群馬県みなかみ町新巻・但馬院の善光寺式阿弥陀三尊
新巻の三国街道沿いに建つ但馬院は修験の寺。塀に並ぶ「但馬院の天井絵」「諏訪の木城の縁起」「火伏地蔵尊縁起」の案内につられて境内に入ると、ご住職がおられて本堂天井絵を拝見することができました。
本堂須弥壇には役小角・前鬼・後鬼が鎮座。この寺は修験の寺でした。
みなかみ町生まれの林青山(1849~1933)は、江戸末期から明治にかけて群馬の多くに寺院の天井画を描きました。但馬院の天井画は64枚の花鳥獣図。
火伏地蔵尊は、江戸時代の安永七年(1778)一軒の農家から出火したときにかけつけ、家の人を起こし、大地蔵となって消火にあたったことから火伏せ地蔵と呼ばれるようになったそうです。三国街道沿いに立っていたものが、道路に拡張工事のときに但馬院に移設されたそうです。
境内のすみには風化がすすんだ三尊像の石仏が立っていました。善光寺型阿弥陀三尊に見えましたが三尊は地蔵のようです。背面に造立の趣旨が刻まれていましたが読み解けませんでした。
(地図は国土地理院ホームページより)
群馬県みなかみ町羽場・広福寺の閻魔王(えんまおう)
広福寺の入口に六地蔵が並び、境内の入口に閻魔王が座しています。どちらも古い石仏で風化が進んでいます。閻魔には「維旹元禄二(1688)」銘。
閻魔王は群馬の沼田やみなかみなどの奥利根地方でよく見かけます。冥界の入口にあって、亡者の生前の罪行を初七日から七日ごとに暴く十王のなかの王です。
仏教では古代神話の冥界の王から、十二天のなかの焰摩天として取り入れられ、人頭杖を持ち水牛に乗る姿に描かれます。江戸時代の仏画集『仏像圖彙』でも人頭杖を持つ姿になっています。これが中国に入ると、死者の集まる山である泰山の神で寿命を司る泰山府君と習合して、十王信仰が成立したといわれています。したがって閻魔王をはじめ十王の姿は道教の道服姿で、これが絵図や石造物にも引き継がれてきました。持物の笏のその一つです。ところで『仏像圖彙』の閻魔は、右手拳で左手は開いて(与願印)います。この姿はここから引用したかは不明ですが、絵図などのほとんどが笏持ちです。木彫の閻魔は笏を取ると拳と与願印になる像が多いです。
広福寺の閻魔は両手で笏を握りしめています。奥利根地方の閻魔のほとんどがこの姿です。
(地図は国土地理院ホームページより)
群馬県みなかみ町羽場・羽場日枝神社の十二山神(じゅうにやまのかみ)
江戸時代の後期に上州や越後で神社の拝殿彫刻を手掛けた熊谷の小林源八の作、みなかみの画家・林豊山の間引絵馬、群馬各地の神社に天井絵を描いた林青山の作品が残る日枝神社ですが、これらは社殿の中で見ることはできません。代わりに境内にある石祠を案内します。
一つは境内の隅に建つ「十二宮」。十二様とよばれている群馬に多い山の神です。社殿前にある古くからの十二宮と思われる石祠には「元禄三庚午(1690)」銘で、山の神の石祠としては古いものです。
社殿脇にある石祠の室部上部左右に日輪月輪があり、「天照皇大神宮/元禄二己巳(1688)」銘があります。天照を祀る伊勢神宮の伊勢信仰は江戸時代初めから全国に広がり、「天照大神宮」「太神宮」の伊勢講碑が造立されます。羽場日枝神社の石祠は形や造立年代からみて貴重なものです。
(地図は国土地理院ホームページより)
佐久市志賀・天狗岩の高棚大天宮石燈籠(いしとうろう)
佐久市の東、山が始まるところの志賀は、戦国時代に武田に抵抗した笠原氏の山城があった所です。山城から東の尾根続きに天狗岩と呼ばれている山があり、その基部に高棚大天社があります。
登山口は志賀上宿で、瀬早川沿いに林道を登った先にある大きな鳥居と石燈籠が神社への参道。鳥の額束には「大天宮」。鳥居脇に「高棚大天宮」の大きな石碑。鳥居前に立つ石燈籠の宝珠の下にある請花は大きく開いていました。請花は八葉の蓮華を模したものですから、このような派手に花開くことはないのですが……。
それで高棚大天宮ですが、時間切れ、体力切れで登れませんでした。地元の人の話では、尾根の北側に新しい林道が出来、これを入ると神社近くまで行けるとのことでした。
(地図は国土地理院ホームページより)
佐久市志賀上宿・笠原進三郎首塚
佐久市の東、山が始まるところの志賀は、戦国時代に武田信玄に抵抗した笠原氏の山城があった所。志賀中宿の外れの田んぼのなかに笠原新三郎の首塚と呼ばれている五輪塔が立っています。
信玄にとって佐久は北信濃や上州へ通じる要所。どうしても必要な土地でした。そこに立ちはだかったのが笠原清繁(進三郎1515~1547)。清繁は佐久を攻略する信玄に最後まで抵抗した城主でした。
その山城の登山口に清繁の二基の石碑が造立されています。一つは登山口の雲興寺の墓地先にあるもので、覆い屋に入っていますが、銘は読めません。その先にもうある一つは昭和38年の墓碑で「志賀笠原城主依田新三郎吉重/天文十六年八月十一日戦死/城源院隆基雲興大禅定門之碑」とあります。
笠原新三朗首塚は雲興寺の少し先の田んぼに中です。石を敷いて土台とし、その上に造立した小さな五輪塔で、大き目の水輪に胎蔵界大日如来の種字アがあるだけ、いつのころの造立かは不明です。
(地図は国土地理院ホームページより)
佐久市志賀中宿・志賀城跡の祠内仏
佐久市の東、山が始まるところの志賀は、戦国時代に武田に抵抗した笠原氏の山城があった所です。岸壁を利用した山城にいま残るのは一基の石祠だけ。
その中に納められている石造物は5年前に調べましたが全体像はわかりませんでした。今回は正体を確かめるためでしたが、確認できたのは前回と同じ頭にかぶる冠だけでした。石祠型墓石も同じですが、内部に納められた神仏は屋根を外して入れるようになっていて、正面の小さな窓からのぞいても正体がつかめないことがほとんどです。昔は屋根を取り外す力があり、祠内仏を取り出して確認したこともありました。今その力はありません。
志賀城跡山麓の諏訪宮近くの墓地で石祠型墓石を見ました(地図の青丸)。これは群馬から長野山梨に見られる江戸時代初期の墓石です。屋根に鬼面がついていて、これも群馬から長野山梨の石祠に見られるものです。かつては内部にご先祖様の石像が納められていたはずです。
(地図は国土地理院ホームページより)
佐久市志賀中宿・法禅寺の寒念仏塔
佐久市の東、山が始まるところの志賀は、戦国時代に武田に抵抗した笠原氏の山城があった所です。その中志賀に建つのが法禅寺。参道に寒念仏塔が立っていました。
頭に阿弥陀如来の種字キリークに続いて「寒念仏塔」、左右に「明和三歳(1766)/極月日」とあります。極月は12月の異称で、この寒い季節の小寒から節分までの30日間行うのが寒念仏で、厳しい時期に行うことによって大きな功徳を得られるという考えから、江戸時代には庶民の間でも流行し、寒念仏塔が造立されました。
佐久地方は、時宗を開いた一編が踊り念仏を始めたところであり、寒の坊(このブログ長野県小海町小海で案内)と呼ばれている石仏がある土地柄です。下の写真は小海の寒の坊。
寒念仏と寒の坊については、岡村知彦氏の「寒の坊」(注)から簡単に案内します。
佐久地方の寒念仏塔は二百基を超えるとし、その初見は寛文九年(1669)。初期のものは石幢が多く、元禄以降は観音や阿弥陀を本尊とした塔が出て、少し遅れて南無阿弥陀仏の名号塔に寒念仏銘をいれる塔が主流となる。寒念仏の一つとされる胸に鉦を下げる寒の坊が登場するのは安永(1772~)のころから。しかし江戸時代後期になると、修験的な厳しさを求められる寒念仏は、飲食をともなう十九夜や二十三夜の月待講に移行していった。
(注)岡村知彦著「寒の坊-民衆の手になる観音風寒念仏塔-」日本石仏協会『日本の石仏』№95
(地図は国土地理院ホームページより)
佐久市志賀・大閼伽流山の小倉観音堂
佐久市の東、山が始まるところの集落・志賀は、戦国時代に武田に抵抗した笠原氏の山城があった所です。山が始まるところの北に閼伽流山、南に大閼伽流山があり、どちらも山中に観音堂が建って石仏群で知られています。閼伽流山の石仏はこのブログの石仏85閼伽流山で案内しました。今回は南の大閼伽流山の小倉観音堂の石仏です。
小倉観音堂の本尊は馬頭観音です。
石仏は聖観音が主ですが、三面六臂で憤怒馬口印の本格的な馬頭観音二基突出して秀作です。
造立年は江戸時代後期の天明から文政期(1782~1830)が目につきました。造立者は個人あるいは二人で、近隣の村人が奉納したようです。石仏の一つに「法禅寺」銘がありました。法禅寺は小倉観音堂山麓にある寺です。
石仏のなかに船形光背に上部に真言らしい種字を刻んだ阿弥陀如来がありました。阿弥陀の頭部の種字は阿弥陀三尊として、その上に展開する30文字の種字で、中央は阿弥陀の真言の一部と思われますが、それ以外の並びがよくわかりませんでした。
(地図は国土地理院ホームページより)
筑北村の修那羅の石仏
修那羅の石仏と呼ばれた安宮神社の石仏群。この石仏奉納を指導したのが修那羅大天武(1795~1872)で、越後頚城郡大鹿村の望月留次郎(後に幸次郎)でした。その後、役師・讃狗・胎順坊・天狗仙人・修那羅天狗などと名乗り、安宮神社に居住して霊験を発揮しました。修那羅大天武となったのは死後のことのようです。
修那羅の石造物の数、金子万平氏の『修那羅の石神仏』(昭和55年)では743基、今回安宮神社でいただいたパンフレットには808基となっていて、奉納は今も続いているようです。
前回に続いて修那羅の石仏をいくつか案内します。名称は金子万平氏の『修那羅の石神仏』(昭和55年)に合わせてあります。
ささやき大明神
十王
立山坊
銭謹金神
地蔵
神像
絵馬
子育観音
鬼
裸神
(地図は国土地理院ホームページより)
筑北村の修那羅の石仏
久々に修那羅の石仏で知られた安宮神社を訪ねると、境内に大きなバイクが停まっていました。居合わせたライダーに尋ねると、最近のことだがこの神社はオートバイ神社として知られているとのこと。思うに、石仏ブームが去った今、オートバイは新しい参拝者を取り込むためのアイディアなのでしょう。境内には、素焼きの神仏を奉納する「長寿の宮」も建っていました。これも同じ趣旨と思われます。
新型コロナ以降評判になったアマビエなる疫病封じの神も、最近では話題にならないようです。昔から流行り神は一過性のものでしたが、それは今も変わりません。
修那羅の石仏をいくつか案内します。名称は金子万平氏の『修那羅の石神仏』(昭和55年)に合わせてあります。
神像
鬼
修那羅大天武
対神
大日如来
獄門の首
猫
鬼
神像
金神
(地図は国土地理院ホームページより)
青木村田沢・立木の子檀嶺神社中社
温泉のある小さな村・青木村。子檀嶺神社は里社・中社・奥社の三社からなっています。田沢温泉近く子檀嶺神社の里社があり、奥社は立木集落の奥にそびえる子檀嶺山の山頂です。
登山口の立木集落には四脚鳥居があります。集落を抜けて山に入る所にまた四脚鳥居があって中社の境内に入ります。
境内に石造物は少なく、少し離れた国道の工事中に掘り出されて境内に運ばれてきたという「文化六年/巳初冬」銘石燈籠が立っていました。
神社には里社・中社・奥社の三つの神社からなるところがあります。山の神は春に里におりて作神となり、秋に山の帰るという考えから、山の上の奥社と山麓の里社が建つのはわかります。しかし中社の役目がよくわかりません。本院・中院・宝光院の三院からなる戸隠山などは、平安時代後期に別当が「当山は三院であるべきとの霊夢によって、本院と宝光院の中間に中院を建立」(注)とあるだけです。妙高山では初めから三社大権現を祀っています。高社山などは、里社・奥社の二社だけでしたが、集落が洪水で流されたため神社の上部に移転、そのついでに中社を建てたそうです。なぜ三社体制にするのかははっきりしませんが、背景には仏教の三尊形式、熊野三山体制が影響しているようです。
(注)米山一政著「戸隠修験の変遷」昭和53年『山岳宗教史研究叢書9』名著出版
(地図は国土地理院ホームページより)
青木村田沢・木立地蔵堂の子抱地蔵
温泉のある小さな村・青木村。集落奥の高台に地蔵堂があり、その境内の覆い屋内に子抱地蔵がありました。
抱いた子供を見下ろす表情が素晴らしい地蔵です。同じ田沢の薬師堂には笑顔の子抱地蔵がありましたが、こちらは慈悲に満ちた地蔵です。腕のある石工の作のようですが、地蔵の側にある案内には「村指定文化財/明治3年、石工は高遠の著名な人」としかありません。台座に「立谷組中」銘があります。
子抱地蔵の台座を見ると、地蔵の下に敷茄子と蓮華座になっていますが、これは逆になっているようです。仏・菩薩が座る上の蓮華(受花)座と下の反花座をつなぐのが敷茄子で、石仏では丸型の敷茄子がよく見られます。仏書によると、敷茄子の茄子は食べるナスではなく、茶入れと説明されています。茄子にしてもナスにしても、これをつぶせば仏像台座の茄子になりそうです。ただ木彫仏をみると敷茄子の形は必ずしも丸ではありません。
下写真は田沢温泉薬師堂の子抱地蔵と木立地蔵堂の子抱地蔵。
(地図は国土地理院ホームページより)
青木村田沢・朝光堂の石幢
温泉のある小さな村・青木村。山の中に建つ朝光堂の入口は獣除けの金網フェンス。このフェンス、最近の里山ではよく見る光景になってしまいました。朝光堂が建つ一帯は集落の墓地の中で、古い形の墓石が見られます。板碑から変化した駒形で上部が半円形にえぐられている形が古い墓石、江戸時代初期のものです。
朝光堂の境内に変わった石幢がありました。笠は破風付きで龕部が二重になった石幢です。二重の内側に六地蔵、外側に丸や三角の窓がつけた龕を被せているものです。したがって地蔵は丸や三角の窓からのぞくように見なければなりません。こうなるとカメラでの写真撮影は無理で、スマホでなんとか撮れました。
石幢の竿に「湯本中/善女人」銘があり、境内の案内に「村指定文化財六地蔵 元禄四年(1691)湯本の女の人たちが浄財を出し合って奉納したもの」とありました。湯本は田沢温泉。
境内には左手を頬にあてる逆手の如意輪観音がありました。
(地図は国土地理院のホームページより)