【きっかけ】
「岩清水日記」(岡山&京都)で初めて知った藤本一司『介護の倫理ー贈与・身体・時間ー』(北樹出版、2009)を読んだことは、先日書きました。
*第2839号(2009.05.10)第2844号(2009.05.11)
本書を「これまで読んだ3冊の本に入る・・」と書きました。
残る2冊とは、
★細川瑞子『知的障害者の成年後見の原理』(信山社、2007)
★加島祥造『タオー老子』(ちくま文庫、2006)
です。
いずれも、このブログで感想のような読書日記を書いています。
*細川:
2007.12.21から2008.04.15まで20回
*加島:
第2211号 2009.02.05
第2240号 2009.02.12
第2320号 2009.02.22
【42歳の時抱いた疑問】
当時、(1983年)厚生省の老人福祉課長というポストにあって、しかも、1年で次のポストに代わることも予見されていました。
かなり以前から、行政官の日常に、まずは肉体的に、そして精神的に限界に来ていたので、なんらかの決断を必要としていました。
仕事として眼前にあったことをこなすうちに、それまで出合った多くの人たちと、(いまでいう)介護関係の人とには大きな違いがあるように思われました。
それが、論理的にはどんなことなのか、当時は、わかるよしもありませんでした。
ぼんやりと、「自分がこれまで会った人たちと違う」「そのことを知った以上何かの方法でその世界とつながりを持つ方法がないか」「行政にいて責任を全うすることこそ回答では」と、青春の頃のような葛藤が続きました。
結局、大幅な異動時期であり、決断するならば、そのときしかない、と自己都合の退職をしたのでした。
【論理的な回答の手がかり】
信頼していた役所の若い世代からは「敵前逃亡」だといわれましたし、多くの(組織でつながった)友人を失いました。
井上千津子さん(当時は、ホームヘルパーの組織におられた。いまは京都女子大学)から退職直後に「よかった」と、励まされたのが昨日のようですが、やはり嬉しかったですね。
「何故、人は、経済的に引きあわず、社会的にも評価されず、肉体的にも厳しい仕事なのに、あのように笑顔で、人の世話(いまでいう介護)をし、それでいて世話をしている人(ケアを受けている人)を敬ってさえいるのだろうか?」
それは、うまれつきだ。
そういう両親に育てられたのだ。・・だから、自分はできない。
そういう乱暴な論理を自分で作っていました。
【時間】
今度の、藤本氏の本の最大の特色は、「論理」で説明しようとしていることですね。しかも、抽象的になりがちな論理の展開を丁寧に工夫してなんとかわかってもらおうとしています。
私は、まだ、1度、いわば通読しただけなのですが、最後の方の「時間」という概念を入れての説明が斬新に思いました。
【いろんな読み方が・・】
最近ブログを始めたばかりの、どりーむ さんの記事(5/13)に本書のことが書かれています。岩清水さん のコメント(5/13)もあります。
想い・思い・おもい
どりーむさんといい、岩清水さんといい、介護の現場で働かれながら、深い教養がブログの底流に見えています。
私自身は、介護の現場も知りませんし、介護政策を勉強していた時代はあるのですがいまは「介護六法」をひもとくこともないのです。ですから、このテーマで書くのはどうかな、と疑問です。
しかし、『介護の倫理』にであって、永年の疑問が論理的に解けそうな気がしてきて、この数日は頭の中が晴れやかです。その結論と同時に、解きほぐしていくプロセスが自分にあっていますね。
【独立したカテゴリを】
というわけで、はなはだ論理的でない?説明ですが、折を見て、『介護の倫理』をテキストとしながら、とりとめもなく考えてみるカテゴリをつくった次第です。
*細川瑞子『知的障害者の成年後見の原理』は、大部の本でした。20回このブログで書きましたが、まだ3分の1程度の理解でしょうね。精神的な元気が回復したらまたチャレンジしたいです。社会や世界との接点が魅力ですね。
⇒次回以降、目次のはじめの方から順次始めます。
「岩清水日記」(岡山&京都)で初めて知った藤本一司『介護の倫理ー贈与・身体・時間ー』(北樹出版、2009)を読んだことは、先日書きました。
*第2839号(2009.05.10)第2844号(2009.05.11)
本書を「これまで読んだ3冊の本に入る・・」と書きました。
残る2冊とは、
★細川瑞子『知的障害者の成年後見の原理』(信山社、2007)
★加島祥造『タオー老子』(ちくま文庫、2006)
です。
いずれも、このブログで感想のような読書日記を書いています。
*細川:
2007.12.21から2008.04.15まで20回
*加島:
第2211号 2009.02.05
第2240号 2009.02.12
第2320号 2009.02.22
【42歳の時抱いた疑問】
当時、(1983年)厚生省の老人福祉課長というポストにあって、しかも、1年で次のポストに代わることも予見されていました。
かなり以前から、行政官の日常に、まずは肉体的に、そして精神的に限界に来ていたので、なんらかの決断を必要としていました。
仕事として眼前にあったことをこなすうちに、それまで出合った多くの人たちと、(いまでいう)介護関係の人とには大きな違いがあるように思われました。
それが、論理的にはどんなことなのか、当時は、わかるよしもありませんでした。
ぼんやりと、「自分がこれまで会った人たちと違う」「そのことを知った以上何かの方法でその世界とつながりを持つ方法がないか」「行政にいて責任を全うすることこそ回答では」と、青春の頃のような葛藤が続きました。
結局、大幅な異動時期であり、決断するならば、そのときしかない、と自己都合の退職をしたのでした。
【論理的な回答の手がかり】
信頼していた役所の若い世代からは「敵前逃亡」だといわれましたし、多くの(組織でつながった)友人を失いました。
井上千津子さん(当時は、ホームヘルパーの組織におられた。いまは京都女子大学)から退職直後に「よかった」と、励まされたのが昨日のようですが、やはり嬉しかったですね。
「何故、人は、経済的に引きあわず、社会的にも評価されず、肉体的にも厳しい仕事なのに、あのように笑顔で、人の世話(いまでいう介護)をし、それでいて世話をしている人(ケアを受けている人)を敬ってさえいるのだろうか?」
それは、うまれつきだ。
そういう両親に育てられたのだ。・・だから、自分はできない。
そういう乱暴な論理を自分で作っていました。
【時間】
今度の、藤本氏の本の最大の特色は、「論理」で説明しようとしていることですね。しかも、抽象的になりがちな論理の展開を丁寧に工夫してなんとかわかってもらおうとしています。
私は、まだ、1度、いわば通読しただけなのですが、最後の方の「時間」という概念を入れての説明が斬新に思いました。
【いろんな読み方が・・】
最近ブログを始めたばかりの、どりーむ さんの記事(5/13)に本書のことが書かれています。岩清水さん のコメント(5/13)もあります。
想い・思い・おもい
どりーむさんといい、岩清水さんといい、介護の現場で働かれながら、深い教養がブログの底流に見えています。
私自身は、介護の現場も知りませんし、介護政策を勉強していた時代はあるのですがいまは「介護六法」をひもとくこともないのです。ですから、このテーマで書くのはどうかな、と疑問です。
しかし、『介護の倫理』にであって、永年の疑問が論理的に解けそうな気がしてきて、この数日は頭の中が晴れやかです。その結論と同時に、解きほぐしていくプロセスが自分にあっていますね。
【独立したカテゴリを】
というわけで、はなはだ論理的でない?説明ですが、折を見て、『介護の倫理』をテキストとしながら、とりとめもなく考えてみるカテゴリをつくった次第です。
*細川瑞子『知的障害者の成年後見の原理』は、大部の本でした。20回このブログで書きましたが、まだ3分の1程度の理解でしょうね。精神的な元気が回復したらまたチャレンジしたいです。社会や世界との接点が魅力ですね。
⇒次回以降、目次のはじめの方から順次始めます。
「何故、私は、経済的に引きあわず、社会的にも評価されず、肉体的にも厳しい仕事なのに、仕事場では笑顔で、他人様の世話をできるのだろうか。そして、世話をしている認知症の方々を尊敬したり、友人のような感覚を抱いたり、心配で頭から離れなかったりするのだろうか?」
共感するところがあったので、言い換えさせていただくと、こんな風になりました。
他業種から転職して3年、5年と介護職をしながら、辞めようと思ったことがないのは我ながら不思議でした。
それは園芸療法というライフワークとしての目標があるからかな、と思っていました。
でももしかしたら、別の惹きつける何かが「介護の倫理」にあるのかもしれませんね。
‘ソーシャルワーカーの価値と倫理’を勉強し始めたところなので、アンテナが反応しました。
それにしても、大人になってからの私には読書量が足りないと反省しきりです。
コメントありがとうございます。
「認知症」の方々の事例をはっきり入れると一層問題がはっきりしますね。藤本氏の本も、お母さんの認知症の介護が話の基底にあります。
私の場合も、義母のことがあってはじめてこの本を理解しようとしたのだと思います。
私はソーシャルワークの価値と倫理の方は疎いのですが、ベースは細川瑞子さんの本から学んだように思います。
どこかで、ソーシャルワークと介護の倫理を統合的にとらえられるのでは?
さらに、それは社会政策の課題ともつながってくるのでは?
藤本氏の本には、そのような展望も抱かせます。
本当に、なぜだかはわかりません。
厚労省等にも、本当に介護保険制度に携わっている人たち、すなわち、私たちが制度の疑問に対して出す質問に応え、Q&A等を作ってくれている、厚労省の「現場」にいる人たちはもいるだろう。その人たちは、何日も家に帰れず、ワイシャツを何枚も持ち込んで仕事をしている、とも聞きます。
それなのに、どうしてこんなにも介護・福祉の現場と、政治や行政とが乖離してしまっているのだろうと思うときがあります。
誰かが財源の面から介護・福祉を論じることも必要なのだと思います。だからこそ、現場の私たちは、倫理や価値を論じて、それらが両輪として社会に働くことが望まれるように思います。
「日常生活を支援する」「○○を実施していること」「○○を尊重して行うものとする」etc.
法律等では、ここまでしか書けないのだと思います。それらをどう具体的に行動するのか。それが、実践領域にいる私たちの課題であり、可能性だと思います。
ついて行くのに必死になるとは思いますが、このカテゴリーについても、一緒に考えさせていただければと思います
「質の高い」サービスとは何か,ですが,介護技術だけで見れば,それなりのものはどんな事業所でも提供できると思われますので,ソーシャルワークの「倫理」や「価値」に基づいたサービス提供ができるか,が「質」的に高いサービスなのだろうと,勝手に思っています。
非常に抽象的なのですが,最終的に「質」を論じるとここに落ち着くように思えます。(引用ここまで)
なかなか「倫理」「価値」と介護(ソーシャルワークもそうですが)を結びつけていくことや,日々の実践の何をさして「価値のある実践」なのか,「倫理に則った実践」なのかを具体的に説明することは,難しい作業だと思うのですが,それを結びつけたり説明できるようにしていくのが,「現場」の役割でしょうし,「現場」をとりまとめていくのが「研究機関(大学)」の役割なのだろうと,勝手に思っています。
そんな一翼を担えたら,と考えています。
コメントありがとうございます。
ご指摘の通り、法律で書ける部分は限定されますね。
援助技術の分野での蓄積は無視できないものがあると思います。
今度の藤本さんの本は、「哲学」というべき分野かもしれませんね。社会の現実に向かい合う哲学。
コメントありがとうございます。
最後は、個別のサービス提供者のレベルに帰着するでしょうが、一人の人間の日常をみつめる仕事は全人格をかけたものでしょうね。
話は、「価値」と離れるようですが、現在の社会の浪費や芸能化ははなはだしく、どうしてもっと社会性のある部分への投資ができないのか?と思います。
「価値」は、結局、その社会の哲学にいきつきそうです。
ブログ上ですがお知り合いになったのは、ずいぶん前のような気がします。
厚生省を退職されたことは何度か記事で読ませていただきましたが、以下の文章は初めてのように思います。
「自分がこれまで会った人たちと違う」「そのことを知った以上何かの方法でその世界とつながりを持つ方法がないか」「行政にいて責任を全うすることこそ回答では」
このように思っておられる行政の方は少なからずおられると思いますが、実際に退職し、転職される方はほとんどいらっしゃらないのでは
ないでしょうか。
貴重な体験をされたことと思います。
そのことが、「坂之上の昼下がり」の優しさに
なっているのかもしれません。
私も学ばせていただきます。
コメントありがとうございます。
東京から鹿児島にきて3年。
東京で会っていた友人達と直接会う機会もなくただ寂しい人生の終盤を予測する日々でしたが
ブログによって広い世界を知ることができいささかの勇気をもてたことは何よりでした。
毎日
岩清水日記をはじめブックマークの方のブログ
そのまたリンク先などを読み
広い世界を知ることになりました。
Maa-chanさん、tamagoさん、BuraBuraさんのように実際にお会いしたブロガーも何人かおられます。
それにしても
藤本氏は
ドイツに居られたことや
私が北海道にいたことなど接点もあったように思います。
「意味をつかもうとする勉強」ではなく
「考える素材に出会った」というつもりで本格的に取り組みたいです。
先生をして退職されることへと駆り立てた思いというもの、先生が心を寄せる方々のいったい何に先生が惹きつけられておられるのか、そのことが響いてまいります。
「他者への敬意」、そのかたちとしての「笑顔」(あなたを迎えいれること)というものは、「私を差し出すこと」へと真っ直ぐに向かわせるということを、あらためて教えていただいたように思います。
(コメントはすぐアップされます。私の不手際でした)
こめんとありがとうございます。
「介護の倫理」の影響が続いています。
何度か書いたのですが
新しいブログ「坂之上の夜明け」は
その最たるものです。