【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 05月22日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-05-22 05:10:09 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ ある高校生が華厳の滝からダイブ、現場近くに書かれていた文章から中二病だったと判明 (1903年)。後を追うものが続出す。 ◆ 「我が国は紅茶のオマケではない!」と、セイロンがスリランカに改称(1972年)。&so、東京23区で発生するゴミの最終的処理をめぐって、江東区と杉並区が内ゲバ (1973年) 。 ◆ 部族やら首長や王様やらが群雄割拠していたアラビア半島の南部一帯がようやく一つに (1990年=イエメン共和国が成立)。しかし、その後も紛争が収まらず・・・・・・・

◎ ◎ ネルソン・マンデラの生涯、終わりなき人種差別との闘い ◎ ◎

- - 世界一有名な政治犯から南アフリカ初の黒人大統領となるまで - -

=National Geographic Journal Japan 〉旅&文化〉 2020.07.23 / 文= Erin Blakemore/訳=桜木敬子

              

  ネルソン・マンデラは1918年7月18日、大英帝国自治領であった南アフリカ連邦に生まれた。住民の多くが黒人であるにもかかわらず、そこには少数の白人が土地と富、そして政治の実権を握る、差別的な社会構造があった。のちに「アパルトヘイト」として合法化される社会構造だ。  マンデラは95年の生涯にわたり、この構造を覆すことに力を尽くした。抵抗と投獄、そして指導者としての人生を通して、マンデラは南アフリカをアパルトヘイトから解放することに大きく貢献し、和解と多数決の時代へと導いたのだった。

若き日のマンデラ  

  マンデラが生まれた時に与えられた名は、ホリシャシャ・ダリブンガ・マンデラ。父親は南アフリカで二番目に人口の多いコーサ民族の一部、テンブ族の長だったが、英国の行政官に抵抗したことで首長としての地位や土地を奪われた。ホリシャシャもまた、黒人専用の小学校に入学した日にアイデンティティを奪われた。新たに英語の名を与えられたのだ。白人が「アフリカ名を発音できない、またはしようと思わない、そしてアフリカ名を持つことを未開とみなすような」社会においてよくある慣例だったと、マンデラは自伝『自由への長い道』の中で述べている。

 マンデラは、黒人として当時の南アフリカで最下層におかれていたものの、首長の息子だったおかげでフォートヘア大学に進学がかなった。彼はここで活動家となり、学生自治会の権限の不足を訴えたことで退学となった。故郷である東ケープ州の小さな村へ戻ったものの、退学の罰として見合い結婚をするよう一族に迫られたことから、マンデラは1941年、ヨハネスブルクにある南アフリカ最大の黒人居住区、ソウェト地区へと逃れた。

アパルトヘイトと抵抗運動

 マンデラはウィットウォーターズランド大学法学部で学び、国内初の黒人による法律事務所を開いた。さらに、南アフリカの黒人の公民権を求めるアフリカ民族会議(ANC)に参加した。一方で、1948年にはすでに横行していた人種隔離が法制化され、アパルトヘイトが正式な政策となった。黒人は常時、身分証明書を携帯すること、白人地域に立ち入る際にはそれを提示することを求められた。また、黒人専用地区への居住を強制され、人種間での結婚を禁止された。やがては選挙権すらもはく奪された。  

  当初、マンデラやANCのメンバーたちはストライキやデモなどの非暴力的な活動を行っていた。1952年、マンデラは抵抗運動のリーダーとなったが、この運動では積極的に法に違反することが呼びかけられた。マンデラを含め8000人以上が、夜間外出禁止令への違反や身分証明書の不携帯などで逮捕された。

   黒人の権利を訴える抵抗運動は、ANCの目的やマンデラ自身の存在を世に知らしめた。服役後もマンデラは運動を率い、1956年、155人とともに反逆罪で起訴された。1961年に無罪判決を受けた後、17カ月は身を隠して暮らした。  

  マンデラは、アパルトヘイトを終わらせるには武力を用いるほかないと考えるようになっていた。1962年には、軍事訓練を受けるため、そして運動への支持を集めるため、短期間、国外へ出た。しかし、国に戻って間もなく、許可なしに国を出たとして逮捕され、有罪判決を受ける。マンデラが刑務所にいる間、警察はマンデラの書類からゲリラ戦の計画を知ることとなり、マンデラと同志たちは破壊活動の罪で起訴された。  

  マンデラらは、今日リヴォニア裁判として知られる裁判において、有罪および死刑判決を受けることになるとわかっていた。そこで、陳述を行う中でアパルトヘイトへの抵抗について広く知ってもらい、黒人を抑圧する法システムに挑戦状をたたきつけることとした。答弁の順番がまわってきたとき、マンデラは4時間のスピーチを行った。

刑務所での日々

 マンデラは死刑とはならなかった。しかし、1964年、終身刑の判決を受けた。面会を許されたのは年に1回、30分間、1人のみ。手紙は年に2通送り、2通受け取ることができた。厳しい環境に閉じこめられ、採石場で働いた彼は、やがて他の囚人や看守の尊敬を集めるようになった。ANCに暴力的行為をやめさせることを条件に釈放するとの申し出もあったが、マンデラは断った。

 27年の服役生活の中で、マンデラは世界でも最も名を知られる政治犯となった。支持者たちはマンデラの釈放を求め、世界中の反アパルトヘイト活動家たちはマンデラに刺激を受けた。  1960年代、国連の中で南アフリカに対する制裁を唱える国が現れると、以後そうした声は大きくなっていった。やがて、南アフリカは国際社会の中で孤立していった。1990年、国際的な圧力と内戦の危機を受けて、南アフリカのデクラーク大統領はアパルトヘイトの廃止を宣言し、マンデラを釈放した。

  アパルトヘイトはマンデラの解放とともに直ちに終焉を迎えたわけではない。71歳となっていたマンデラはデクラークと会い、多数決での決定を可能とする新しい憲法について話し合った。アパルトヘイトは1991年に廃止され、1994年には、政党となったANCが平和で民主的な選挙において62%以上の票を獲得した。デクラークとともにノーベル平和賞を授与されたマンデラは、新生南アフリカの大統領となった。

アパルトヘイト後の指導者として

 マンデラは5年間、大統領の任に当たった。功績の1つは南アフリカ真実和解委員会の設置だ。人権侵害について記録し、加害者と被害者双方がともに過去と和解するための仕組みである。その成果については議論があるものの、長年にわたる傷からまだ癒えていないこの国で、報復ではなく修復を旨とする「修復的司法」を開始したことは事実だ。

 マンデラのなしたことが完璧だったわけではない。大統領としては能力がなかったとする専門家もおり、暴力行為や経済問題の扱い方がまずかったとの批判もある。  マンデラは1999年に任期を終えると、残りの人生を貧困問題とエイズの啓発に費やした。2013年、95歳で亡くなった。

 マンデラの誕生日である7月18日は、毎年、彼の功績と犠牲を称えるネルソン・マンデラ国際デーとなっている。これは、彼の理想がまだ成し遂げられていないという、マンデラ自身も述べていたことを思い出すための日でもある。

「自由であるということは、単に自らが鎖から解放されることを指すのではなく、他者の自由をも尊重し促進するような生き方をすることだ」と、彼は自伝に書いている。「自由への献身を試される私たちの日々は、まだ始まったばかりなのだ」

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