福島県いわき市遠野町横道・上遠寺の帰依三宝塔
いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街の西外れに建つ上遠寺の山門に「不許葷酒入山門」銘の結界石が立っています。
境内には「帰依三宝塔」の供養塔。
帰依三宝は仏法僧の三宝にすがります、仏教徒になりますとう意味です。「花元童女/根岸村施主加茂之助/白室一露信女/享保十一丙午天(1726)」銘がありました。想像するに、出産のとき亡くなった母子を一緒に供養したのでしょうか。
仏式葬儀を始めるに当たってまず戒名をいただくことは今も行われているもので、江戸時代に檀徒制度ができて庶民にも広まったとされています。それを裏付ける一つが高野山の清浄心院に保存されている「供養帳」です。中世のころから高野山では、地方に出掛けて高野山での死者の追善供養を進めてきました。高野聖と称された僧たちです。これは戦国期も続けられ、高野山清浄心院に残る「供養帳」をもとにまとめられた『下野国供養塔』(注)をみると、武士階級には戒名があり、庶民には戒名がなく名前だけの記述が目立ちます。
だいぶ前に清浄心院に泊ったことがありました。高野聖の供養帳を見せてもらうつもりでの宿泊でしたが、供養帳の酸化腐敗がひどく一般の人には見せていないとのことで、願いは叶いませんでした。下の写真は高野山清浄心院と『下野国供養塔』の供養帳の一部。
(注)『下野国供養塔』鹿沼市史返さん委員会、1999年
(地図は国土地理院ホームページより)
福島県いわき市遠野町中妻・西光寺の念仏地蔵
いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街道から北に外れた中妻の西光寺に地蔵菩薩があります。地蔵には「念仏供養/延享四丁卯(1747)」銘があり、首から鉦のようなものを下げています。よく見ると地蔵にしては錫杖も宝珠もなく、念仏行者風でもあります。
寺は無住でこの石仏の情報はありませんが、鉦のようなものを持つ姿から想像を膨らますと、この地方のお盆の行事の〝じゃんがら〟を思い出します。じゃんがら念仏踊りと称されているこの行事はいわき市やその周辺町村でも行われているもので、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら集落の新盆の家を中心に供養して回る踊念仏の一つです。この遠野にもじゃんがら念仏があります。その起源は不明ですが、一説に佑天上人が始めたものという伝えがあります。
佑天(1637~1718)はいわき市四倉の人で、江戸の増上寺36世を歴任した浄土宗の僧。死後に中目黒の祐天寺に埋葬されました。念仏布教にも力をそそぎ、丸みをおびた南無阿弥陀仏の祐天名号塔が各地に造立されています。祐天は地蔵菩薩の化身ともされていて、祐天・地蔵・じゃんがらが一体となったのがこの念仏地蔵……、こんなことを想像してしまいました。ただ地元のじゃんがらに参加しているという人の話では、じゃんがら関係の石造物は見ていないということでした。
(地図は国土地理院ホームページより)
福島県いわき市遠野町白坂・愛宕神社の湯殿山
いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。
街道から北に外れた石坂の愛宕神社の入口に「萬延元年(1860)」造立の「湯殿山」供養塔が立っています。高さ130センチの大きな石に刻されたこの形が東北の出羽三山信仰の供養塔です。その多くは頭に胎蔵界大日如来の種字アーンクが入っていますが、愛宕神社に石塔はありません。ちなみに関東の出羽三山供養塔は「月山/湯殿山/羽黒山」と三山を一石に刻したものが一般的です。
この違いは出羽三山に参拝するコースに関係があります。東北とくに南部の道者は距離が短い月山の南側の登山口になる大井沢や本道寺から入り、湯殿山だけ巡って羽黒山までは行かない道者もあったようです。一方関東南部の道者は山形から船で最上川を下り、あるいは信州の善光などを巡って日本海から船で鶴岡に出て、月山の北側になる手向から入り、羽黒山・月山・湯殿山を巡りました。これはいつも決まった宿を利用したためです。また、三山の信仰の道は、道者が別の登山口に下山することは山を割るということから禁じられていて、宿坊から登り宿坊に下山していました。
この背景には三山が江戸時代初期に北側は天台宗、南側は真言宗に別れ、真言系が早くから東北南部から北関東に布教をはじめ、天台系は遅れて関東南部に布教をし、道者は宿坊がある登山口だけ利用するという、山岳信仰特有の形態から生じたもので、その結果湯殿山だけ刻す東北と湯殿山・月山・羽黒山を刻す南関東の石塔の違いが生じたものと私は見ています。
三山供養塔で、中央に湯殿山があるのは江戸時代の塔、明治以降は月山が中央になります。これは明治の神仏分離のとき、湯殿山が仏教にこだわったため、神格が月山より低くされたためです。下写真の初めは山形県上山市、次の2点は千葉県八千代市の石塔です。
山頂の愛宕神社は先の平成23年の東日本大震災で社殿が崩壊、その年の12月に再建されたものです。
(参考文献)長井政太郎著「出羽三山とその宗教集落の盛衰」『山岳宗教史研究叢書5』昭和50年、名著出版
(地図は国土地理院ホームページより)
福島県いわき市遠野町大藪・大藪観音堂
いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街道から北に外れた大藪に観音堂があるので訪ねました。
集落外れの小さな森のなかにある観音堂は、幅のひろい立派な石段から始まります。
その先に建つ観音堂は石段とは比べようもないちんまりしたお堂。先の地震の影響でしょうか、土台が傾き、御堂も歪んでいます。
なかを覗くと木製の白馬がこちらを見ていました。大藪の観音はこの地方の馬の守り神として知られ、その信仰が盛大であったことを示しているのが立派な石段のようです。
石段を見ると、石段の脇を抑えている袖石の所々に奉納者の名が刻されているのがあります。地名と名前が一緒になったこの袖石は高額の奉納をした人たちなのでしょうか。
お堂裏に青面金剛の庚申塔が倒れていました。青面金剛が踏みつける邪鬼の顔がユニークです。
(地図は国土地理院ホームページより)
福島県いわき市遠野町早川・湯殿山神社の廣作仏事
いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街道から北に外れた早川に湯殿山神社が建っています。
参道入口の階段脇に立つ「廣作仏事宝塔」銘の石塔が目にとまりました。頭には阿弥陀如来の種字キリークが刻されています。「廣作仏事」の廣作の意味はよくわかりませんが、仏教の精神に基づいて宝塔を造立しましたということでしょうか。「宝暦(1751~)」銘も読みとれます。近くに法塔があるかと探しましたが、これは見つかりませんでした。湯殿山神社なので、出羽の湯殿山系の神社と思いましたが、それらきし石造物もありません。福島県神社庁の資料によるとこの湯殿山の祭神は大山祇神で山の神のようで、いつのころか湯殿山から山の神に変わったようです。
立派な石段を登ると社殿です。境内にも石造物はありません。社殿は荒れていました。社殿は荒れてもご神体は変わることなく鎮座しています。
(地図は国土地理院ホームページより)
福島県いわき市遠野町寺ノ代・妙光寺の東堂山
いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。東堂山の供養塔がある妙光寺は街道から離れた山の中にあるいわき七福神の毘沙門天の寺。平安時代に筑波から磐城に入り、会津に落ち着いた徳一(生没不明)開山とされている寺です。
本堂の左手奥に建つのが東堂山のお堂。お堂の前には「東堂山」の石塔も立っていました。東堂山は御斎所街道から少し北に離れた小野町にある、馬の信仰で阿武隈南部の広い地域で信仰された寺です。この地域には「東堂山」銘の石塔があることも知られています。
東堂山も徳一を開山とした満福寺。馬の信仰で知られた東堂山がいま人気になっているのがこの寺の観音堂奥に並ぶ羅漢石仏で、奉納者自身が造った石仏です。昭和60年ごろから始まったこの自作羅漢奉納はいまも続いているようです。下の写真は東堂山観音堂と羅漢です。
(地図は国土地理院ホームページより)
福島県いわき市遠野町富岡・蓮浄寺の大曼荼羅
いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街道から離れた山沿いの日蓮宗蓮浄寺に大曼荼羅の石塔が立っていました。
中央に「南無法蓮華経」、その左右に「南無多宝如来/南無釈迦如来」、さらに左右に「南無上行無辺行菩薩/南無浄行安立行菩薩」銘が並びます。これを大曼荼羅と称しています。造立は「安永四未(1775)」。下部に「法界」銘。他に「題目千部塔」もありました。
大曼荼羅は法華経の世界を仏名で描いた法華曼荼羅の一つ。法華経に説かれた如来・菩薩・明王・天の仏を漢字や梵字で記しています。そのなかの従地湧出品十五に説かれた四菩薩が上行菩薩・浄行菩薩・無辺行菩薩・安立行菩薩。仏道修行をする人の根本的な総願としてあげられる「四弘誓願(しぐせいがん)」を象徴するたちです。そのなかの浄行菩薩は日蓮宗寺院の境内に丸彫り石仏として祀られ、その多くに柄杓やタワシが置かれています。これは浄行菩薩を水で清め、自分が患っている所と同じ場所を洗って治癒を願うものです。
実際の大曼荼羅はさらに多くの尊名が描かれていますが、蓮浄寺の石塔は大曼荼羅の中央上部に並ぶ仏たちを石に刻したものです。
(地図は国土地理院ホームページより)
福島県いわき市遠野町稲荷林・稲荷神社の仙台四郎
いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。稲荷神社入口の土手に「正徳太子」「石尊社」「飯豊山」の文字塔があります。
境内隅に建つお堂の扉を開けると、祭壇脇に20センチぐらいの小さな木彫坐像がありました。縞模様の着物を着て腕組みする坐像。これは主に仙台で祀られてきた〝仙台四郎〟と呼ばれている商売の神様です。座った膝小僧の間に見える丸いものは男根です。いつのころからかこの姿になったかは不明ですが、これも仙台四郎像の特徴です。
仙台四郎(1855ごろ~1902ごろ)は江戸時代末期から明治かけて実在した人物で、仙台の商売の神・福の神として写真や人形で店先に祀られている人神です。
稲荷神社のお堂の名称はわかりませんが、仙台四郎はだれかが持て余してこのお堂に預けたように見えました。山麓のお堂には門松・ダルマ・恵比寿大黒の御神体などを預けるところがあります。なかには持て余した石仏を運び込むこともあるようです。
(地図は国土地理院ホームページ)
福島県いわき市遠野町川堀・観音堂の三界萬霊塔
いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。御斎所は遠野町にある御斎所山からの命名だそうで、このブログの石仏177御斉所山で案内しました。
御斎所街道から北に外れた山裾に建つ観音堂。境内入口にそびえるイロハ楓の巨木が目印です。農作業をしていた男性の話では、御堂本尊の観音は戦後2度盗難にあい、そのたびに造り直したそうで、いまは施錠されて本尊は拝観できません。
境内隅に「三界萬霊塔」に立っています。上部に刻された種字は阿弥陀如来(キリーク)、勢至菩薩(サク)、観音菩薩(サ)の阿弥陀三尊。
「三界」は欲界(淫欲、食欲のはなはだしい世界)・色界(欲界ほどではないが色を有する世界)・無色界(精神のみが存在する世界)、萬霊はこの世の生命あるものすべての霊で、これらの供養を勧めるための石塔です。仏道修行ができない庶民にとって、供養が仏道へ入る一つの方法。供養について、藤井正雄氏の「供養のもつ仏教的意味」(注)で、供養は「サンスクリット語のプーシャナーの訳で「供給資養」を意味する言葉である。すなわち、仏・法・僧の三宝をはじめ、父母・師・長老・死者の霊などに対して供物を供給してこれを資養する行為」と解説し、心を込めて供養することが大切と説いています。
(注)藤井正雄著「日本人の先祖供養観の展開」名著出版『仏教民俗学体系4』昭和63年
山梨県丹波山村丹波・宝蔵寺の双体像
甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった丹波の宝蔵寺に双体像があります。
丹波川を背にして建つ宝蔵寺は真言宗。境内に「百万遍供養」銘の供養塔、大日如来、阿弥陀如来が座っています。
双体像があるのは境内裏、宝蔵寺の住職が無縁仏を集めた場所という一角です。首のない地蔵などとともに2体の双体像がありました。2体とも風化していますが、僧形の顔ははっきり残っています。一見道祖神と間違いそうですが、これは墓石だと思います。戒名などはありませんが、寺院の無縁仏場にあること、奥多摩や山梨の塩山地方は双体道祖神は少ないことなどから、墓石と判断しました。
山梨の墓石を見ると、戦国末期から武家の墓に五輪塔を納めた石祠型墓石が登場し、近世初頭には庶民の墓に先祖の双体僧形像を祀った石祠型墓石が出てきます。後に石祠を省いて双体像だけを造立するようになったのが、この宝蔵寺に残るような僧形双体像の墓石と見ています。
(地図は国土地理院ホームページより)
山梨県丹波山村奥秋・子之神社の木花開耶姫神
甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった秋山の子之神社に「磐長姫/木花開耶姫神/角行/食行/霊」銘の富士信仰石塔が立っています。
中央が木花開耶姫神で富士信仰の中心になる神です。磐長姫は木花開耶姫神の姉。二人とも大山津見神の娘で、日本神話では美形の木花開耶姫神に対し醜い磐長姫という設定です。木花開耶姫を見初めた瓊瓊杵尊が結婚を申し込むと、大山津見神は磐長姫も一緒に嫁がせます。ところが瓊瓊杵尊は醜い磐長姫を送り返してしまいます。磐長姫は長寿の神で、これ以降天皇の寿命は短くなったと、古事記に書かれています。
一方木花開耶姫は一晩で妊娠したことを瓊瓊杵尊に私の子ではないと言われ、産屋に入って火をつけ、3人の子(火照命=海幸彦・火須勢理命・火遠理命=山幸彦)を産んで疑いを晴らします。
角行は角行藤仏(1541~1646)で江戸時代初めに富士講を組織した行者、食行は食行身禄(1671~1733)で富士講を広めた第一人者です。
これと並んで「廿三夜」「不動尊」銘の石塔もありました。
(地図は国土地理院ホームページより)
山梨県丹波山村奥秋・金龍寺の良円和尚
甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった奥秋の金龍寺の墓地を訪ねました。金龍寺は真言宗の寺ですが、本堂もなく墓地だけがあります。
墓地入口に良円和尚の墓碑が立っています。次に碑面を紹介します。
「良円和尚は一八〇九年(文化六年)山城の国、醍醐の百姓の子として生まれる。生来頭脳明晰さと物覚えの良さは、村人で評判となり、これを伝え聞いた報恩院(醍醐)の住職が弟子に迎え僧侶として育てた。
一八二三年(天保五年)良円二五歳の時報恩院(醍醐)武藏の国下恩方村浄福寺の計らいで末寺である甲斐の国丹波山村奥秋の金龍寺住職として迎えられた
修行時代、山城の国(京都)清水寺での花見の折、舞台から飛び降りても怪我ひとつ追わなかったという話はあまりにも有名である
また、子供や村人に学問を授けるなど、知性豊かで慈悲深い人柄は檀信徒はもとより、近郷近在の多くの人々から慕われた
生涯独り身であったが、一八七一年(明治四年)堂内一杯の村人に看取られ六四歳で還化した」
かつての僧は、修行・布教・勧進などで全国を行脚するのが普通で、遊行している僧・行者が集落のお堂に住み着くケースもあったようです。これとは別にしかるべき宗派の本山から紹介してもらうことは、今でも続いています。
(地図は国土地理院ホームページより)
山梨県丹波山村押垣外・川上神社の光明真言塔
甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった丹波山村押垣外の川上神社境内に「光明真言塔/文政八(1825)」銘の光明真言塔が立っています。真言塔が立っていたので、かつてはお寺も兼ねて僧・行者がいたと思いますが、いま境内に集会所が建っていて、その痕跡はありません。
光明真言は大日如来を中心とした五智如来に生前の罪の除減を願う密教の経典です。したがって光明真言塔が造立されたのは、天台・真言の密教系のお寺がある地域となります。この丹波山村もそのようなところで、村内の丹波にある宝蔵寺、奥秋の金龍寺、保之瀬の法興寺はみな真言宗です。写真は宝蔵寺の大日如来、金龍寺の光明真言塔です。
宗派による石塔をみると、禅宗は「不許葷酒入山門」の結界石、日蓮宗は「南無妙法蓮華経」の題目塔、浄土宗は「南無阿弥陀仏」の名号塔を山門に造立しました。
(地図は国土地理院ホームページより)
山梨県丹波山村高尾・墓地入口の一石六地蔵
甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった丹波山村高尾の墓地入口に一石六地蔵が立っています。丁寧な造りで上に三角の破風がつき、地蔵はそれぞれ何かも持っていますがよくわかりません。この一つの石に地蔵菩薩を六体並べる形は山梨独特のもので、県内のほとんどの地方に散見されます。
高尾の墓地入口には一石に地蔵を3体ならべ二つにして並べる地蔵もありましたが、この形は山梨風ではありません。
ところで丹波山村の位置は奥多摩の西の山梨県です。いまでは東京圏の印象が強い村という印象です。しかしこのような一石六地蔵を見ると、ここは山梨だと気づきます。ただ山梨特有の丸石が見当たりませんでした。青梅街道の山一つ越えた塩山には沢山見られるのに、こうなると丹波山村は奥多摩文化圏なのかも知れません。
戦国時代の丹波山村は甲斐の領地で、村の西の同じ奥多摩の丹波川の奥、塩山市にある黒川金山は甲斐武田の軍資金となった鉱山でした。この鉱山跡はこのブログの番外「鶏冠山」で案内しています。
(地図は国土地理院ホームページより)