介護福祉は現場から 2007.02.22-2011.01.25

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第1930号 Zivildienst(ドイツの代替勤務)

2008-12-03 21:33:20 | 地球→ドイツブログ
この写真は
鹿児島市内の照国神社の境内にある碑です。
昨日、天気がよいので出かけたわけです。
「太平洋戦争」のあと「敵味方」とあるのがみえるでしょうか?
詳しい由来は書いてありましたがよく読まないで帰りました。
戦争が終われば、敵も味方もないのだ・・といった心情が吐露されていたように思います。

私が1945年8月を迎えたのは4歳の時ですから、私の少し上の世代とは違い戦争の記憶はごく例外的なことだけです。
1945年8月1日、富山市の空襲の折に、田舎(富山県高岡市福岡町)に疎開していて父母のいた富山市一帯が焼けるのを遠く防空壕の入り口からみていた記憶があります。

義父にあたる方は、鹿児島県大隅半島の人でしたが、軍から帰ったときは病を得ており、帰国後すぐ亡くなりました。妻は父親の顔を知りませんし、90歳となった義母は要介護2で認知症となっていますが・・女手で子どもを育ててきた一生でした。大隅半島を転々と教師として勤務した義母なので、妻は子どものころ両親と一緒に過ごした期間はごく僅かでした。

最近の世相をみていて
もっとも心配なのは先人達が多くの犠牲を払って得た平和な社会が足元から崩れていることです。それは、「戦争の危険」というよりは「社会の存立の危機」といった感じすらします。

その兆候は
私のブログでブックマークしている皆さんの最近の記事からもうかがえるように思います。

私のブログ名は「1979Bonn」というのですが
38歳になってヨーロッパの地で過ごすこととなった私のその後の人生を決めることとなったのが3年間のドイツ滞在です。
=「1979年」にドイツの首都(当時の西ドイツ)ボンに住んだこと=
これが、その後30年近くになるのですが、その思いは今も変わりません。

ひと言で言うのは難しいですが
それは、おなじ戦争に敗れた国であるドイツ社会と比較して日本社会が「社会の軸」を失っているという感想でした。
その一番の違いは、福祉の分野でも顕著でしたし、それは今日でも事情は変わっていないように思われます・・

このブログでは、これまでそのような「社会の軸」に関するような議論を避けてきましたが・・
そろそろ、「福祉の原理」を自分の頭で考えるためにも、避けてとおれないのではと考えるようになりました。

そのひとつのきっかけになるのが、
きょうのタイトルです。


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2千数百万の犠牲者 (genesislife)
2008-12-03 23:00:24
右側に有る石碑には第二次世界大戦で亡くなった2千数百万の人々の霊を慰めるためと再びこのような惨事を引き起こさないようにとの誓いの意味を込めて建てたという文言が書かれています。

この石碑には秀吉の朝鮮出兵に参加した島津義弘が日本と朝鮮の犠牲者を弔う石碑を高野山に奉納した事も書かれています。

祇園之洲には薩英戦争で亡くなった9名の英国側の犠牲者の供養塔が有りましたよね。

昔から薩摩人は敵に対しても礼を尽くす事を忘れませんでした。

それは東洋のネルソンと称された東郷平八郎にも伝承されています。

※マッカーサーは東郷を尊敬して
 いたと聞きます。

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