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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-12-11 10:39:55 | Weblog

「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!

     
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!

「日の丸」・「君が代」反対!!

(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」

(昭和天皇の戦争責任を問う。)

(時効なき戦争責任)


●731部隊

『死の工場』(隠蔽された731部隊)

(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
日本語版前書き

現状と「記憶のずれ」 

国家的アイデンティティを求めてじたばたもがく学者たちは、決して孤立しているわけではない。事実、藤岡教授と彼の支持者たちが煽動的かつ挑発的な発言をマスコミに氾濫させることができるのは、産業界の権力者たちの強力な経済的支援のおかげである。また、多くの出版社が自己検閲システムを持ち、戦争犯罪を暴くような内容の本を出版しないことを考えれば、ここにも彼らの隠れた味方がいると言える。主要全国紙もまた、戦時中の指導者たちを批判するストーリーを掲載しないことでこれに加担している。このような話題は国民の前にさらすには「あまりにも微妙」というのが編集者の考え方である。新聞もやはり彼らの思ったことを言えないのである。しかし、この10年間には、回顧録の出版、戦犯たちによる「自白」、犯罪行為を映した写真の全国巡回展、東京地方裁判所における残虐行為の犠牲者たちの提訴、中国および日本での証拠書類および物的証拠の発見、アジア、ヨーロッパ、北アメリカ各国におけるテレビ・ラジオ番組、ジャーナリストや学者たちによる骨の折れる注釈作業などが相次ぎ、盲目的な愛国主義者たちの主張は次々と崩されている。しかし、かなりの反駁が予想されるので、ここでは特に必要と思える重大な証拠のみについて論じることにする。(明日に続く)

※産業界(財界・経済界)や政界・マスコミ・教育界の一部には、天皇制に固執するあまり、過去の事実を直視せず、過去を美化しようと一生懸命動き回っている勢力がある。
 それでも、徐々に過去の忌まわしい残虐な行為が明らかになるにつれて、事実をいつまでも隠すことは難しくなるのではないか?この前の外務省の元アメリカ局長が証言したような密約が多く存在し、日本も情報公開が強く求められると思う!!
それにしても、マスコミは皇室報道になると声色をかえて、天皇賛美一色になるのは不思議だ!!批判1つでない!!宮内庁から報道規制・官制がもちろん敷かれているのだろう。やはり、天皇は、日本では崇める存在で、人間ではなく神なのか?

●南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

父や母の被害

吉家麟(男、64歳)の証言

 1937年の12月には家は西姜橋で、日本の侵略軍が南京を占領した時、母が弟を連れて避難しに雲台へ逃げ、家には父と父母だけが留まっていて、父の名を吉栄華と言いました。日本軍が南京に入って来た時、人を殺し、火を放ち、婦女を強姦し、屍が野にあまねく横たわり、血が河となって流れ、1千万中国人民が日本軍の銃剣の下に死んだのですが、父は被害者の1人です。日本軍は私たちの村まで掃蕩に来て、財を欲しがり米を欲しがりホアクーニャン(=若い娘)を欲しがりました。その頃、父は既に近郊の山の中に隠れていて、家には祖母が留守番していました。日本軍は銃剣と家を焼くぞという脅しで祖母を脅迫して人を出させようとし、家はわらぶきの家でしたが、祖母は年を取っていて、家を焼かれるのはたまらなく、飛び出して行き山の中を探して父を連れ帰り、家にわずかに残してある米を掘り出して日本兵にやりました。彼らは又もや銃剣で父に迫って米を運んで行かせ、小行の近くの馬林崗が道路に接近しているところまで運んだら、もう父はいらなくなり、大きな刀を抜いて父を活きたまま斬り殺しました。(戈鋳漠が記録)

■ 南京・史実を守る映画祭 ■ (転載)
http://jijitu.com/filmfestival2009/
○日時 2009年12月13日(日) 10:00開場
○場所 東京都世田谷区区民会館ホール
○料金 前売券900円、当日券999円。
1作品ごとに入れ替えを行います。前売券の購入方法は下記のURLをご参照ください。
http://jijitu.com/filmfestival2009/2009-09-28-06-41-10

○プログラム・上映作品
10:30-『南京』(88分)
13:00-『アイリス・チャン』(103分)
15:00- シンポジウム
  ※ゲスト:鈴木邦男さん、武田倫和監督さん(詳細はHPで)
  ※映画祭チケットご購入のすべての方が入場いただけます。
16:30-『南京・引き裂かれた記憶』(85分)
18:30-『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(125分)

主催:南京・史実を守る映画祭実行委員会
お問合せ:nankin-eigasai-owner@yahoogroups.jp


「南京大虐殺」と聞いて、どれだけの人々が具体的に事件のイメージを語ることができるでしょうか。日本では、南京大虐殺という事実は、公の場であまり語られることはなく、学校教育でもほとんど取り上げられず、どこか、事件に触れることがタブーであるかのような空気が作られているようでもあります。

 事件をめぐっては、戦後になっても何度かの裁判が提起されてきました。その中には、事件の証言をする人々に対する「偽者」呼ばわりがきっかけになったものも多くありました。
 中国人の被害者である夏淑琴さん、李秀英さん。事件そのものの証言を報じた本多勝一さん。

 事実は必ず勝つ、という言葉のとおり、これらの裁判では真実が勝利し、事件はなかったとする人々の主張はすべて、疑似科学や単なる読み物レベルの俗論に過ぎない、ということが白日の下に晒されてきました。

 しかし、事件はなかったとする勢力が沈黙することはなく、それどころか、事件について公の場で触れることそのものにまで、攻撃の手を伸ばしてきました。

 事件を描いた「南京1937」は、その上映が右翼によって暴力的に妨害され、上映する劇場のスクリーンは、右翼によって切り裂かれました。

日本の大手映画会社によって、日露戦争や太平洋戦争の映画が次々と作られる中にあっても、日本軍による中国大陸での残虐行為を描いた映画はほんのわずかしかなく、南京大虐殺を描く映画は皆無、という状態です。

 この間、諸外国では南京大虐殺をテーマにした映画が数多く制作され、公開されているのに、事件の当事者である日本の国内では、南京を描く映画は作られていないのです。

 映画【靖国】の上映に至るまでの経緯を振り返るとき、このような状況は「暴力と、それを恐れるが故の自粛」によってもたらされる、言論の自由の危機だとはっきりいえます。これは、断じて容認することはできません。

 そこで私たちは、映画配給会社がやらないのなら私たちがやってしまおうと決意し、南京大虐殺をテーマとする映画を集めて映画祭を開催することにしました。
 ぜひお越しください。

●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)

●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』
●【裁判のお知らせ】(転載)
チチハルの毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2009年12月21日(月) 10:00~11:30
場所:東京地方裁判所 103号法廷
結審です。丁樹文さんが来日して弁護団と共に
最終意見陳述を行います。丁樹文さんが、より
多くの人に見守られ、励まされて、陳述できる
よう、ぜひ傍聴にいらして下さい。

裁判終了後、東京地方裁判所裏の弁護士会館
1002号室で報告集会が行われます。
女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)


特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
●独り言
・事業仕分けでは宮内庁の事業を見直したのだろうか?テレビからの報道では全然報道されなかったけれど?聖域なくやってもらいたい!!いろいろ建物を改装しているのではないか?
・町内会費から、この地区の神社に勝手に寄付されている!!「境内御神木、枝はらい、保護事業」何だ!これは?
 まだ日本の多くの町内会では、神社に多くの寄付が自動的にされているのではないか?私が住んでいる所は自動的に町内会費が天引きされ、8月のお祭りには一律千円をこれまた、自動的に引き落とされている!!まだ、日本には戦前・戦中の国家神道の名残が色濃く残っているのではないか!!
・毎年、正月に民主党と自民党の幹部が伊勢神宮に参拝するのはなぜだ?もう国家神道の時代は終わり、天皇も『人間宣言』したはずなのに!!まだ、日本は天照が神様なのか?
・ 今、政治の世界では沖縄の普天間基地の移設問題が大きな問題となっているが、そもそも沖縄を軍事基地化させたのは昭和天皇ではなかったか?
 
1947年11月14日に昭和天皇とマッカーサー元帥の第5回目の会談が行われている。その内容は明らかになっていないが、豊下楢彦著(岩波現代文庫)『昭和天皇・マッカーサー会見』によると【もっとも、9月19日付の寺崎の日記は1つの手がかりを与えてくれるようである。そこには、「シーボルトに会う 沖縄の話 元帥[マッカーサー]に今日話すべしと云う 余の意見を聞けり 平和条約に入れず 日米間の条約にすべし」と記されている。
この日、マッカーサーの政治顧問であったシーボルトに対し寺崎から、「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで米軍による沖縄占領の継続を求める、という天皇のメッセージが伝えられたのである。さらに、会見予定が決められる1週間前の10月3日にも両者は沖縄における米国の統治方法をめぐって議論を交わしていることから見て、沖縄問題が議論された可能性が考えられる。】
※シャープの電子辞書パピルス(日本史辞典)で昭和天皇を調べると次のように出てくる。
昭和天皇・・・「・・・・大日本帝国憲法下で統治権を総攬(そうらん)した。‘24久邇宮良子(くにのみやながこ)と結婚。‘26年(昭和1)12月25日践祚(せんそ)して昭和と改元、‘28、11月京都で即位。このころから日本は治安維持法体制による社会運動を弾圧、山東出兵・張作霖(ちょうさくりん)爆殺に始まる中国への武力干渉など、ファシズムと戦争への道を歩んだ。昭和天皇は‘29,6月首相田中義一への不信任を表明して内閣退陣に追い込むなど政局を左右し、満州事変以後は軍の統帥に積極的に関与、‘41の対米英開戦も成算を認めて裁可した。戦局の悪化後も軍部の主張に期待して早期和平論を退け、結果的に惨害を大きくしたすえ、天皇制護持を至上課題として降伏決定過程をリード。しかし対日占領を円滑に進めたいとするアメリカの方針もあって戦争責任は追及されず、新憲法上の象徴天皇の地位を得たが、戦後も政治関与を続けた。・・・・」

・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。
そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。
 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。
 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。
 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。
 
1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
 2、あらゆる公職には就かぬこと。
 3、隊員相互の連絡は厳禁する。
 
である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。
「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。
(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より
南京大虐殺     
南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。

この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...

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