介護福祉は現場から 2007.02.22-2011.01.25

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60、70は花なら蕾ごあんど

2007-08-02 17:29:04 | 大隅半島→別ブログ
「60、70は、花なら蕾ごあんど、しっかりきばいやったもんせ」
(60歳・70歳といっても、花でたとえると、まだ、つぼみのようなものですよ。
 しっかり、がんばってくださいな)

今年、日本学士院賞を受けられた九州大学名誉教授の
秀村選三先生の
『幕末期薩摩藩の農業と社会ー大隅国高山郷士守屋家をめぐって』
(2004年、創文社。685ページ+索引38ページ。13,000円+税)
の「あとがき」にでてくる守屋家のおばあさんが秀村先生を励まされた言葉。

この本は
家内の田舎である高山(こうやま。現在は肝付町)の縁で
前から持っていたのだが、なにぶん厚い本でそのままにしていた。
夏休みになり、やっと大筋を読み終えた。

薩摩藩の研究でも統治者の藩の側からの記録は
膨大な文書から資料集として刊行されている。
しかし、秀村先生が専門としている「農村経済史」の視点からの
文書は少なく、研究も乏しい。

この本は、もともと秀村先生の学位論文を本にしたもの。
現在84歳の先生が、80歳になってまとめたものだ。
「守屋舎人日帳」(対象とする年代は、1825年から1871年)と
「耕作日記」(1808年から1870年)の2つを基礎文献としながら
江戸末期の生活、仕事、農事、祭事、年中行事、親戚付き合いなど
民俗学の研究とも重なる内容に及ぶ。前者は、秀村先生の校注で
刊行されている(全11巻)。

明治4年、高山郷(島津藩にあった102の外城(とじょう)といわれる
統治地域のひとつ)には、5668人が住んでいたが、このうち武士は1260人で
実に人口の22%が武士である。
薩摩藩でいうと、26.3%で、全国平均の4%台とは大きく違う。
薩摩は武士の国であった。(農事もした百姓だが・・)

膨大な本からブログ1回では要約も無理ですが・・
・薩摩の支配機構は、中世からのものだ。
・農民の自立度は低かった(百姓一揆が少ない)
・農民的商品流通が未熟
など、今日の鹿児島県を理解するヒントもあるようだ。

京都大学時代の旧友(鹿児島出身)との出会いなど
この研究の誕生のいきさつについては、「南風録」
(南日本新聞の1ページ下欄のコラム。2007.03.31)にも
触れられている。
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