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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-12-09 07:47:57 | Weblog

「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!

    
 「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)


●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)

(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」 
 20世紀がいよいよ終わろうとしている今、このような理論を唱える学者は藤岡だけではない。秦郁彦(日本大学)、坂本多加雄(学習院大学)、西尾幹二各教授も、著書の中で藤岡とほぼ同じような議論を展開している。また、さかのぼって1960年代には、林房雄が、日本が参戦したのはアジアを解放するためだったという論旨の一連の研究を発表している。その後も、国家主義に傾倒する者たちによって同様の研究成果の出版が続いた。たとえば1986年、秦郁彦教授は、中国の戦争に関する戦後の日本人の考え方を説明するのに「自虐的傾向」という言葉を使ったが、以来、この言葉は歴史修正論者たちによって頻繁に使われるようになった。
 1990年代、これらの考え方を推進する人々にとってはさらに有利な環境が整ったようだ。元大使までが国家主義的サイドに立って議論に参加してきたからだ。サウジアラビアおよびタイの大使を歴任した岡崎久彦は、慰安婦問題まで持ち出すなど、現在の教科書はまるでマルクス主義を反映しているようだ、と提議する。彼は新聞に次のように書いているー「第2次世界大戦の遺物である『慰安婦』問題が、終戦後になってはじめて歴史の教科書に記述されるようになったのには違和感を覚える・・・この問題に焦点を当てるのは、かつて反体制側にいた人間たちをのさばらせるようなものだ」。

※肝心の歴史家?までもが歴史の事実に目をつぶってしまった。あの戦争を日本人がきちんと反省していないし、占領軍のアメリカも天皇を戦犯免責にしたから、戦争当時、力をふるっていた政治家の2世・3世議員やその影響を強く受けている人たちがあの戦争を美化してしまう!!恐ろしいことだと思う!!

今、埼玉県議会で起こっていること!!(転載)

再掲です、前回のご案内、曜日が間違えていました。訂正させて頂きます。
                              2009.12.7
■重要■
埼玉県議会傍聴のお願い (JR浦和駅下車歩7分埼玉県庁内)
▲12月10日(木)午後3時より 佐藤征冶郎県会議員(社民党)が上田知事発言について質問をします。
知事は2006年(平成18年)6月「従軍慰安婦問題など日本の戦争責任の論議が多発」とか書いてありますが、東西古今慰安婦はいても従軍慰安婦はいません。兵のいるところに集まってきたり、兵を追っかけて民間の業者が連れていったりするんであって、軍そのものが連れていったりするわけは絶対ないんです。そんなことすれば負けるんです。したがって、こういった間違った記述がありますので、こういうのは修正しなければならん、こんなふうに思います」と答弁。その後周知の通り、平和資料館は展示から「従軍慰安婦」の「従軍」を削除しました。
 この件について佐藤議員が知事の「軍そのものが連れていったりするわけは絶対ないんです」という見解について、「軍が募集、関与、強制した事実はある」と資料を示し、発言の誤りを指摘します。知事がどういう回答をするか、またこの知事の姿勢が平和資料館の姿勢に影響しますので、今回の件は極めて重要です。

▲一人でも多くの方の傍聴をお願いします。平和資料館を考える会
                                                                     
●南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
徐慶禄(男、54歳)の証言
 父の話では、日本軍が永利亜廠に駐留してからは、労働者たちはほんのちょっとの自由も無く、便所に行くのさえ駄目で、働いていてちょっとでも立っていると、決まって罰せられ、夏は炎天下に立たされ日に照りつけられ、冬は地にひざまずかせられ雪の塊を両手で捧げ持たされました。1938年の1月のある日、労働者たちが食べてもくちくならないので、働くとすぐ疲れ、ある労働者がコックリしかけたところを、日本のある職工長に見つかり、雪のところに引きずって行かれ、酷く殴られてから、雪の上に円を描いてその中にひざまずかせられ、手に大きな雪の塊を持たされ、1度ひざまずいたら何時間も動いてはならず、その労働者は凍えて全身が麻痺し雪の地に倒れて死んだのです。
 1937年の12月下旬に、日本兵が永利亜廠にやってきて間もなく、正に南京大虐殺の頃、街の中の群衆は、死ぬのは死に、逃げるのは逃げました。江北には日本兵はいないと思っていた人がいて、多くの人が夜に木材や戸板や竹の太いのなどをかっぱらってきて江北へ渡って逃げようとし、中ほどまで泳いだ人が、長江の北岸にいる日本兵に発砲され、長江に向かって撃たれて、どれほどの人が撃ち殺されたか分かりませんが、江辺には死体がいっぱいで、その頃は野犬が多く、南廠門や卸甲甸一帯の岸辺では1日中屍を食い漁っていました。その年の冬に、逃げていた脚を引きずって歩く人が1人、間もなく夜が明けようとする頃に木の板1枚を操って、江南から江北の南廠門の方向へ漕いできて、ちょうど岸に上がったところを、日本兵の一群に捕まり、今の南化大講堂の向かいの岸辺まで連れて行かれ、薪を積んだのにガソリンをかけ、火をつけてその脚の悪い人を縛ったのを抱えて燃え盛る火の中に投げ込み活きたまま焼き殺しました。
(明日に続く)(穆世亜が記録)

■ 南京・史実を守る映画祭 ■ (転載)
http://jijitu.com/filmfestival2009/
○日時 2009年12月13日(日) 10:00開場
○場所 東京都世田谷区区民会館ホール
○料金 前売券900円、当日券999円。
1作品ごとに入れ替えを行います。前売券の購入方法は下記のURLをご参照ください。
http://jijitu.com/filmfestival2009/2009-09-28-06-41-10

○プログラム・上映作品
10:30-『南京』(88分)
13:00-『アイリス・チャン』(103分)
15:00- シンポジウム
  ※ゲスト:鈴木邦男さん、武田倫和監督さん(詳細はHPで)
  ※映画祭チケットご購入のすべての方が入場いただけます。
16:30-『南京・引き裂かれた記憶』(85分)
18:30-『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(125分)

主催:南京・史実を守る映画祭実行委員会
お問合せ:nankin-eigasai-owner@yahoogroups.jp

「南京大虐殺」と聞いて、どれだけの人々が具体的に事件のイメージを語ることができるでしょうか。日本では、南京大虐殺という事実は、公の場であまり語られることはなく、学校教育でもほとんど取り上げられず、どこか、事件に触れることがタブーであるかのような空気が作られているようでもあります。

 事件をめぐっては、戦後になっても何度かの裁判が提起されてきました。その中には、事件の証言をする人々に対する「偽者」呼ばわりがきっかけになったものも多くありました。
 中国人の被害者である夏淑琴さん、李秀英さん。事件そのものの証言を報じた本多勝一さん。

 事実は必ず勝つ、という言葉のとおり、これらの裁判では真実が勝利し、事件はなかったとする人々の主張はすべて、疑似科学や単なる読み物レベルの俗論に過ぎない、ということが白日の下に晒されてきました。

 しかし、事件はなかったとする勢力が沈黙することはなく、それどころか、事件について公の場で触れることそのものにまで、攻撃の手を伸ばしてきました。

 事件を描いた「南京1937」は、その上映が右翼によって暴力的に妨害され、上映する劇場のスクリーンは、右翼によって切り裂かれました。

日本の大手映画会社によって、日露戦争や太平洋戦争の映画が次々と作られる中にあっても、日本軍による中国大陸での残虐行為を描いた映画はほんのわずかしかなく、南京大虐殺を描く映画は皆無、という状態です。

 この間、諸外国では南京大虐殺をテーマにした映画が数多く制作され、公開されているのに、事件の当事者である日本の国内では、南京を描く映画は作られていないのです。

 映画【靖国】の上映に至るまでの経緯を振り返るとき、このような状況は「暴力と、それを恐れるが故の自粛」によってもたらされる、言論の自由の危機だとはっきりいえます。これは、断じて容認することはできません。
 そこで私たちは、映画配給会社がやらないのなら私たちがやってしまおうと決意し、南京大虐殺をテーマとする映画を集めて映画祭を開催することにしました。
 ぜひお越しください。

●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)
●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』

●【裁判のお知らせ】(転載)

チチハルの毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2009年12月21日(月) 10:00~11:30
場所:東京地方裁判所 103号法廷
結審です。丁樹文さんが来日して弁護団と共に
最終意見陳述を行います。丁樹文さんが、より
多くの人に見守られ、励まされて、陳述できる
よう、ぜひ傍聴にいらして下さい。
裁判終了後、東京地方裁判所裏の弁護士会館
1002号室で報告集会が行われます。
●女たちの戦争と平和資料館
 常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)

特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
独り言
・毎年、正月に民主党と自民党の幹部が伊勢神宮に参拝するのはなぜだ?もう国家神道の時代は終わり、天皇も『人間宣言』したはずなのに!!まだ、日本は天照が神様なのか?
731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦ののデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
731部隊の追及をすると、その責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

南京大虐殺     

南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!! 

 南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)

またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!

核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大記念館の差

結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。

この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。

防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。

...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
栗原利一資料集

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