某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

明智藪

2019年03月23日 19時39分20秒 | 史跡めぐり


小栗栖。
明智光秀、終焉地。




        
近江坂本城主、明智光秀は(1582年)天正十年六月二日早朝、中国地方へ出陣のため、上洛していた織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた(本能寺の変)。
その後、光秀は六月十二日山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、近臣十数名とともに暗夜に乗じて坂本城をめざしたが、途中小栗栖の附近にさしかかったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃によりあえない最后を遂げたといわれている。
この明智藪は、今日に到るまで戦国武将明智光秀の終焉の地として傳えられており、現在は西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領となっている(案内板より)。 
   


  

しかし、光秀最期の地とされる小栗栖を、伝承ではなく史料で確認できるのは甫庵「太閤記(1626年)」、「豊鑑(1631年)」、「池田氏家譜集成」「別本黒田家譜」「明智軍記(1688年~1702年頃)」といった後世の二次的な編纂物ばかりである。
  
同時代の一次史料で確認すると、
➀「醍醐の辺」 兼見卿記 6月15日条
②「勧修寺在所」 晴豊公記・日々記 6月15日条
➂「醍醐辺」 言経卿記 6月15日条
④「山階」 多聞院日記 6月17日条
➄「上ノ醍醐」 蓮成院記録 6月14日条
⑥「山科藪中」 高木文書 6月19日付
以上から、山崎合戦直後には、光秀は醍醐もしくは山科あたりで最期を遂げたと認識されていた。いずれも小栗栖と近接するが、一次史料に拠る限り、その最期の地は定かではない。
<参考文献>
桐野作人『真説 本能寺』、学研M文庫 2001年、238頁-239頁




明智光秀を主人公にした2020年大河ドラマ「麒麟がくる」に備えてか、明智藪周辺は、ショベルカーが大活躍・・・。竹林が伐採され、土が剥き出しという惨状。
あまり観光地化して欲しくないのだけれど。。。




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