連参戦で、命令を受けた細菌戦部隊は、人体実験用に閉じ込めていた囚人をことごとく殺害し、証拠隠滅のために必死に施設を破壊したばかりでなく、恐ろしいペストネズミを放して敗走したため、周囲の村落で戦後もペストの犠牲者が多数出た。
※何という謀略戦だ!!日本軍に抵抗するわけでもない村人を、細菌によって感染させ、解剖するとは!そして、感染していない子どもに困って、その場で殺すとは!!日本軍の中国で行っていたことはあまりにも非人道的な作戦であった!!「五族協和、王道楽土」などとはだまし文句の何物でもない!!
●南京大虐殺  
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
沈遐鴻(男、57歳)の証言
 次の日の朝早く、大雪がまだ止まずに降っていました。哈さんの2番目のお兄さんの親しい友達で、安全区で働いている沙伯父さんが小さなお茶の包を持ってきてくれて、その時私たちにすごく恐ろしい消息を知らせてくれ、低い声で「このところ人を捕まえるという噂がしきりなんだ。張鍛冶屋さんの一家が老いも若きも仕事場の人を含めて20人余りが、誰も彼も中国兵だということで、張親方が地にひざまずいて叩頭の礼をしても無駄で、日本兵が発砲して全部撃ち殺され、1人も残らなかったんだ」と言いました。帰る時に沙伯父さんは私たちに「みんな用心するんだよ。また会えるようにな」と言い含めて行きました。その日に、両隣りでまた少なくない青年の人が中国兵とみなされて捕まって行きました。午後、日本兵が家の入口に立ち、小銃をどんと地に一突きし「支那兵はどいつもこいつも出て来い!」と怒鳴りました。真っ先に矢面に立たされたのが長隆兄さんで、捕まって行き若い人たちの長い列の中に立たされ、並び終わって1人1人検査を受け、およそ18歳以上で額に帽子のたががあったり日焼けした痕があったり、手にたこが出来ていたりする者はみんな中国兵で、切り捨て御免とされ、長隆兄さんは捕まって行って、今なお行方不明です。
 確か10何日かのある日の朝、難民区で騒ぎが起き、無数の日本兵が小さな分隊にいっぱい分かれて、逆巻く様な勢いで、同時に人を捕まえるのに着手しました。難民を男と女との大きな群2つに分かれさせ、羊の群を追い立てるかのように、遠くない所に隔たっている2つの運動場に難民を駆り立てたので、母や姉に哈さんの2番目の兄嫁さんやお婆さんなどの婦女は、みんな女の人の広場に駆り立てられ、周りの高いビルの上にはとっくに日本兵が機関銃を据え付けていて身に寸鉄も帯びていない婦女たちに狙いをつけていました。少なくない年若い婦女があの日捕まって行って軍用婦にさせられました。(明日に続く:段月萍が沈遐鴻からの手紙により整理)
●731部隊と天皇

  欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

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