第3652号 twitter小説 厚生省 (1)~(9) の続きです。
写真は、おそ松な日々Ⅱ 2010.04.19 からお借りしています。
☆ ☆ ☆ ☆
【大川小川事件】
小説厚生省
(10)保険局長室は、新庁舎5階の中庭側にある。岡村三郎が緊張してノックした。局長の小川新一郎は、窓の方を向いていた。「君、出身はどこかね?」と短い一言をかけただけだった。実は、この直前、小川局長は、山田厚生大臣から辞任をつげられたばかりだった。
小説厚生省
(11)世に言う「大川小川事件」である。小川新一郎は、保護課長時代に生活保護法をつくりあげ、その解説書『生活保護法の解釈と運用』は、後に至るまで生活保護のバイブルとされた。日本医師会とのトラブルの責任を取る形で、大川事務次官とともに辞任した。
小説厚生省
(12)その日の午後、厚生省5階の大会議室に保険局の職員が集まっていた。岡村の属する保険局庶務課のS課長が、涙声で、将来は事務次官と周囲から嘱望されていた俊秀の筆頭局長の突然の解任に無念さをにじませた。官僚の人事権は大臣にあるという事実が示された日であった。
【国会答弁草稿】
小説厚生省(13)
2009年秋、民主党政権の誕生で、中央省庁の行政官と政治家との関係は大きく変わった。これは、昭和40年頃の、自民党政権盤石なころの話である。衆議院本会議場で加藤栄吉総理大臣が、所信表明への代表質問に答えている。医療費問題をめぐって政府の対応が問われた。
小説厚生省(14)
加藤総理は、「臨時医療保険審議会を設置して根本対策を推進したい」といった答弁をしている。手元には、答弁の下書きが用意されている。あの答弁メモは誰が書いたのだろうか?まだ、パソコン・ワープロの無い時代のこと、清書したのは、それぞれの部局の若いスタッフである。
小説厚生省(15)
岡村三郎が、昭和40年6月に、厚生省保険局庶務課企画係に配属になって最初にしていた仕事にその国会答弁案の清書という仕事があった。清書という作業は30部程度のコピーや編纂という物理的な作業でもあるが、実は、その中身の文案自体も入省1年目の岡村が作成したものだった。
【企画係】
小説厚生省(16)
役所の中ではハンコが重要で些細な供覧文書にも押印しているが、もっとも重要な国会答弁案については、直接担当課長まで決裁をあおぐことも稀だ。総理大臣あての質問の場合は、内閣参事官室(昭和40年当時)のOKが要る。省内では、大臣官房文書課の総括補佐の了解が要った。
小説厚生省(17)
当時、医療保険問題の質問が多かったが、岡村の文案のまま、厚生省大臣官房文書課の課長補佐までみてもらえばOKであった。新しい質問であれば、係長に見てもらい、課長補佐が見ればOKだった。その係長は自治省(現在の総務省)から出向していた梅本善一だった。
小説厚生省(18)
梅本善一は、昭和36年自治省入省組。自治省財政課長などを経て奈良県知事を長く務めた俊秀だった。遅くまで酒をともにして、まだ独身だった梅本のアパートに泊まった夜もあった。何十巻もある「地方自治資料集」があたりを圧していた。係長といっても、部下は、岡村を含め2人だけだ。
写真は、おそ松な日々Ⅱ 2010.04.19 からお借りしています。
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【大川小川事件】
小説厚生省
(10)保険局長室は、新庁舎5階の中庭側にある。岡村三郎が緊張してノックした。局長の小川新一郎は、窓の方を向いていた。「君、出身はどこかね?」と短い一言をかけただけだった。実は、この直前、小川局長は、山田厚生大臣から辞任をつげられたばかりだった。
小説厚生省
(11)世に言う「大川小川事件」である。小川新一郎は、保護課長時代に生活保護法をつくりあげ、その解説書『生活保護法の解釈と運用』は、後に至るまで生活保護のバイブルとされた。日本医師会とのトラブルの責任を取る形で、大川事務次官とともに辞任した。
小説厚生省
(12)その日の午後、厚生省5階の大会議室に保険局の職員が集まっていた。岡村の属する保険局庶務課のS課長が、涙声で、将来は事務次官と周囲から嘱望されていた俊秀の筆頭局長の突然の解任に無念さをにじませた。官僚の人事権は大臣にあるという事実が示された日であった。
【国会答弁草稿】
小説厚生省(13)
2009年秋、民主党政権の誕生で、中央省庁の行政官と政治家との関係は大きく変わった。これは、昭和40年頃の、自民党政権盤石なころの話である。衆議院本会議場で加藤栄吉総理大臣が、所信表明への代表質問に答えている。医療費問題をめぐって政府の対応が問われた。
小説厚生省(14)
加藤総理は、「臨時医療保険審議会を設置して根本対策を推進したい」といった答弁をしている。手元には、答弁の下書きが用意されている。あの答弁メモは誰が書いたのだろうか?まだ、パソコン・ワープロの無い時代のこと、清書したのは、それぞれの部局の若いスタッフである。
小説厚生省(15)
岡村三郎が、昭和40年6月に、厚生省保険局庶務課企画係に配属になって最初にしていた仕事にその国会答弁案の清書という仕事があった。清書という作業は30部程度のコピーや編纂という物理的な作業でもあるが、実は、その中身の文案自体も入省1年目の岡村が作成したものだった。
【企画係】
小説厚生省(16)
役所の中ではハンコが重要で些細な供覧文書にも押印しているが、もっとも重要な国会答弁案については、直接担当課長まで決裁をあおぐことも稀だ。総理大臣あての質問の場合は、内閣参事官室(昭和40年当時)のOKが要る。省内では、大臣官房文書課の総括補佐の了解が要った。
小説厚生省(17)
当時、医療保険問題の質問が多かったが、岡村の文案のまま、厚生省大臣官房文書課の課長補佐までみてもらえばOKであった。新しい質問であれば、係長に見てもらい、課長補佐が見ればOKだった。その係長は自治省(現在の総務省)から出向していた梅本善一だった。
小説厚生省(18)
梅本善一は、昭和36年自治省入省組。自治省財政課長などを経て奈良県知事を長く務めた俊秀だった。遅くまで酒をともにして、まだ独身だった梅本のアパートに泊まった夜もあった。何十巻もある「地方自治資料集」があたりを圧していた。係長といっても、部下は、岡村を含め2人だけだ。