【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

チンギス統原理 【9】

2011-01-30 13:28:12 | 史蹟彷徨・紀行随筆


 黄河の北部は草原地帯ではない。 騎馬軍団がその機動力が十二分に発揮できる場所ではない。黄河に近づけば近づくほど地形は複雑になり水路が障害になった。 有効な攻城方法も見出せなかった。 チンギス・カーンは親征当初より華北を占拠し、この地に定着する意思はなかった。 カムリ将軍に管理させ、定期的に農耕産物が入手できればよい と考えていた。 他方、広大な華北地方の農民・有力者はキタイ(遼)王朝であろうとも金王朝であろうとも外来者でしかない と考えていた。 マンチュリアから侵略した野蛮人の征服者に過ぎない とも考えていた。 自己の封地を持つ有力郷士は宋であれ金であれ、皇室が南に去っても封地を去ることはできない。 一方 カムリ将軍は限られた将兵では 騎馬戦にやや有利な土地柄とは言え、金王朝勢力の黄河は南、開封には攻め込めない状況にある。 黄河を渡れば、騎馬を従網に走らすことが困難である。 
 華北から金朝が去ると、金に追われたキタイ また 金朝に見切りをつけた有力郷士がカムリ将軍の部隊に現地人部隊として参加する流れが生まれてきた。 耶律楚材の戦略どうりである。 この動きに呼応するが如く、征服王朝である金朝は南宋を侵略し始める。 カムリ将軍は南宋と手を組み(1232年)金を挟撃する。 1233年 カムリ将軍は開封を落とし、后妃を捕らえる。 1334年 満州からの侵略王朝 金は滅亡する。 この折、カムリ将軍が 后妃・皇女や金朝重鎮を殺害しなかったことで、“将軍は皇帝になり、新王朝を開きますぞ”とチンギス・カーンに具申した者いた。 “将軍は そのような男ではない 我がネルゲぞ” と答え 笑ったと言う。       ****** 話を 1215年 草原のジンギスに戻します *****
 チンギス・カーンは西方の事に関心を抱いていた。 天山ウイグルが来降(1211年)以来 西夏を服属させ、金朝を追い詰めた。 南方の事は成った。 天山ウイグルが莫舎に来て従属の意を示したのは 10年前 ナイマン王 タヤン・カーンを追い詰め 葬った折、取り逃がした王子・クチュルクがカラ・キタイ(西遼)王を幽閉して乗っ取り、悪政を敷き、国を蹂躙しているが故であった。 以来 カラ・キタイの動向を探らせていた。  偶然にも 無駄口を言わぬ“髭の楚材”が身近に居る師に成った。 聞けば 彼の縁者*西遼は遼王朝が金に亡ぼされた時、 梁王朝の開祖 太祖・耶律アボキが8世代目の直系子孫である、耶律大石が200有余の部下とともに西走して建てた(1132年)帝国だと言う。 天山ウイグル王国(856年-1211年)は耶律大石に臣下し、天山ウイグル王は娘を耶律大石に嫁がせたと言う。 耶律楚材は遼王朝・太祖が直系10世代目の子孫* が開いた国だと言う。 カラ・キタイ東部は天山ウイグル族を中心とする豊潤な地域。 今は モンゴルに帰属する領土である。 トランス・オクシアナ地方を基盤にクチュルクが天山地域を蹂躙している。 当時 ウイグル族はマニ教徒であった。 クチュルクはキリスト教から仏教に転向し、カラ・キタイを強制的な手段で仏教に変えた。 非転向者を 虐待・殺害していた。 クチュルクの生母はオルドにいるチンギス妃の一人であるが、1218年 チンギス・カーンはジュベ・ノヤン将軍をカラ・キタイに進軍させる決断を下した。 クチュルクを永久に駆逐するためである。 ジュべ将軍は速やかに天山地域に進軍し、クチュルクの宗教迫害からカラ・キタイ東部地区を開放した。 そして トランス・オクシアナ(マーワラーアンナフル)地区に進軍した。 信仰の自由を取り戻し領民は、クチュルク軍に背を向けた。 クチュルクは追い詰められ 天山山脈に逃亡する。 もはや 従う者はいない。 カラ・キタイ全域を開放したジュペ将軍のもとに 猟民に殺されたクチュルクの生首が届けられた。 時 1219年 カラ・キタイ領はほとんど戦いのないまま また 抵抗のないまま モンゴル帝国に吸収された。
 
 モンゴル帝国は西の強国ホラズム・シャー朝と境を接することになった。 ホラズム・シャー帝国はアッラー・ウッディーン・ムハマド皇帝が率いるも、統治の実権は彼の生母が握っていた。 チンギス・カーンは この明らかに強力な隣人に対して、 『自分は東方の支配者であるようにアッラー・ウッディーン・ムハマドを西方の支配者とみなしている』と書簡を送り、《平和を維持し、二つの帝国の間で交易を促進したい》と表明している。 耶律楚材の遠謀な戦略が覗える。 事実、ジンギス即位以来 西方に逃亡したメルキト族の残余軍団を追跡するモンゴル軍を 幾たびか ホラズム軍が攻撃する偶発事件が起きていた。 以降 12年 わだかまりと不信が両者の間にあった。 その両者が豊潤なトランス・オクシアナで接したのです。
*上記右図参照 小生 この地を旅した。 張騫が漢の武帝の命で汗血馬を求め、月氏に使いした場所/ 玄奘が旅程を楽しんだ場所/ ソグドの故地です* 
   

 1218年 モンゴル領を出立した450名のソグド商人*トランス・オクシアナを故地とする シルクロードで交易をする商業中心の民 現代のユダヤ的存在 アレクザンダー大王の遠征に激しく抵抗し、国土を追われた 以降 シルクロード沿線にコロニーを築き、歴代中国王朝の経済顧問を務める人材を輩出する*で構成された長蛇のキャラバン隊がホラズム・シャー国の国境都市・オトラルの城門を潜った。 城壁で囲まれた街である。 キャラバン隊はチンギス・カーンが派遣した。 交易とホラズム・シャー皇帝への表敬の意を託されていた。 オトラルの知事・イネルチュクはこの交易使節をスパイだと断定し、殺害する。 更に 交易用の物資・皇帝への献上品も押収した。 が、一人の使者が逃れチンギス・カーンに委細を報告した。 チンギス・カーンは直ちにイネルチュクの懲罰と賠償を求める三人の使者をホラムズ・シャーのもとに派遣するも、一人は殺害され二人は髭を剃られて送還されてきた。 激怒したチンギス・カーンが報復の軍団を1219年に発する。 東方はムカリ将軍に任せ、草原の留守部隊は末弟テルゲを総括に兄弟で固めて、ジュペ将軍を天山方面から進軍させた。 皇子団ジュチ・チャガタイ・オゴディ・トルイを草原ルートより西進させ、自らはアルタイ山脈東方からシルクロードのハミに向かい、イリ渓谷沿いに進軍し トランス・オクサニナに進撃した。 ホラムズ・シャー皇帝はジュチが指揮する蒙古皇子軍団になすすべも無く逃走した。 彼はジュチの追撃から逃れ、カスピ海の孤島に従者もなく身を隠した。 王子ジャラールッディーン一人だったと言う。 この孤島で ホラムズ・シャーは死亡する。 以降 ジャラールッディーン王子は激しく蒙古軍と戦うも、矢尽き アフガニスタン方面に後退する。 インダス河にてチンギス・カーンと最後の一戦をみまえる。 武運尽き、単身 騎馬のまま 激流止まぬインダス河へ 20m有余の断崖を飛翔して逃れた。 それを見たチンギスが 矢を射る将兵を制した。“彼は勇者ぞ、逃がしてやれ”と史書にある。 ウッディーンはインドの奴隷王国に逃亡した後、再建すべくイランに戻りますが寂しく亡くなります。 
 チンギス・カーンの侵攻は その殺戮と破壊は まさにすさまじいものであった。 さらに 末子トルイは東イランのホラーサーン地方を軒並み破壊しつくしてしまう。 チンギス・カーンはホラズム・シャー帝国を滅亡させれば 西方の巨大な勢力が失墜すれば 目的を果たせたのです。 彼には金帝国・宋王朝の中国地方での覇権が急務であった。 凱旋帰還する。 1219年から1223年までの親征であった。 帰還途上 アルタイ山脈東方で 孫達が迎えに来ていた。 元朝を開くクビライも居たと言う。 他方 ホラズム・シャーの敗北はカラ・キタイから奪ったトランス・オクサニア地方での統治が 生母が操る権力機構との狭間で、己が集握する軍事力が即応できなかったからでしょう。 更に 兵站が伸びきると考えた蒙古軍の戦闘能力を当初から誤算していたからでしょう。 蛇足ですが、オトラルのイネルチュクの行動や使節を殺害したシャーの行動は 後年の日本は鎌倉時代 中国・クビライ皇帝が使わした元の使節を鎌倉幕府は 幽閉し、頭髪を剃り殺害した事例からも言証できるように、覇権主義の膨張が生ましめたことでしょう。

 エピソードを追記します。 この異文化のイスラーム世界に滞在するチンギス・カーンは 破壊と殺戮の中で、不老不死の疑念に取り付かれます。 秦の始皇帝が福徐を遣わし、妙薬を探し求めさしたように。 山東半島に長春真人が居りました。 有名な道教の老師です。 宋や金王朝の招聘にも靡かず、幾多の師弟を育てた人です。 チンギスは彼を呼びます。 6000有余の旅を終えた老師は弟子と伴にチンギス・カーンの面前に現れました。 馬上から チンギスは彼に問います。  … 『老師、遠路来たからには土産は何か』/『何も無い』 / 『では、問う 不老長寿の妙薬はあるか』 / 『古来 不老長寿の薬は存在せぬ、ただ 狩を止めて、女性/ニョショウと戯れずにときどきは独り寝るのが肝要 ある程度は 寿命を延ばせるかも知れぬ』……  チンギス・カーンはこの老人に感銘を受けました。 駆けつけた耶律楚材に応接を命じ、長春が率いる《全真教》に特典を与えています。
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