*
「
咆哮とともに――血の滴る槍を振り翳し、法衣の男が床を蹴った。重い風斬り音とともに水平に薙ぎ払われた槍の穂が、接近してきていた子ガニ数体を一撃で両断する。
穂先を濡らす血雫が振り抜く動作に合わせて空中に舞い散り、軌道を追うかの様に血煙を漂わせた。
およそ槍という武器に対する日本人の想像からはかけ離れた長大な穂先が、子ガニの胴体を貫き――貫いたままその場で半回転、大上段から振り下ろした一撃が、槍に突き刺さったままになっていた子ガニを背後から接近していた子ガニもろとも粉砕する。
背後から聞こえた轟音に視線を向けると、あの黒いコートの青年が理紗たちの飛び跳ねる様にしてカニの攻撃を躱しながら、側面に廻り込んで空手のはずの右手を振るって反撃したところだった。
彼は間違い無く
だが、そこでコートの青年の気配が凍る。一本目の脚を切断したあとそのまま二本目の脚へと斬り込んだ彼の動きが、二本目の脚を切断出来ずに途中で止まったのだ。カニが二本目の脚を力士の四股の様に振り上げた時点で、彼は攻撃の継続を放棄して後方に跳躍した。
尖った脚を床に叩きつけると同時、強烈な激光が網膜を焼き、耳を聾する轟音が響き渡る。
建物全体を揺らしながら、カニが脚が一本無くなったせいか微妙にぎこちない動きで青年のほうに向き直った。
「――!」 それまで彼の背後の壁際にへばりついていた、彼女たちをここに連れてきたチンピラの最後のひとりが、情けない声をあげながら彼の脚にすがりつくのが見えた――おそらくは助けを請うているのだろう。だが彼は侮蔑もあらわに表情をゆがめ、チンピラの体を蹴り剥がした――さらにすがりつこうとしたチンピラを再び蹴り剥がし、カニに向かって向き直る。
そしてなにに気づいたのか、彼は人間離れした動きで後方に跳躍した。懲りずに彼にすがりつこうとしていたチンピラが目標を失ってその場で転倒し――そして転倒するよりも早く、カニの口の部分の蓋状のカバーが展開する。そこから白いまっすぐな線が延びて床を撫で斬りにし、同時にその線が触れた箇所が純白の激光と轟音を放った。
なんだったのかはわからないが、おそらく攻撃だったのだろう――黒いコートを羽織った青年に邪険に蹴り剥がされ、すがりつく対象を無くしてその場に転倒していた暴漢の体が、突如として肩口から逆の脇腹へと斜めに寸断されたのだ。
暴漢の口から、凄絶な絶叫があがる。鏡の様に滑らかな真っ赤な肉の切れ目――切断面からこぼれ出した内臓を、噴き出した血が紅に染める。
いまだ宙に在るまま、彼はコートの内側から引き出した棒状の物体――狩猟用には到底見えないが、散弾銃の一種なのだろう――を構えて発砲した。
轟音とともにコートの青年が手にした散弾銃が火を噴き、轟いた銃声の残響が消えるより早く、爆発が起こった――押し寄せてきた爆風に煽られて、息が詰まる。爆風に乗って襲いかかってきた埃から口元をかばいながら、彼女は金髪の青年が笑っているのを見て取った。
煙が晴れるとカニの顔に相当する部分は撃ち込まれた弾丸の爆発によってごっそりと吹き飛ばされ、破壊された顔の部分から大量の白濁した液体がしたたり落ちて床を濡らしている。
どうやらあの液体に高圧をかけて撃ち出すことでチンピラの体を両断するほどの破壊力を得ていた様だが、そうだとするとあのカニはウォーターカッターの
「
金髪の青年が床を蹴ってカニの右側面に廻り込み、咆哮とともに手にした眼に見えない武器を振るってカニの脚の一本に斬りつける――だがその攻撃は脚に喰い込みはしたものの半ばで止まり、脚を切断するには至らない。
後退した青年がぼやく様に耳のあたりを指で掻いたとき、カニが建物を揺らしながら猛烈な勢いで青年に向かって突っ込んだ――高速道路を走る自動車並みの速度まで瞬時に加速し、そのままコートの青年に向かって突進したのだ。
尖った脚が床を踏むたびにちかちかと白い光がまたたき、周囲に轟音が響き渡る。カニはものの一秒もたたぬ間に、コートの青年の眼前まで殺到した。
コートの青年も、その殺到に合わせて床を蹴っている。牛の突進を躱す闘牛士の様に――ただし人間離れした跳躍でカニの頭上を跳び越えて、彼はその突進を躱した。
そして同時に――
え?
この建物に監禁されている間、理紗はろくに眠れていなかった――男たちの気まぐれで凌辱され暴力を振るわれる、その恐怖とストレスとで睡眠どころではなかった。不眠とストレスが原因で自分の目がおかしくなったのかと思ったが、どうやら見えているのは幻ではなかった。
空中にあるコートの青年の手の中に、まるで周囲の薄闇そのものが凝り固まったかの様に真っ黒な剣が姿を現したのだ。湾曲しているが、日本刀とはまたデザインが違う。
その曲剣がどうしていきなり虚空から現れたのかはわからないが――あれが先ほどから彼が使っていた武器の正体だろうか。
光を吸い込んでいるかの様にまったく照りの無い刀身には装飾が施されている様だが、次の瞬間には判別出来なくなった――刀身の周囲に蒼白い電光がまとわりつき、同時に刀身自体も蒼白く輝き始めたからだ。
コートを纏った青年は体重を感じさせない動きでふわりと着地し、同時に振り返りざまに蒼白く輝く曲刀を横薙ぎに振り抜いた。
「
落雷の轟音のごとき咆哮が、次の瞬間耳を聾する轟音に搔き消される。
次に起こったことは、よくわからなかった。コートの青年が黒い曲刀を振り抜くと同時に刀身の激光と電光が消え、続いて猛烈な突風がカニに向かって吹き荒れたのだ。
否、突風というより衝撃波と言ったほうが正しいか。まるで津波の様に荒れ狂う衝撃波が、床の上に転がっていたピンやボールを擂り潰しながらカニの背中に殺到する。
一瞬ではあるが、カニの背中全体が純白にまばゆく輝いた――だがそれも一瞬のこと、次の瞬間カニは目標を失ったまま制止出来ずに建物の壁に突っ込み、それが外壁であったらしく壁をぶち抜いてそのまま外へと転げ落ちた。
カニの巨体が地面に落下したのだろう、地響きが建物を震わせる。コートの青年は平然とした足取りで壁に穿たれた風穴へと歩み寄ると、そのまま躊躇無く屋外へと身を躍らせた。
「――危ない!」
彼女が声をあげるより早く、少女の声が耳朶を打った――もうひとりの少女が、誰にかは知らないが発した警告だ。肩越しに振り返るよりも早く、紅い霞を撒き散らしながら、法衣の男が振り下ろした大身槍が視界を縦断した――ドゴンという重い音とともに、彼女に近づいてきていた子ガニがまっぷたつにされて崩れ落ち、穂先から振り払われた血生臭い液体が床にまっすぐに線を描く。
相当な巨漢でも扱いに苦労しそうな大きさの槍を軽々と肩に担ぎ、法衣の男はこちらを見下ろした。
「おい」 低い声でこちらを呼ばわる――蛇に睨まれた蛙のごとく答えることすら出来ないまま凍りついていると、彼は適当に手を振った。
「もう少し離れてろ」
見れば、すでに子ガニの群れは三分の一程度まで数を減じている――だがその一方で、新たな子ガニの群れが床下から這い出てきていた。
あわてて立ち上がり、先ほどカニが落下していった穴のほうまで移動する――見ればもうひとりの少女も、彼の言葉に急かされたのか小走りにこちらに近づいてきていた。
先ほどまでよりも散開した隊形で、子ガニどもが法衣の男を取り囲む。
頭上で二、三度槍を旋回させ、彼は鋒を軽く床に触れさせてから――
「ふん」 軽く鼻で笑って、床を蹴った。
*
体が重い――出血が多すぎる。
先ほど刺された傷の激痛がまどろみの中に沈みそうになる意識を無理矢理引き戻してくれているものの、出血による行動能力の低下はいかんともしがたく、まるで鉄球を鎖でつないだ足枷をつけられているかの様だった。
毀れた刃物や鋸で斬られた傷口は出血が止まりにくく、縫合も難しい。盛大に傷口から異物が入り込んだ、今の状態ならなおさらだ。
くそっ――小さく毒づいて、口の中に残っていた血を吐き出す。錆びた鉄の生臭い臭いに顔を顰め、ヴィルトールは背後を確認した。
まだラルカの首無しの亡骸が視界に入ってきている――自分を殺そうとしたとはいえ、やはり自分の幼馴染みを殺した事実は苦しかった。
顔をそむけて、手にした長剣の柄を握り直す――彼らが曲がっていったのは、開きっぱなしになった中庭に通じる扉だと知れた。
開きっぱなしになった扉の向こうから、ごりごり、ぐちゃぐちゃというまるで咀嚼音にも似た音が聞こえてきている。
壁に張りつく様にして扉を覗き込むと、それほど離れていない中庭の中央附近に全部で五人の人影が蹲っているのが見えた。
さっきの奴らは
ぼきぼき、ごりごりという厭な音とともに聞こえてきているのは、蚊の鳴く様な弱々しいすすり泣きだった。
女の声――そしてそれに気づくと同時、たまたまこちらに横顔を向けているひとりの人影がなにを口元に運んでいるのかに気づいて、ヴィルトールの理性はそこで破裂した。
「――ッ!」 声をあげて、扉から飛び出す。沸騰した意識は、出血の激痛も一時期ながら忘れさせた。
彼らが反応するよりも早く手近にいたひとりに殺到して、その右肩を背後から叩き割る。半ばまで割った竹の様に腰のあたりまで分断されて、身の毛も彌立つ様な悲鳴とともにその人影が崩れ落ちた。
横合いから掴みかかってきたもうひとりの両手を、後方に飛び退って躱す――目標を失って踏鞴を踏んだその人影の掴みかかってきた腕を振り下ろした剣で切断し、そのまま彼は剣を中庭の石畳に叩きつけた。
その反動で跳ね返った長剣の鋒を切り返し、斜めに斬り上げる軌道の一撃で相手の胴を股下から肩口まで斜めに叩き割る。
そのまま剣を右肩に巻き込んで踏み出しながら、ヴィルトールは左手から掴みかかってきた人影の首を横薙ぎの一撃で刎ね飛ばした。
これで三人――四人目の人影に殺到し、掴みかかってきた両腕を上体を沈めて掻いくぐり、そのまま膝を薙ぐ。敵影が倒れ込むより早く、ヴィルトールは振り抜いて肩に引き戻した長剣を振り下ろし、その左肩を斜めに叩き割った。
一番向こう側にいた人影が、手にしていたものを放り出して襲いかかってくる――決して遅くはないが、ゲオルゲたちほどには脅威には感じない。あれに比べれば速度は数段遅い。
足元に転がっていた、先ほど刎ね飛ばした敵の首を最後のひとりに向かって蹴り飛ばす――踏み出しかけていた足にぶつかり、人影が踏鞴を踏んだ。
「
首を失った人影が、その場に膝をついてそのまま崩れ落ちる――全滅させて力を抜こうと息を吐きかけたとき、足元からあがった悲痛な絶叫がその思考を遮った。
先ほど胴体を上下に分断した敵が、上半身だけの状態になったにもかかわらず足元でばたばた暴れながら叫び声をあげている。
馬鹿な――なんなんだ、これは?
小さくうめいて、ヴィルトールは理解し難い事態に一歩後ずさった。一時的な興奮状態を脱して、再び意識に靄がかかってきている。かぶりを振って意識を鮮明にしようと努めながら、彼は足元で暴れる上半身だけになった若者を見下ろした。
胴体を分断されれば、考えるまでもなく人間は生きていられない――もちろん即死しないこともあるだろうが、こんなに元気に暴れるのは不可能だ。
だとすると、これはなんだ?
飢えた獣の様な理性の感じられない目でこちらを見上げ、彼は――ここまで近づくと、屋敷の警衛として働いていた男だと知れた――しきりに咆哮をあげている。がちがちと歯を鳴らしているのは、こちらににじり寄って足に噛みつこうとしているのか。
だがそれ以上に異様なのは、彼の有様だった――頬の肉が食いちぎられて歯茎が剥き出しになり、服が襤褸布の様な様相を呈しているためにあらわになった胸元は肉が剥ぎ取られたかの様に肋骨が見えている。よく見れば腕の肉も、骨が露出するほど深く喰いちぎられていた。
小さく息を吐いて、ヴィルトールは手にした長剣の柄を逆手に持ち替えた。うつぶせの姿勢のままこちらに向かってにじり寄ろうともがいている男の頭部に長剣の鋒を刺し入れる。
一度大きく痙攣してから動かなくなった死体から視線をはずし、ヴィルトールは視線を転じて残る四人に動きが無いことを確認した。
それであらためて死体を検分し、自分が殺した相手に戦慄する。
先ほど最初に肩を割ったのは、今年十五歳になるはずのラルカの妹だ――ヤコブの孫に当たる。そのあとに殺したのはヤコブのふたりいる娘のうちひとりの息子、ラルカの従弟だ。もうひとりはディアナの兄だと知れた――四人目はボグダンの弟で、どうにも手先が不器用で料理人には向いていないからと厩番を務めていた。最後に斃した五人目は、料理人見習いのボグダンの娘婿だった――ヤコブの息子のひとりで、厨房で死んでいたディアナの夫だ。
状況はまったく理解出来なかった――ヴィルトールの理解の範疇を超えている。そこで思い当たり、ヴィルトールは先ほどまで彼らが群がっていた場所に視線を向けた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます