【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

550年後、目覚めた英国王=20=

2016-01-08 16:33:52 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

王冠のかがやき

 事態は、リチャードが考えている以上に急速に進行していた。 バッキンガム公が造反の牙をむく前に、反リチャード派の動向を話したことがあった。 彼の話では、リチャードに対抗しようとする勢力は、互いの家に集まっては密談をかさねているということだった。 その者たちとは、侍従長のヘイスティングズ卿ウィリアム・ヘイスティングズ、ヨーク大司教トマス・ロザラム、イーリー司教ジョン・モートン、そしてスタンリー卿トマス・スタンリーである。 ヘイスティングズ卿は先王エドワード4世の忠実な家臣で、勇猛な戦士でもあった。 また、トマス・ロザラムは身分の低い生まれだったが、才能に恵まれた人物で、やはり先王の忠実な家臣だった。 

  ジョン・モートンは、法律家から聖職者に転向した人物だった。 彼は頭が切れ、機を見るに敏なところがあり、世渡りがうまかった。 その上、大胆で策謀にたけたところもあった。 彼は最初、ヘンリー6世に仕えていたが、ランカスター家が断絶したあとはヨーク家に接近し、エドワード4世にとりたてられていた。 そしてこのジョン・モートンこそ、のちに「リチャード3世極悪人説」の種をまく張本人なのであるが、これについてはあとで触れることにする。 

 スタンリー卿トマス・スタンリーは大物であり、イングランド北西部に一大勢力をもつスタンリー一族の長だった。 リチャードにとって、ヘイスティングズ卿らがひそかに集まっているとは、ただごとではなかった。 かれにたいする陰謀の疑いが、明白だったからである。 1483年6月13日の金曜日、リチャードはロンドン塔でかれらに先制攻撃をかけた。 この事件の経過は、次のようなものである。

 「この日リチャードは、会議と称してヘイスティングズ卿、ヨーク大司教、イーリー司教、それにスタンリー卿など、疑わしい枢密顧問官たちをロンドン塔に呼びだした。 そしてかれらがやってきたとき、リチャードは「陰謀の疑いあり」とかれらを非難した。するとかれらは、隠し持っていた武器をとりだし、リチャードに迫ってきた。 そこに、異変に気がついたバッキンガム公と武装した兵士が駆けつけてきた 。ヘイスティングズ卿は斬りつけられて負傷し、ほかの者たちはその場で逮捕された」

 しかし、この事件は、ヘイスティングズ卿らを反逆罪で逮捕するために、リチャードが仕掛けた罠だった、とジョン・モートンが噂を流した。 バッキンガム公と兵士は前もって隠れていて、ヘイスティングズ卿らが剣を抜いたところで、手筈どおりに飛びだした――というのである。 「ヘイスティングズ卿はそのあと中庭に引きずり出され、丸太の上で即座に首をはねられた」との噂がながれたが、ヘイスティングズ卿は1週間後に処刑されたとされている。 ヘイスティングズ卿以外の者は、逮捕こそされたが、処刑されることもなく監禁されただけだった。 これが、のちにリチャードの命取りとなり、また、後世にかれが極悪人として伝えられることにつながるとは、当時、誰も想像できなかっただろう。

 ロンドン塔で事件があったという話は、たちまちロンドン中にひろがり、大騒ぎになった。 リチャードは、ロンドン塔で陰謀が発覚し、首謀者ヘイスティングズ卿とその仲間が捕らえられたと発表した。 多くの諸侯やロンドン市民はそれを信じたが、なかには、「陰謀というのはリチャードの口実で、かれこそ何かをたくらんでいるのではないか」といぶかる者もいた。

 リチャードは、やはり王位簒奪を考えていたのか。 邪魔者はいなくなった。 王冠はすぐそこに輝いている。 たとえ簒奪者の汚名を着せられようとも、 かれはそれを手に入れたいと思ったのか。 それとも、リチャードは摂政として陰謀を阻止し、新国王の体制を維持しようとしただけだったのか。 リチャードは王母エリザベスに、「兄弟はいっしょにいたほうがいい、戴冠式に国王の弟がいないのは不自然だ」と、エドワード5世の弟ヨーク公・リチャードをウェストミンスター寺院から出すように説得した。 そして、6月16日、エリザベスはついに次男ヨーク公を聖域から出すことに同意した。 そしてヨーク公は、ロンドン塔の兄エドワード5世のもとに連れていかれた。

 その日のうちとも数日後ともいわれているが、リチャードは、国王の弟がロンドン塔に入るのを見届けるようにしてから、枢密院にエドワード5世の戴冠式を11月9日まで延期するように要請した。 もはや、リチャードに抵抗できる者は残っていなかった。 誰もが、リチャードの真意が見えてきた、と思っただろう。

 何よりも説得力があったのは、かれが北部から呼びよせた軍隊が、すぐそこまで迫っていることだった。 その数は、リチャードの盟友バッキンガム公の軍隊と合わせると、5千とも6千とも、はたまた2万ともいわれている。 リチャードに批判的だった諸侯のなかから逮捕者がでてくると、逃亡する者が相次ぐようになった。 残る大物貴族でリチャードが脅威と感じるほどの兵を動員できるのは、4代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーとハワード卿ジョン・ハワード(前節イラスト参照)、それにスタンリー卿トマス・スタンリー(前節イラスト参照)の3人ぐらいだった。

 パーシー族はノルマン貴族を先祖にもち、王族とも婚姻関係をつうじてきた名門貴族だった。 イングランド北東部のノーサンバランドを本拠地とする一大勢力だったが、リチャードは、ノーサンバランド伯とはすでに個別に主従関係をむすぶことで同盟していた。

 ハワード一族は、ノーフォークとサフォークを中心とするイングランド東部の有力貴族だった。 リチャードは、ハワード卿には、ハワード卿の母方の実家の爵位であるノーフォーク公爵位をあたえると約束し、かれを取り込んでいた。
 スタンリー一族は、イングランド北西部のランカシャーとチェシャーを拠点とする強大な勢力だった。一族はばら戦争がはじまったときから、ランカスター家とヨーク家の双方とも付かず離れずの一定の距離を保ち、勢力を維持してきた。 一族の長であるスタンリー卿トマス・スタンリーは、ヘイスティングズ卿の陰謀にもからんでいた手ごわい相手だった。

 リチャードは、スタンリー一族の反乱を恐れ、かれを処分することもなく懐柔してきた。 そして、スタンリー卿は深慮遠謀の策士だったが、その分、軽はずみな行動はしないので、リチャードは用心していればよかった。 すべての準備がととのってきた。 リチャードは、それまで身につけていた黒い喪服を脱ぎ捨てると、王者にふさわしい紫の衣を身につけるようになったという。 リチャードの考えていることが、誰の目にも明らかになったのである。 

 

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森のなかえ

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