【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールが夢見た大洋_19_

2015-09-15 15:23:38 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

【 タタールのくびき/資料として その一 】

ジュチ家の属するモンゴル人は侵略が終わっても去ることはなく、ヴォルガ川の下流にサライの都を築いてキプチャク草原およびルーシに対する支配を続けた。 モンゴル帝国の西方を管轄するジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)はサライに黄金の陣営(オルド)を建て、モンゴル高原のオルホン渓谷カラコルムに居を置く大ハーンの名のもとに支配を行った。 前節にて、サライにヤロスラフ2世(シチ川で死んだウラジーミル大公ユーリー2世の弟)を呼び出し(1243年)、ウラジーミル大公位を認めて「ルーシ諸公の長老」として扱った。 これ以後、3世紀にわたりサライのハーンたちがルーシ諸国の公らを臣従させ、ウラジーミル大公や各国の公としての地位を承認し、貢納させるという関係が続いた。 ノヴゴロド公国スモレンスク公国ハールィチ公国プスコフ公国などルーシ西部の諸国も含め、ルーシのすべての国がモンゴル帝国に従っている。

この臣従関係を示す一般的な用語である「タタールのくびき」は、ルーシがモンゴル人の苛烈な支配下に置かれたことを示唆するものだが、実際には、征服初期の臣従しない国や都市への殺戮や略奪の時期を除けば、一般的に考えられているほど残酷で抑圧的な貢納を強いたというわけではない。 まず、モンゴル人は征服した土地にまばらにしか住み着かなかった。 またモンゴルは征服地の土着民族に対して直接支配を行わず、土着民族の長を通じた間接支配を好んだ。 農耕民族の生活様式を取り入れて融合してしまうことを防ぐようにという、チンギス・ハンが子孫たちに対して残した訓戒に、ジョチ・ウルスの支配者たちは従ったといえる。

つまり、十分な貢納が行われ続ける限り、被支配民族は日々の営みに干渉されることはなく、普通は支配者に攻撃されることもなく、それまで通りの農耕や商業が続けられるということであった。 チンギス・ハンの軍が懲戒的に灌漑施設を破壊し、将来にわたっての農耕もできないようにさせた、中央アジアの一部で起こったようなこととはルーシは無縁であった。 またルーシは中央アジアからのステップを通じた交易路が通る場所であり、モンゴル帝国による交易の庇護によって、ルーシを通じた東洋と西洋の間の貿易が機能し、ルーシはここからも利益を得ていた。

たしかにモンゴル帝国の征服戦争は苛烈だったが、ひとたび支配が確立すると、たとえば宗教に関しては比較的寛容だった。 モンゴル帝国の支配層はテングリ信仰を主とするシャーマニズムを信じていたが、征服活動や支配に当たって宗教的な狂信性とは無縁であった。 中東を征服したモンゴル人やサライのジョチ・ウルスの支配者たちは、イスラム教正教会を根絶しようとすることはなく、被征服民族の影響でイスラム教に改宗しても、他の宗教に対する寛容さを完全に捨てることはなかった。 ジョチ・ウルスはルーシ人に対し、サライに正教会の主教を置くことを認めている。 また、後年にはジョチ・ウルスの有力者ノガイジョチの血を引く王族で、ジョチの七男ボアルの長男タタルの子、すなわちジョチの曾孫)は東ローマ帝国皇帝ミカエル8世パレオロゴスの娘エウフロシュネー・パレオロギナと結婚し、ノガイも娘をルーシの公に嫁がせている。

ロシアの近代の歴史家の一部は、ルーシ諸国は、西方のドイツ騎士団などローマ・カトリックからのより現実的な脅威に対して、東方のモンゴル諸国と防衛のための同盟を結んだ、と考察している。 ロシア革命後にチェコやアメリカに亡命したユーラシア主義者のジョージ・ヴェルナツキーによれば、分裂が進んだルーシはモンゴルから専制や支配制度を学び、後のロシア・ツァーリ国はモンゴル帝国の後継国家としてユーラシアを支配する国になったと言う。

 これら肯定的な側面も存在するものの、サライに定住してからは貢納を受け取る単なる貴族となったモンゴル人も、ルーシに対して暴力的な側面も見せている。 ジョチ・ウルスに属する遊牧民が辺境にいるかぎり、ルーシは遊牧民の侵入や略奪から免れ得なかった。 侵入は実際には頻繁ではなかったものの、侵入がひとたび起こると、おびただしい数の犠牲者が出て、土地は荒廃し、疫病や飢餓も蔓延した。 ルーシ諸国は以後も南方のステップからの遊牧民の襲撃に対する防衛に国費の多くを割かれることになった。

またルーシの人々は固定額の貢納、すなわち人頭税を払わされた。 当初は、ルーシの各地にバスカク(代官、徴税官)が住んで人々から大雑把な額の貢税(ダーニ)を集めていくだけだった。 1259年ごろからは人口調査に基づいて貢納額が定められ、人々の反感を買ったバスカク制は廃止され、最終的には地元の公らに貢納の権限が一任された。 以後、ルーシの公がルーシの民に貢納のための重い税を課し、ルーシの民は公らを支配するジョチ・ウルスの貴族や役人らに直接会う機会はなくなった。

ルーシの侵攻で多くの都市や町が焼き払われたが、以後は都市の再建は停滞し、ステップ地帯などでは数百年にわたり都市の再建が行われなかった。 モンゴルに向かうローマ教皇の使者プラーノ・カルピニは、途中に通ったキエフが骸骨の散乱する廃墟であり残った人口が僅か200世帯だったことを記録している。 ヴォロネジの再建は16世紀になり、リャザンの再建は断念され55km離れたペレスラヴリの町に中心が移り、現在のリャザンになった。 都市や、都市間を結ぶ交易路が打撃を受けて衰退し長年再建されなかったことは、ルーシ諸国の商業や手工業の停滞だけでなく農村社会の停滞にもつながった。 正教会の聖堂についても、ルーシ侵攻前のような石造の大聖堂は長い間建設されることがなく、ルーシの文化の停滞がみられる。

 

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