介護福祉は現場から 2007.02.22-2011.01.25

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社会福祉の歴史【吉田久一 その11】

2008-08-22 12:37:32 | 政治社会
社会福祉の歴史
第11章 pp.241-260
西暦では、1926年から1936年、昭和初期ですね。

吉田久一先生のタイトルでは、
「昭和初頭の資本主義的危機、準戦時体制への移行と社会事業」
とあります。

最初読んだときは、歴史的事実が並んでいたのですが、
読み返して愕然としました。
あまりに2008年の現在に似ている・・
1926年から2008年 ざっと80年前ですが
例えば、なくなった父は明治44年(1911年)生まれだから、この昭和初期には学生だった頃か。母は92歳で元気ですが、旧制女学校へ通っていた頃か。

第10章までは
昔話だが、基礎的な事実を知っておこう
という程度の認識でした。
今回は違う。
もう、2008年8月22日の今日に直結。

【政治】
5.15事件というのがあって、軍部がノーを突きつけた。
吉田先生はこの事件を政党の腐敗・不信ととらえ、さらに時代の精神的な退廃まで、そして、社会不安と政策的要求としての社会保障の必要性を関連づけている。
今の政権与党の末期的な現象やかたや野党の党内民主主義も成立してなそうな状況で私達は昭和初期を笑えない。

【経済】
戦後最長の景気回復は終わった・・と政府が発表したが、地方に住んでこのところ景気がよかったとの実感はないですね。

1929年 世界的な恐慌。
日本でも失業のピークは、1932年だった。(失業月報)

【社会政策】
救護法が成立したのが1929年、実施されたのは1932年だった。
成立した法律には施行期日は空いていた。
*ごく最近、国会は年金法を成立させたが、国庫負担率引き上げの条項は、いまだに実施されていない。

救護法によって
1931年 明治のじっ救規則での救済は  30534人
1934年 新法の救護法で        232056人と急増した。

当時の保護課長灘尾弘吉(後の文部大臣)は、
被救護者は、要救護者の3分の1に過ぎないといっている。p.250

【今につながること・・】
児童虐待 1930年ごろ内務省の推計 そのおそれある児童:11926人
貰い子殺し事件→1932年 児童虐待防止法

1937年 北海道旧土人保護法の改正(旧土人小学校の廃止など)
1930年 国立長島愛生園の開設

1932年 全日本方面委員会連盟 委員数29254人(委員1人のケース15)

【社会連帯思想の欠如】
この時代、軍部の思想。ドイツやイタリアのファッズムの引き写し。インテリ層の観念論。マルクス主義・・
といろいろあったが、時代を切り開く思想は生まれなかった。逆に、戦争の準備と植民地にも日本思想を広めた。

アメリカは、1929年の不況に際して、1935年社会保障法を作った。医療保険こそできなかったが、失業保険や年金制度は社会の安定に寄与した。

私の師匠(自称)であった、故伊部英男先生(年金局長と社会局長をしている。昭和18年大学卒。学徒出陣の世代)は、かねがね、
・今の日本は、昭和の初期と似ている
・救護法の施行が(3年も)遅れなければ(娘を身売りする家庭も少なく軍部も不満を抑えられた・・)満州事変は起こらなかった
といっておられた。
吉田先生も、1915年生まれだから、このあたりからの記述は歴史というよりは同時代記のおもむきです。


*写真は、安曇野

安曇野カンポンLIFE

の8月21日付け記事からお借りしました。

**今日、8月22日は、なき父の誕生日だったことを書き始めて急に思い出しました。偶然ですが。
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