【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《河江肖剰》 =003=

2017-05-11 13:46:28 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

新たなピラミッド像を追って、エジプト考古学の魅惑の世界=河江肖剰=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 発掘調査と先端技術によって、古代のピラミットの実像に迫る ☠

◇◆ 第一回 ピラミッド発掘調査への道のり = 3/3= ◇◆

カイロ・アメリカン大学に入学

 ガイドの仕事は楽しかった。 勉強しなければならないことは山ほどあったが、墓や神殿を歩き回り、体感するように歴史を覚えていった。 しかし、ガイドをすればするほど、本格的に大学で勉強したいという思いは年々増していった。 そんなある日、会社のマネージャーの中野正道さんの自宅に呼ばれた。 時折、奥さんの眞由美さんが作る日本料理をごちそうになりながら、仕事のことや、将来のことを話していたため、今回も近況報告を兼ねた夕食会だと思っていた。

 しかし行ってみると、奨学金を出すので、カイロ・アメリカン大学(The American University in Cairo、以下、AUC)でエジプト学を勉強しないかと勧められた。 思いがけない申し出に驚いていると、中野さんはこんな温かい言葉をかけてくれた。 「会社のなかに、専門家が一人くらいいてもいいと思います。 しかし、会社に縛りつけるつもりもまったくないので、考古学の道に進みたければ、ぜひ進んで欲しいんです」

 本当に有り難い申し出だった。 当時、私は26歳になっていたが、ここから大学に入り、エジプト学を志すことにしたのである。

 AUCはエジプト学を学ぶには最も適した大学だった。 使用言語は英語で、完全にアメリカの教育システムが導入されていた。遺跡や博物館にすぐ行くことができるというだけでなく、教授陣も充実しており、発掘現場で働く一流の考古学者たちも、特別に授業を持つことがあった。

 入学してみると、アメリカの大学と同様に、とてつもなく課題が多かった。 毎週読まなければならないテキストが何百ページもあり、小論文などの課題の提出は数日おきにあった。 ただ、私は勉強できることが幸せだった。

 エジプト学の授業は、本館から少し離れた貴重書図書館の一室で行われることが多かったが、収蔵されているナポレオンの『エジプト誌』やレプシウスの『エジプト・エチオピア記念碑』など、古い文献を手にするだけで至福を感じた。

 大学で勉強を始めて気づいたのは、数年間ガイドをするなかで、極めて重要な基礎知識が身についていたことだった。 たとえば、多くの学生は、授業のスライドで遺跡を見ても、どれも同じに見えてしまうが、私は、壁の一部しか写っていなかったとしても、それがどこの遺跡で、誰が作ったのか、いつ頃建てられたのか、周りには何があるのかが、すぐにわかった。

 ガイド時代に基礎知識を身につけていたことに加え、一心不乱に勉強した甲斐もあったのか、在学中にエジプト学専攻の学生のなかで最も優秀な学生に贈られるアハメッド・ファクリ賞(Ahmed Fakry Award)や、学部の優秀な学生に贈られる人文社会科学賞(Humanities Social Science honor)を受賞することができた。お世話になっていた中野ご夫妻に、少しでも勉強の成果を示すことができて、ほっとしたものである。

 レーナー博士との出会い

 大学での勉強は充実していたが、ひとつ不満があった。 それは、発掘の実地授業がなかったことである。 私の専攻はエジプト学だったが、学んだことは、ヒエログリフなどの古代語、古代エジプトの歴史や社会、芸術、建築であり、考古学の授業はなかったのである。

 エジプト学と考古学は似て非なるものである。 重なるところも多分にあるが、エジプト学は基本的に歴史学であり、過去の史料を検証し、解釈する。それに対して、考古学は、発掘や測量調査を通じて、まず史料を生み出す学問と言える。

 そこで学部の4年生になったとき、自分で研究テーマを決めて単位を取得できる自主研究(independent study)の制度を利用して、発掘調査チームに参加しようと考えた。 AUCでも、歴代のファラオが眠る「王家の谷」のなかで最大の墓であるラメセス2世の息子たちの複合墓を発掘していたが、私はやはりピラミッドと関わる発掘に参加したかった。しかし当然ながら、知識も技術もない学生が学外の発掘隊に参加するのは容易なことではなかった。

 そんなとき、好機が訪れた。 中野ご夫妻とガイドの先輩であった紺野文彰さんが、毎月、最前線で活躍するエジプト考古学者たちを招いて講演会を開いていたのだが、そこにピラミッド研究の第一人者であるアメリカ人考古学者マーク・レーナー博士が来ることになったのである。

ギザの大ピラミッド(Great Pyramid of Giza)は、エジプトギザに建設された、世界の七不思議で唯一現存する建造物である。紀元前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスの『歴史』において、「クフ王のピラミッド」として報告されているが、この時点で建設から2000年以上経過していた。

「ケオプス(クフ)王は50年間統治したと言われている。ケオプス王が崩御した後、兄弟のケフラン(カフラー)が王となった。ケフランもピラミッドを造った。それはケオプスのピラミッドよりも12メートルほど低かった。だがそれ以外は同じような大きさのピラミッドだった。ケフラン王は56年間国を統治した。その後はケオプス王の息子ミケリノス(メンカウラー)が王位を継承した。ミケリノス王は父親よりも小さなピラミッドを残した。」

建築年代については諸説あり、一般的にエジプト第4王朝のファラオ、クフ王の墳墓として紀元前2560年頃に20年前後かけて建築されたと考えられている。

なお、19世紀のフランス人考古学者オーギュスト・マリエットによってギザで発見され、現在カイロ博物館にあるインベントリー石碑には、ピラミッドは「ピラミッドの女王」女神イシスに捧げられたものであり、スフィンクスも大ピラミッドも、クフ王が王位につくはるか昔から存在していたのであり、またクフ王の墓は東側の脇にある3つの補助的建造物の一つがそれであると書かれている(他の幾つかの遺跡も同じ)。

完成時の高さ146.6mは、14世紀にリンカン大聖堂が完成するまで世界で最も高い建造物であった。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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