山梨県丹波山村高尾・集落外れの大六天神社
甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった丹波山村高尾の集落外れに大六天神社が建っています。
大六天は関東一円に広く信仰された招福の神でしたが、明治の初めに社名の変更や合祀で数を減らし、いまでは神奈川県にその痕跡を残すだけになってしまいました。しかし丹波山村では今も信仰が続き、社殿は昭和40年に再建されています。境内の石燈籠には「奉納大六天宮御廣前」銘、「文政十一戌子天(4828)/氏子中」とありました。
大六天は仏教を妨害する魔王でしたが、仏教に取り入られて欲界の六欲天の最高位にある他化自在天になったと仏書にあります。欲界は三界(欲界・色界・無色界)の一つで、色欲食欲が強い衆生が住む世界。六欲天は他化自在天と四王天・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天。
大六天の信仰は、関東から甲州・信州に広まりましたが、明治の神仏分離で名称の変更や合祀が行われて激減。このブログでは石仏613で神奈川県高松山の大六天と、千葉県香取市山倉の観福寺の大六天を案内しています。
(地図は国土地理院ホームページより)
山梨県丹波山村高尾・路傍の大日・馬頭並立像
甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった丹波山村の中央公民館前で、一石に大日如来と馬頭観音を並立した石仏を見ました。
風化してはっきりしない石仏ですが、向かって右は智拳印の大日如来。左は頭上に馬頭を戴く馬頭観音です。
大日と馬頭を祀った山は千葉県の房総に沢山ありますが、造立の趣旨はわからないままです。また伊豆半島の河津町にも同じ石仏があり、こちらは『河津町の石造文化財』(注1)「天道大日に晴天を願い馬頭観音に馬の道中安全を願った」と紹介しています。丹波山村の大日・馬頭並立もこのような背景があっての造立なのかは不明ですが、同じ場所に馬頭観音や牛馬供養塔もあるので、この地が牛馬供養の場所であったのは確かです。
大日と牛については、大護八郎氏が「大分県国東半島に、牛に乗った金剛界大日石造が、百体以上もある」と『石神信仰』(注2)で報告しています。その理由は説かれていませんが、岐阜県大野郡には馬に乗った大日如来像のあることも報告しています。
(注1)『河津町の石造文化財』平成2年、静岡・河津町教育委員会
(注2)大護八郎著『石神信仰』昭和52年、木耳社
(地図は国土地理院ホームページより)
山梨県丹波山村保之瀬・法興寺の不生位
甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった保之瀬は丹波川の右岸にある小さな集落。山奥の小さな集落にも必ずお寺があり、家の数より墓地が多く、人の数よるはるかに多い墓石。これがこの国の風景です。保之瀬もそのような集落で、その中心に建つのが法興寺で、区画された墓地と立派な墓石が並んでいました。
狭い境内の覆い屋に入った六地蔵の一尊が持つのは銅鈸子(どうはつし)。洋楽器のシンバルに似た仏教の楽器です。
墓地上に建つ薬師堂前にある墓石は、頭に阿字(梵字のア)があり戒名は「法印大圓不生位」。不生位は真言宗僧侶の戒名の位号(最後の居士、大姉)の文字で、『葬儀・戒名ここが知りたい』(注)では「さとりの世界を象徴した位号」としています。説明するのはたいへん難しい位号ですが、同書からもう少し紹介すると、「真言密教の根本理念に『阿字本不生』という概念があり、『阿字より出でて阿字に還る』といわれます」となって、ますます難しくなります。
日本の真言宗開祖・弘法大師に「阿字の子が 阿字のふる里 たち出でて また立ち還る 阿字のふる里」という歌があります。仏(大日如来)の世界から旅立、いずれ仏の世界に戻ってゆくという意味のようです。前書では、「いのちがよってきたるべき根源の阿字が不生にして不滅であることは、死もまた不生にして不滅ということです。とりもなおさず永遠なるさとりの世界に入ることであり、静かにしてやすらかな境涯に還ることでもあります」と不生位を締めくくっています。
(注)『葬儀・戒名ここが知りたい』平成5年、大法輪閣
(地図は国土地理院ホームページより)
東京都奥多摩町小留浦の姫の石観音
甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった小留浦に「姫の石観音」という案内があったので登ってみました。
登山口は太子堂。山道を15分ほど登ると小さなお堂が見えてきます。石を積んで造ったスペースに建てた御堂で、中をのぞくと祭壇に祀られていたのは大きな自然石が一つ。高さ80センチで中央に大きな割れ目が入っている自然石です。
これを女陰と見て祀ったのは明らかで、大護八郎氏の『石神信仰』(注)には「小留浦の都指定文化財の太子堂の筋向いの山腹を登ると、立派なお堂の中に姫石観音といわれる、石灰岩に大木の根が食い込んで幾つかの割れ目をつくり、さながら女陰ものがまつられている。その前に石製・木製の小さな男根石が奉賽され、堂正面欄間のかえる股には裸女が刻されている」と報告してあります。
大護氏が見た姫石観音は50年以上前のことで、いまその前に男根は見当たりませんでした。ただ、欄間の裸女は健在でした。それは松茸を抱きしめた豊満な裸女。松茸は男根の隠語。子授けに霊験がありそうな姿です。
(注)大護八郎著『石神信仰』昭和52年、木耳社
(地図は国土地理院ホームページより)
東京都奥多摩町小留浦の太子堂
甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった小留浦は昭和32年に完成した小河内ダムの湖底に沈み、いま湖畔に建つ太子堂はダム建設のときに現在地に移築されたものです。
太子堂は聖徳太子を祀るところからの名称ですが、構造からみて芝居をするための建物というのが分かっています。太子堂の下に立つ石碑は「小河内の太子堂舞台」となっています。 太子堂下の青梅街道沿いには、これもダム建設時に移されたと思われる石仏が並んでいました。一部を追加造立した六地蔵、庚申塔、卵塔、「二十三夜/弁財尊天」銘石塔など、どこの集落にもあった生活を支えた信仰の石造物です。
(地図は国土地理院ホームページより)
群馬県みなかみ町相俣の富士新田・富士浅間神社の三十番神(さんじゅうばんしん)
赤谷集落のさらに奥の富士新田に浅間神社があります。
神社の案内には、養蚕の神、五穀豊穣の神として木花咲耶姫之命を祭神としたとあります。関東の養蚕の神としては茨城の蚕影神社が広く信仰されていて、富士浅間の養蚕は、それほど普及しなかったようですが、養蚕に熱心な富士信仰の御師が養蚕の盛んな地方に進めたようです。このみなかみ町相俣の浅間神社もその一つだったようです。しかしこの境内に蚕神関係の石造物は見当たりませんでした。
境内にあるのは如意輪観音、大黒天、庚申塔、薬師如来などで浅間信仰と関係のない、生活に取り入れられた信仰の石造物です。そのなかから「守三十番神」を案内します。
三十番神は日本の神が1日から30日までの1か月を交代で守護する30の神々で、1日尾張熱田大明神(大日如来)、2日信濃諏訪大明神(普賢菩薩)のようにそれぞれに本地仏が配されました。最澄が始めた信仰といわれ、比叡山の神が多いのも三十番神です。守護するのは天地擁護から国家安泰までいろいろありましたが、日蓮により法華経の守護とされました。
江戸時代の仏像図版集『仏像図彙』に三十日秘仏が紹介されています。このなかで三十番神の像も紹介されていますが、その多くは衣冠束帯の姿。ちなみに三十日秘仏は30日のそれぞれに縁のある仏を配したものです。
(地図は国土地理院ホームページより)
群馬県みなかみ町相俣の赤谷・十二神社の道祖神
谷川岳の懐にある赤谷集落の鎮守が十二神社。社殿脇の案内には、安産・子育て・山の神とある。
安産については「陣痛の始まった産婦に十二神社からいただいた腹帯を腹に巻十二神社にローソクをあげると御産が軽くすむといわれています」と。
境内に道祖神があります。男神が女神の肩を持ち(肩に指が小さく刻まれています)、女神が男神の手首を握っている姿で「寛延二年(1745)」銘。
大塚省吾氏が『やぶにらみ道祖神』で、上州の双体道祖神を合掌・肩くみ手にぎり・酒器持ち、幣もち・雲上像・あからさまな性などに分類したことは、このブログの214「みなかみ町西峰須川・雷電神社の道祖神」で案内しましたが、その出現は合掌→肩くみ手にぎり→酒器持ち→その他の順としています。
(注1)大塚省悟著『やぶにらみ道祖神』昭和51年
(地図は国土地理院ホームページより)
群馬県みなかみ町猿ヶ京・赤谷七福神(しちふくじん)
猿ヶ京温泉から水上温泉に出る道の赤谷川沿いに木彫の七福神が祀られています。七福神は、この道の途中に建つ伊太祁神社がこの地に建立されたのを機に造立されたものと案内にあります。
伊太祁神社は和歌山県にある五十猛命(いそたけるのみこと)祀る神社。五十猛はこの国に樹木を植えて廻った神。この分霊を東京の深川に祀ったのが日本を代表する木材商の長谷川萬治(1891~1975)。その後神社は群馬県の沼田、そして猿ヶ京の赤谷川に移ったのが平成11年。そのときに祀った神々、今は赤谷七福神として親しまれています。
七福神は丸太を利用した粗削りの像や、丁寧な像などさまざま。次にその姿を写真で案内いたします。
布袋
毘沙門天
寿老人
大黒天
恵比寿
福禄寿
弁財天
(地図は国土地理院ホームページより)
群馬県みなかみ町相俣宿・海円寺の庚申層塔(こうしんそうとう)
海円寺の境内入口に石造物が並んでいます。
如意輪観音が二基、子安観音、庚申塔、地蔵、庚申層塔などです。ここではそのなかで珍しい庚申層塔の案内。
庚申塔の主尊は近世初頭に仏菩薩から青面金剛に変わってきたことはよく知られています。形も板碑型から自然石までさまざまで、石塔型式もいろいろです。平野実氏の『庚申信仰』(注)には正保三年(1646)の五輪塔、寛永三年(1626)の宝篋印塔、寛永三年の宝篋印塔、承応三年(1654)の層塔、寛文元年(1661)の石燈籠の庚申塔が紹介されています。なかでも庚申層塔はさまざまな庚申塔が残る関東でも少なく、群馬県の北部地方に多く造立されたことが知られています。
海円寺の層塔の塔身は珍しい四重(層塔は塔身は奇数が基本)で、一番下の塔身に蓮華、次に合掌した両手を頭上にかかげる二猿、次は二鶏、一番上に日輪月輪が見られます。群馬県北部の庚申層塔はこの配置が一般的で、みなかみ町須川の秦寧寺の庚申層塔は台座に蓮華、次に合掌二猿、次は風化が進んでいますが二鶏、日月輪のように見えます。
(注)平野実著『庚申信仰』昭和44、角川選書
(地図は国土地理院ホームページより)
群馬県みなかみ町湯宿温泉・閻魔王(えんまおう)
湯宿温泉には薬師堂があり、温泉宿の王滝屋は薬師の湯とされています。これとは別に温泉の裏山に薬師堂があります。王滝屋の脇の「聖徳皇太子」「二十二夜塔/二十三夜塔」の立つところが入口で、かつては温泉客の遊歩道として整備されていた道です。
薬師堂まではかつての道が残っています。その先、渓谷にかかる橋から先は荒れてしまいました。その道をさらに登ると閻魔王と庚申塔が並んでいました。
閻魔は両手で笏を持つ堂々とした姿。庚申塔は六手ショケラ(裸婦)を持ち、台座に二鶏三猿が刻されています。
閻魔王はこのブログのみなかみ町羽場・広福寺で案内しました。群馬の沼田やみなかみなどの奥利根地方には、閻魔ばかりでなく奪衣婆や十王など地獄の石造物多い土地柄です。どうしてこの地方に多いのかはわかりません。『沼田の石仏』(注)には「民衆の堕地獄の恐怖からのがれるための切なる願いの生前供養であろうか」とあります。ちなみに沼田市の閻魔の最古は延宝四年(1673)で、幕末まで年代不明のものを含め26基。奪衣婆は元禄二年(1689)を初めてして35基造立されています。近世をとおして閻魔・奪衣婆と信仰を祀ってきたようです。
(注)『沼田の石仏』平成4年、沼田市
(地図は国土地理院ホームページより)
群馬県みなかみ町須川・秦寧寺の奪衣婆(だつえば)
参道入口に「不許葷酒入門」銘の結界石が立つ泰寧寺は曹洞宗の寺。反対側には「庚申」銘がある二猿の層塔が立ち、その先の川に朱塗りの橋がかかり、橋の手前の地蔵石仏のなかに奪衣婆が右ひざを立てて座っていました。しわくちゃで歯が欠けた老婆、胸元にはオッパイが垂れ下がっています。
奪衣婆の役目は三途の川を渡ってきた死者の衣服を脱がせ取り、相棒の懸衣翁(けんねおう)に渡すこと。懸衣翁はその衣を衣領樹(いりょうじゅ)に掛け、枝のたわみ具合で生前の悪行の重さを計るとされています。したがって奪衣婆の座所は三途の川を渡った先となりますが、秦寧寺では境内に入る川の手前にありました。かつては別の場所にあったものを地蔵とともにこの地に移動したのかもしれません。
橋を渡ると本堂へ続く幅の広い石段が続き、中程に二階建ての火燈窓がついて立派な山門が建っています。
写真は、川の上流にあった新しい弁財天と境内奥の六地蔵のなかの、燭台を持つ地蔵菩薩です。
(地図は国土地理院ホームページより)
群馬県みなかみ町東峰・野々宮神社の淡島様(あわしまさま)
野々宮神社の境内に粟島様が祀られています。粟島様の信仰は女性特有の下の病気の治癒。像容は女性の神様で粟を持っています。
野々宮神社の淡島様は坊主頭ですが女性らしい姿で、右手に粟の穂を持ち、右手は何かの花を持つように見えます。慶應4年(1868)の造立。
淡島様の本社は和歌山市加太の淡島神社。『日本民俗大辞典』(注)には、「淡島神は住吉神の妃神であったが、帯下の病にかかったために海に流され、三月三日に紀州の淡島に漂着して祭祀される」(注)とあります。
淡島信仰が各地に広まったのは江戸時代の中期。淡島の神像を入れた笈を背負い、その由緒と功徳を説いて各地を廻り、下の病に悩む女性の代参を請け負った淡島願人の活動があって信仰が広まったようです。ただ江戸時代中期は庚申や月待信仰の講組織が生活のなかに定着していて、粟島信仰を受け入れて石仏まで造立した地方は少なく、知る所では福島県の須賀川、石川地方に集中しているようです。これが石仏関係者に注目されるようになるのは昭和50年からで、次に手元にある石造淡島様を報告した石仏関係書籍をあげておきます。
昭和50年『ふくしまの野仏』には須賀川の淡島様の2基掲載
昭和52年『日本の石仏』№1に生田目秀男氏の「福島県内の淡嶋神像と淡嶋講」
昭和59年『日本の石仏9東北篇』に小坂泰子氏の「東北地方の淡島様とその信仰」
昭和61年『日本石仏図典』に掲載
(注)『日本民俗大辞典』平成11年、吉川弘文館
(地図は国土地理院ホームページより)
群馬県みなかみ町東峰・金泉寺の五色蓮華(ごしきれんげ)
金泉寺は青銅の緑色屋根が特徴の修験の寺。庚申塔が並ぶ道を入ると「神変大菩薩」と「日限地蔵大菩薩」の石塔が立っています。神変大菩薩は役の行者、日限(ひぎり)地蔵の日限は日を決めてお参りすること。
小さな境内に蓮を植えた幾つかの鉢が置かれていました。住職がそだてているもので、蓮には青・黄・赤・白・黒と五つの色があるといい、黒の蓮華を探しているというのです。寺にある五色の未敷蓮華も見せていただきました。仏教の五色の意味はいろいろあるようですが、青(緑)は如来の髪の色、黄は身体、赤は血、白は歯、黒(樺)は袈裟が知られています。
修験の金泉寺は、中世に天台系熊野修験をまとめた本山派・聖護院門跡本山派。門跡は皇族が住職を務めた寺で、寺紋は皇室の印である菊の紋に、修験の象徴である法螺貝を入れた菊法螺貝です。金泉寺の賽銭箱にはその寺紋が輝いていました。
(地図は国土地理院ホームページより)
群馬県みなかみ町西峰須川・雷電神社の道祖神(どうそじん)
雷電神社脇の路地に庚申塔や道祖神が立っていました。道祖神は「道祖神」の文字塔と双体像です。
雷電神社のある場所はかつての新治村。群馬の道祖神をまとめた大塚省悟氏は『やぶにらみ道祖神』(注1)で、新治村の道祖神を29基報告し、この村の道祖神の特徴を幣持ちの密集地としています。この幣持ちは双体道祖神の男神が御幣を持ち、女神が徳利を持つ形です。雷電神社の双体像は御幣持ちではなく、肩くみ手握りで女神が徳利を持っているようです。
道祖神の石造物研究は細分化されて、とくに双体像の場合は手の組み方から持物まで分類され、大塚氏は早い時期に合掌・肩くみ手にぎり・酒器持ち、幣もち・雲上像・あからさまな性などに分類しています。その後の『石仏図典』(注2)では合掌・拱手・握手・祝言・性愛などになっています。この詳細な分類が道祖神信仰の解明にどうつながっていったのかは、道祖神について門外漢の私にはわかりません。行事や伝承を含めて収集して細分化したものをどうまとめるかが道祖神研究の課題のようです。
上写真は境内の石祠にあった「大黒」です。
(注1)大塚省悟著『やぶにらみ道祖神』昭和51年
(注2)日本石仏協会『石仏図典』昭和61年、国書刊行会
(地図は国土地理院ホームページより)
群馬県みなかみ町新巻・徳厳寺の如意輪観音(にょいりんかんのん)
入口に地蔵と禅宗寺院によく見られる「禁許葷酒入山門」銘の結界石が立つ徳厳寺は曹洞宗の寺。
参道には笏を持った閻魔王が座し、素朴な六地蔵が並んでいます。地蔵の奥に立つ如意輪観音は丸彫りで細い手と切れ長の眼が異国風の石仏。いまにも倒れそうな角度で立っていました。
飛鳥時時代の細身の仏、白凰期の細い眼の仏など、奈良時代に登場する日本型仏像になる前の仏像に似ている像容なので異国風に見えましたが、装飾も付けない姿は、京都・広隆寺や、大阪羽曳野・野中寺の弥勒菩薩半跏像を思い出させる姿です。
(地図は国土地理院ホームページより)